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2003/08/01 産経新聞朝刊
【国連再考】(5)第1部(5)ソマリアの惨劇 平和の手 住民たちが拒む
 
 ソマリアの首都モガディシオでの国連平和維持活動にからむ戦闘がどれほどむごく、すさまじかったことか。米国映画「ブラックホーク・ダウン」の息をもつかせぬ戦闘シーンからも、その血なまぐささの一端はうかがわれる。この戦闘は国連のあり方に関して一つの歴史的な転機を画すことともなったのだった。
 一九九三年十月三日の日曜日午後、インド洋に面した海岸都市モガディシオの中心街、さんさんと注ぐ陽光の下、群衆のあふれる地域に米軍のヘリ部隊が飛来した。中型輸送用ヘリのブラックホーク機の編隊からデルタフォースやレンジャーという特殊部隊の兵士合計百人ほどがロープを使い、するすると降り立つ。
 米軍兵士たちは市場近くの三階建てビルを急襲し、部族軍閥アイディード将軍一派の最高幹部二人を捕らえて連れ去ることが任務だった。作戦は一時間で終わる予定だった。だが群衆の間から黒い影のようにわき出た武装ゲリラたちに激しい銃撃を受けた。ブラックホーク機八機のうち二機は対戦車用ロケット砲を撃ちこまれ、墜落した。
 米軍特殊部隊は攻撃目標のビル周辺で包囲され、猛攻撃をあびる。市街で激戦が起きれば、ふつう市民たちはクモの子を散らすように逃げるのだが、モガディシオでは逆に老若男女が戦闘地域に大群を成して集まってきた。アイディード将軍配下のゲリラたちはその群衆にまぎれて、米軍に攻撃をかける。混乱きわめる激戦が翌未明まで十五時間も続いたのだった。
 世界最強を誇るはずの米軍特殊部隊は十九人が戦死し、七十七人が重軽傷を負った。わずか数キロの地点にある米軍基地からの救援部隊も市街を埋めつくした群衆のために現地に到達できなかった。ソマリア側の被害もすごかった。死者は五百人以上、負傷が一千人以上と推定された。
 米軍兵士たちの死体は歓声をあげるソマリア市民たちにより街路を引きずり回された。その映像は米国内でも流され、強烈な反発と怒りを生んだ。とくに激しく叫ばれたのは自国の若者たちが自国と縁のないソマリアの「平和」のためになぜこんなふうに戦い、殺されるのか、という疑問だった。この米軍の軍事作戦はそもそも国連の平和の維持や執行の範囲内での活動だったからである。
 人口七百万のソマリアでは強権弾圧のバーレ政権が九一年に倒れたが、そのあとに権力を握ろうとしたモハメド暫定大統領派とアイディード将軍派が全土で内戦を繰り広げた。死傷者が激増し、国土は荒れ果て、大量の餓死が出た。
 九二年四月には国連安保理が人道支援と停戦実施の決議を通し、同年七月から翌九三年にかけて第一次、第二次にわたり三万人もの国連平和維持軍を送りこんだ。だがアイディード派は停戦の求めに応じず、国連のパキスタン部隊に攻撃をかけて、その将兵二十二人を殺した。このため国連側もアイディード派を軍事制圧する方針となった。
 米国は一時は二万五千もの部隊をソマリアに送り、内戦の平定を目指した。先代ブッシュ政権からクリントン政権への政策の継続だった。米軍は国連の多国籍部隊とはいちおう指揮権は別だとされていたが、国連の広い傘下には入っていた。その米軍が平和執行部隊として九三年十月、アイディード派の幹部二人の身柄拘束へと向かったのである。
 だがその結果は国連が平和のオリーブの枝を手渡そうとする相手側が住民ぐるみでロケット砲を撃ち放ってくるという手厳しい事態となった。米国のクリントン政権はソマリアからも国連の平和活動からも、やがて身を引いていく。米国のこのUターンには深刻な意味があった。
 冷戦の終わりで国連での米ソ対立が解消され、イラクのクウェート攻撃への国連を軸とする多国籍軍の反撃が成功し、国連の平和維持の効用が初めて生まれた、という期待が国際社会に広まっていた。ところがモガディシオでの事件は文字どおりその期待を血で流し去った。
 この事件を詳細に伝えた書「ブラックホーク・ダウン」の著者マーク・ボウデン氏が総括として当時の米国務省高官の所感を伝えていた。
 「住民がそもそも平和を欲しなかった。彼らが欲したのは勝利であり、パワーだった。ソマリアの経験は特定地域での悲惨な事態があくまで住民たちの責任で起きることを教えてくれた。憎悪と殺戮(さつりく)が続くのは住民たちがそれを求めるからだ」
(ワシントン 古森義久)
 
 
 
 
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