1993年7月号 THIS IS 読売
殿下の「恋愛」の現代史的意義
山折 哲雄(やまおり てつお)(国際日本文化研究センター教授)
ユサフ・カーシュの撮った肖像写真に、エリザベス女王とフィリップ殿下が並んで立っているのがある。場所はバッキンガム宮殿のミュージック・ルーム、女王夫妻はともに左向きに立って、右側の顔面だけをみせている。
端正で折目正しい肖像写真であるが、顔の表情を側面から浮かびあがらせようとしているところに、何となく自由な雰囲気が漂っている。
こういう「顔」の演出は、わが国の皇室の場合はあまりおこなわれなかったのではないだろうか。なぜなら天皇・皇后の正規の肖像写真は、ほとんど正面から撮られるのが通例だったからである。仏像や神像が正面からみられ礼拝されるように、歴史上の天皇影もまた側面からではなく正面から拝すべきものと考えられてきたからである。
その伝統は、今後もそのまま引きつがれていくのであろうか。それとも変化していくのだろうか。
平安時代のことから考えてみよう。天皇が皇后をめとるときは、皇室流儀の手続が必要とされた。いきなり結婚というところにいくのではなかった。
まず、お妃候補が選ばれ、入内(じゅだい)という手続がとられる。入内というのは、一定の儀式をへて天皇が住む内裏に入るということだ。後宮入りである。入内した段階で、皇后、中宮、女御の地位に指名される。もともと中宮は皇后の居所のこと、女御は天皇の寝所に勤める女官をいったものだが、やがてそれぞれ皇后の別称とされるようになった。後宮勤めの女性が複数いたので、その間に等級の差を設けるため使い分けられる場合もあった。
◆権力見取り図だった藤原時代
このような制度の下では、天皇の結婚は儀礼的には入内の段階から皇后などの指名までを含むことになり、その全体の輪郭がかならずしも明瞭ではない。王妃指名の優先順位もそのときどきの政治状況に左右されやすかった。
たとえば摂関期における第六十六代の一条天皇(在位、九八六〜一〇一一)の場合をみてみよう。天皇ははじめ藤原道隆の娘・定子を中宮に入れ、清少納言の『枕草子』で知られる宮廷文化の花が開いた。が、やがて道隆が死ぬと弟の道長が勢力をのばし、娘の彰子を中宮にして定子の手から正妃の地位を奪ってしまう。この時期、その彰子の家庭教師として活躍したのが紫式部であった。そしてこの彰子との間に生まれた皇子が、のちの後一条天皇になる。藤原道長の栄華の時代が訪れるのである。
皇室の結婚が摂関家の意のままにされていたといってよいだろう。権力の座にある摂関家が娘を入内させることで、皇室の権威を掌中にしようとする政略結婚であった。新しい外戚関係の樹立といってもよい。要するに婚儀とは、権力の配置図を絵に描いたように浮彫りにする儀礼であった。
もう一つ例をあげよう。江戸初期に皇位についた第百八代の後水尾天皇の場合である。当時、新時代の到来とともに、朝廷と幕府の間に緊張が高まっていた。そこで両者の融和をはかるため、二代将軍徳川秀忠の第八女・和子が入内することになった。元和六年のことであり、天皇二十五歳、和子十四歳であった。幕府はこのころ「禁中並公家諸法度」を制定して、朝廷のしきたりをコントロールしようとしていた。それがたび重なり、天皇はいくどか譲位の意志をあらわしていた。そして寛永六年、三代将軍家光の乳母(春日局)が無位無官のまま上洛し参内したのに端を発し、天皇はついに幕府に相談することなく内親王に譲位してしまった。女帝・明正天皇が誕生したのである。知らせをきいて秀忠と家光は驚いたが、外戚横暴という後世の悲報をおそれて、その処置を認めざるをえなかった。
みられるとおり後水尾天皇と徳川和子の結婚は、武家による公家の懐柔もしくは融和政策の一環であった。がその反面、天皇も将軍家の姫を質にとった形で、自己の要求を押し通したところがあった。事実、幕府側から朝廷と公家にたいする優遇策を引きだすことに成功してもいるのである。
私は、後水尾天皇と徳川和子の結婚によって生みだされた遺産に二つあると思う。一つは先述したように女帝誕生の原因をつくったということである。天皇が譲位を決意したとき、後継ぎの男子がいなかったからである。それはまさに、奈良時代の孝謙・称徳女帝いらいの出来事であった。
その第二が、天皇の学問・芸術にたいする精進が美しく実を結んだということにかかわる。天皇は和歌の道をきわめて歌集を出し、修学院離宮の造営にも力をそそいでいる。幕府から経済的支援を引きだすとともに、譲位して上皇になったあとは四代にわたって院政をしき、将軍家との間も円滑に事を運ぶことに意を用いた。文化天皇が誕生したのである。
周知のように、天皇の役割は明治維新を転機として大きく変化した。権威と権力を統合する絶対君主としての顔がクローズアップされるようになったからだ。その明治天皇の結婚はどのようなものであったのか。
◆草案過程で消えた「女帝誕生」
天皇の正妻は、江戸時代から皇族または五摂家の出身という慣例ができていた。まず女御になり、中宮、皇后と昇格していくのである。このような正妻の候補者がいない場合は、典侍(すけ)、掌侍(ないし)の女官のなかから側室を選ぶしきたりだった。たとえ正妻がいても、子孫ができなければ側室にたよることになる。側室には定員があって、典侍が五、六人、掌侍が四人となっていた。
明治天皇の場合は、慶応三年(一八六七)に一条美子が女御に選ばれ、翌明治元年十二月になって入内し皇后となった。のちの昭憲皇太后である。ときに天皇は十七歳、皇后は二十歳であった。
しかし皇后には子どもができなかった。そのうえ側室から生まれた皇子や皇女たちも、つぎつぎと夭折の悲運に見舞われた。やっと明治十二年になって、側室の一人柳原愛子から第三皇子、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王が誕生した。のちの大正天皇である。それまでに、五人の母から四人の皇子と六人の皇女がもうけられていたが、そのうち八人までが世を去っていた。そのうえ嘉仁親王も病弱であった。
このように明治天皇の結婚には明暗の影が色濃く立ちこめていた。それは伝統的なしきたりからくるものだったが、正妻・側室の制度が天皇の結婚を不透明な膜で覆うことになっていたのも否めない。ときの政治情勢も見定めがたく、皇位の継承問題が不安定なままであることに政府はいらだっていた。
そういう状況をうけ、明治二十二年になって「皇室典範」が制定されることになる。そこでは最終的に、皇位は男系の長子相続によることが明記されることになったが、しかしその結論に達するまでにはいくつかの曲折があった。なぜなら明治十年代においては、右にのべたように明治天皇のあとを継ぐ「男系の長子」が確たる見通しのなかに姿をあらわしてはいなかったからである。
それにかんして、ここでとくにふれておきたいことがある。「皇室典範」を審議する過程で、女帝誕生の可能性がひそかに探られていたという問題がそれだ。飛鳥井雅道氏の『明治大帝』(筑摩書房)によると、明治十九年、憲法作成に重要な役割をはたしていた伊藤博文のところに、皇族中に男系が絶えるときは皇族の女系をもって皇位の継承にあてるという案が提出されていたという。明治天皇の皇子がつぎつぎと夭折していたことが、おそらくそうした発想の背景に横たわっていたのであろう。万が一の場合の安全策として、そのような提案がなされたのである。それに、女帝誕生の伝統はすでに推古天皇の時代にはじまり、さきにみた明正天皇の場合でも経験ずみであった。しかしながらこの女帝条項はどうしたわけか、やがて草案の過程でしりぞけられてしまう。男系による長子相続というイデオロギーが、明治という国家・社会を方向づける重要な機軸として設定されていくのと、それは呼応する措置であった。
もう一つ、「皇室典範」の作成をめぐって論議されていたのに、皇位の継承をめぐる嫡出か庶出かの問題があった。それがさきにのべた正妻・側室の制度にかかわっていたことはいうまでもない。これには微妙な問題が含まれていたが、明治以後の公教育では一夫一婦のあり方がしだいに強調されるようになっていた。天皇だけに例外を許すと、天皇と国民のあいだに溝が深まることになる。そういう不安を解消するためにも、皇室の結婚に新しい時代の理念を導入しようとする気運が高まっていった。
◆大正天皇に始まる神前結婚
大正天皇の婚儀は、そうした動きのなかで挙行された。明治三十三年、公爵九条道孝の四女・節子(さだこ)とのあいだに成婚の儀があげられたのである。親王は二十歳、節子妃は十五歳であった。のちの貞明皇后である。
このときの結婚式は神道式であったが、それに先だち日比谷大神宮の神宮において模擬結婚式が華族女学校の生徒たちによっておこなわれている。神前結婚式という形式を、大正天皇の成婚を機に一般に普及しようとの意図が政府にはあったのであろう。しかしこのせっかくの試みも、一般には普及しなかった。それが国民のあいだで人気をえるようになるのは昭和に入ってからである。今日われわれの生活に定着している神前結婚式は、一夫一婦の理念にもとづく大正天皇の結婚に端を発しているのであって、意外と新しい形式なのである。
しかし皇室が、神前で夫婦の誓いを交わす形式をみずから演出したことの意味はけっして小さくなかった。夫婦の契りという近代西欧の流儀が日本古来の神道儀礼と結びつけられたからである。このときの婚儀(正式には大婚式という)は納采の儀、宮中三殿への奉告の儀、告期の儀などをへておこなわれ、式の当日には宮中三殿への立后奉告の儀、后氏入内の儀、賢所大前の儀などが定められていた。
やがて時代は明治から大正へと移り、昭和天皇のご成婚を迎える。大正十三年のことで、皇后は久邇宮邦彦殿下の第一王女・良(なが)子女王であった。大正天皇の場合と同じように、皇室親族令にもとづく神前結婚式であったが、その後まもなく昭和天皇の意向でお局(側室)制度が廃止されている。大正天皇の結婚は先述したように一夫一婦制によるものであったが、伝統的な後宮制度はまだそのままのこされていた。それが昭和天皇の代になって完全に廃止され、名実ともに近代的なライフスタイルが軌道にのることになったのである。
周知のように昭和天皇は、戦前は三軍を統帥する白馬にまたがる君主、そして戦後はソフト帽をかぶって国民のあいだを巡幸する象徴天皇、という二重の役割をはたした天皇であった。そしてそれと同じような状況が結婚生活にも反映していたことに注意しよう。なぜなら一方では皇后を皇族のなかから選ぶという旧来の伝統にしたがい、他方でお局制度を廃して一夫一婦の実現に意を用いられたからである。
◆「近代化」頂点のミッチーブーム
そしてこの近代化の流れがクライマックスに達したのが、今上天皇と美智子妃のご成婚のときだった。昭和三十四年、皇居の賢所で神道の古式ゆたかな国家儀礼としておこなわれたことは記憶に新しい。当時の皇太子殿下のいでたちは、黄丹袍(おうにのほう)に黒い垂纓(すいえい)の冠をつけ、右手に笏をもつというものだった。たいして美智子妃殿下はおすべらかしの髪型に五衣御唐衣、御裳(十二単衣(ひとえ))を召された。
この賢所での式を終えたあと、両殿下は仮宮殿で両陛下との対面すなわち朝見の儀にのぞまれた。親子の契りをかためる儀式である。このあと皇居から渋谷の東宮仮御所までの八・一八キロを、馬車にのってパレードした。オープン・カーのうえでは、皇太子殿下は燕尾服に大勲位菊花大綬章を、妃殿下は白い洋服に勲一等宝冠章をつけ、まさにお色直しの趣向で国民の前にその盛大なご婚儀を披露されたのであった。
ここで留意すべき第一点は、お二人の結婚がテニスコートによって結ばれた恋とかミッチーブームと騒ぎ立てられたように自由恋愛にもとづくものであったということだ。しかも皇太子妃の出身は旧華族でも旧大名衆でもない、財界の庶民の出であった。
皇后は皇族か五摂家から、というそれまでの古い慣例が、このとき完全に払拭されたといってよいだろう。昭和天皇の時代まで歴代の皇室をしばってきたしきたりが打ち破られたのである。ほとんど空前絶後といってもよいようなミッチーブームがおこったとしても当然のことであったといわなければならない。
それからもう一つ、妃殿下が聖心女学院というカトリック系学校の卒業生だったことが大きな話題を呼んだ。それは皇室における結婚の条件として、宗教の垣根をとりはらううえでも貴重な意味をもつものだった。象徴天皇制を国際社会に位置づけていくうえでも思わぬ効果をあげたのではないだろうか。
やがて時代は昭和から平成に移る。天皇・皇后を中心とする家族団らんの光景が、国民の前にクローズアップされていった。それがこんどの皇太子殿下と小和田雅子さんの結婚へとつながった。思えば、皇室は長い道のりを歩いてきたといえるだろう。そのうえ新しい皇太子妃は高級官僚の家の出身で、有能な外交官。かつてのミッチーブームにかわるマサコブームがおこりつつあるが、それも前回ほどの熱狂ぶりではない。皇室における結婚の近代化路線がようやく安定軌道にのったということを、それはあらわしているのかもしれない。
ただむろん、この平成の時代には、それなりに内外の新しい動きが進行していた。国内政治と対外交渉に、あつれきと対立がほとんど恒常的に発生するようになっていたことは周知のことだ。そこへ突然ふってわいたように、現役の外交官出身である皇太子妃決定のニュースが日本国中を走ったのである。皇太子の結婚がほとんど世俗次元をこえる聖なる慶事として迎えられようとしているのも、理由のないことではないのである。
◆「果実」の行方に国民の期待
その聖なる慶事の表舞台では、今回も心あたたまる愛の物語がつむぎだされていた。近年の「恋愛論」ブームを思いおこそう。非婚や未婚が話題になり、男女雇用機会均等法が浸透することで、結婚の抑圧と恋愛の賛美が背中合わせになっていることも、そのようなブームの一つの引きがねになっているのではないだろうか。その屈折した感情を一挙に解放するような物語が、主役の二人によって提供されたのである。
この愛の物語はこうして、日本の皇室がようやくにして手に入れた近代そのものを象徴する物語といってよいだろう。雲の上のロイヤル・ファミリーの日常を、国民の眼前にほとんどリアルタイムで照らしだす契機をつくったからである。しかし同じころ海の向こうのイギリスでは、チャールズ皇太子とダイアナ妃をめぐる愛の破局の物語が進行していた。エリザベス女王の心配をよそに、二人はついに別居という事態を迎えていた。それにくらべるとき、海のこちらの日本においては、皇室の家族間、夫婦間の安定度は抜群に高い。英国王室に学んだはずの皇室が、いまや昭和から平成への二代にわたる愛の物語を栄光の座に押しあげようとしているのである。
しかし実をいえば、愛の破局の物語も愛の成就の物語もつまるところは近代という鏡に映る同質のストーリーではないのか。なぜならそれはともに、王制の世俗化が生みだす必然的な結果であるからだ。
その世俗化の果実を、これからの皇室がどのように受けとめ、どのように守り育てていくのか、両殿下にそそがれる国民の期待はきわめて大きいのである。
◇山折哲雄(やまおり てつお)
1931年生まれ。 東北大学卒業。 東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授を経て、現在、国際日本文化研究センター所長。
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