1989年2月号 新潮45
あっという間の「皇位継承の儀」−「らしさ」がまったくない!
山折哲夫(やまおり てつお)(国際日本文化研究センター教授)
「近代日本のエトスは一貫している」
新天皇は、先皇の逝去と同時に皇嗣が即位するという新憲法下の皇室典範四条によって、自動的に皇位を継承した。そして、旧憲法下で剣璽渡御の儀と定められていた三種の神器の伝達は、同じく皇室典範二十四条(「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」)に基づいて剣璽等承継の儀と名称が変えられ、昭和天皇の崩御三時間半後の七日午前十時から皇居内の松の間で行われた。所用時間わずか四分。テレビに映し出された新天皇はモーニング姿。まるで事務的な引継ぎ式でもしているようなあっけない光景だった。事務的でありながら、しかし、実に手際よく神器は新天皇へと受け継がれたのである。その手際のよさに私は驚かされた。もっとも、視聴者の多くは、政府側から法律上合法的に即位したと説明されたし、マスコミもそのように報道したから、なんとなくこういうものなのかと受け取られたかもしれない。
テレビ中継を見ながら、私は、いつしか目の前で行われている新天皇の即位の仕方と、イギリスの王位継承のプロセスとを比べていた。現在のエリザベス女王の父親のジョージ六世が亡くなったのは、一九五二年二月六日。王位継承者のエリザベスは、当時、王室外交でケニアに行っていた。イギリス議会は直ちにエリザベス宛てに、王位継承会議(アクセッション・カウンシル)を開いていいかどうか、その許可を求める電報を打つ。エリザベスは返電をするわけだが、そのとき、署名を「エリザベス」にするか「エリザベス女王」にするかで議論があった。結局、彼女は、直ちに自分が王位を継承するのだという立場を取って、「エリザベス女王」と署名した。
ところが、イギリス議会は、これを無視する。議会を開くにあたっては、普通、国王に対して忠誠を誓う言葉を述べるのだが、王位継承会議を開くための議会は、それを省略した。つまり、その段階では、エリザベスを国王として認めていない。各国大使館に継承会議を開くということを知らせる時も「エリザベス女王」の名は使わない。国王は、王位継承会議が決めるのだ、という立場に立っていたからである。
イギリスでは、王権の側の論理と国民の総意を代表する議会の側の原理とがせめぎあっている。そのせめぎあいは、かならずしも争闘の形を取っているわけではなく、あくまでも形式的ゲームの色合が強いものだが、少くとも王権移譲の場面では、王の側と人民の側の二つの立場というか原理が対立するという構造になっている。
日本は、イギリスと同じような立憲君主制をとっていると言われたりする。しかし、今回の即位ではそのような拮抗の場面が全くみられなかった。民間からは、新しい天皇を国会が認めるという形をとるべきではないか、という意見もあったが、国会はそういう動きをしていない。革新政党の一部の人はそういう立場に立つのだろうが、ほとんど問題にされていない。マスコミ報道も、そのあたりの原理的相違をクローズアップさせることもなかった。
そのような報道を抑制させ、議会がそういう行動に出ないでいることを、深層の部分で支えているのが、日本国民自身なのである。国民の意識が、いわば先取りするような形で事態をそのように進行させてしまっている。つまり、皇太子は生まれながらにして天皇になるのだという原理が、イギリスにおける王位継承の場合とは比べものにならないくらい深層の部分で働いているのである。今回の即位の仕方をみていると、そのことが非常にはっきりしたような感じがする。
その精神構造の祖型を、私は、明治維新にみる。
明治憲法発布前に、天皇をどう位置付けるかということについて、伊藤博文が枢密院で演説している。その中で、彼は、憲法を作るためにヨーロッパ各国に調査に行ったときの感想を述べて、次のように言っている。
ヨーロッパの憲法の基礎になっているのはキリスト教である。キリスト教は、民族や国民を統一させるうえで、非常に重要な役割を果している。で、日本の帝国憲法もキリスト教に対応するようなエトス(精神)というものを基軸にもってこなければならない。それは一体何か、と。
キリスト教に対応するものとしては、例えば仏教とか神道とかがあるが、これらはもはやヨーロッパ的な憲法(日本はドイツの憲法を手本とした)を支える精神的基軸たりえない。それに替り得るものは天皇制だけである、と言っている。
天皇は神聖にして犯すべからず、という命題が出てくる背景には、西欧世界におけるキリスト教にあたるようなものを前提とする発想がまずあった。伊藤博文は、憲法の基底に国民を統合するための宗教的要素が欠かせないと考えたわけだ。日本国を支配する政治家としては透徹した人物だったといえる。彼以後の政治家は、その判断を踏襲してきた、あるいは、同じようなパターンで対応してきたという感じがする。
戦後、皇室典範が改正されて、天皇が崩じたとき皇嗣が即位すると、なにげなく規定されたわけだが、これは天皇の「万世一系性」というものを最も端的に表わしている言葉である。それを、今回の即位のドラマははっきりさせたように思える。敗戦は、旧憲法と新憲法を分ける分水嶺のような時点だと言われるが、エトスの面から言えば、日本の近代は、現在に至るまで一貫していた。
天皇制という見事な配電盤装置
これまで述べてきたことからもわかるように、天皇制は支配の装置としては、ユニークな構造をもっている。この装置の構造について少し考えてみたい。
アメリカの政治人類学者でコーネル大学教授のベネディクト・アンダーソンは、著書『想像の共同体』の中で、国家というのはそれぞれ独自の支配装置を持っていると指摘している。
いろいろな配線や電極のある装置があって、そのスイッチを押すと支配のメカニズムが多元的に働きだすと彼は言う。その装置を「配電盤」と彼は名付けた。
例えば、ソビエトロシアの場合。革命によってロマノフ王朝をひっくり返した後、指導部は王朝の支配の中心であったクレムリンに入り、支配の象徴としてのその装置を最大限に活用して、ソビエト全土を支配している。クレムリンという配電盤をロマノフ王朝が利用し、社会主義政権も利用し続けているというわけである。中国でも然り。国内に政治的危機が起きた場合、指導者は天安門に集まって会議を開く。天安門という王朝時代の配電盤の部品をそのままの形で利用しているのである。カンボジアの過激な社会主義政権だったポルポトの一派は、政策の遂行にあたってジャヤバルマン王朝時代のシンボルをデザインした旗をフルに使った。結局、イデオロギー(支配思想)が全く異なるにもかかわらず、支配する装置としての配電盤は同じものが使われたわけであり、スイッチを押す人間が変っただけだと、アンダーソンは言うのである。
その関連で言えば、日本という国家の支配の装置、配電盤はまさに天皇制ということになるであろう。それは象徴天皇制ということで戦後も引継がれていると私は思う。
ただ、クレムリンや天安門の場合は支配の主(ぬし)は変ったが、天皇制の場合、天皇はずっと配電盤に組込まれたままである。そのスイッチを押した人間は、平安時代には藤原氏であったし、鎌倉時代は源頼朝、さらに徳川家康、明治以降は伊藤博文以降の代々の政治家たちであった。
天皇制は、独自の性格をいろいろもっているけれど、アンダーソンのように支配の装置として考えた場合、ソ連や中国のケースとも、西欧の王権国家とも関係が出てくるわけで、そのような普遍的な観点から天皇制も把えないといけないと私は思う。そのうえでその特殊性を考えた場合、どういうことがあげられるだろうか。
欧米の王権論でしばしば登場する二つの概念がある。アクセッション(accession)とサクセッション(succession)である。前者は、王が亡くなるとすぐ次の王に即時的に権力が委譲される儀式。王位が継承された後、それを内外に宣言する。つまり、継承を社会化し、国際化する。それがサクセッション。それがすなわち即位の大礼である。かっての伝統的用法で言えば、践祚がアクセッションで、即位の礼がサクセッションになる。
ところが、戦後の皇室典範では、天皇が崩じたとき皇嗣が自動的に即位するということにして、アクセッションとサクセッションを一緒にしてしまった。この点はあまり注意されていないが、私は、非常に巧妙な法律の運用の仕方だったと思う。
さらに、日本の皇位継承の場面では、アクセッションとサクセッションの問題のほかに、さまざまな伝統的な儀礼を行う。その一つが、かっての剣璽の渡御、今回の剣璽等承継の儀であり、元号制定であり、大嘗祭である。
三種の神器を受け継ぐ剣璽等承継の儀と類似した現象は、イギリスの王位継承の場面でもある。例えば、王冠を被り、王笏を手にするレガリアの移譲。これは西欧の王権移譲の場面では必ず登場してくる。だから、剣璽等承継の儀自体は、天皇制特有のものであるとばかり言えない。
しかし、剣璽等承継の儀、つまり剣璽渡御の儀は、旧憲法下では践祚(アクセッション)の場面で行われたのに、今回は新天皇が即時的に即位をしてしまった後で、典範二十四条によって儀礼的にそれを追認するような形で行われた。儀礼を伝統的文脈から切り離したのである。それがあのあっという間の、伝統的文脈から言えば悪しき折衷主義的な儀礼として示されたわけである。このことは、伝統的文脈から切り離すことによって、逆に、即時的に皇嗣が即位するという重大事をすっと通してしまったと考えるべきだろう。改正皇室典範は、イギリスの場合のような王と、国民の代表である議会がそれぞれ持つ原理、二つの原理が存在する可能性を前もってすでに、封じてしまっているとも言えるのである。
第二の特殊な装置が元号制である。
明治以降一世代一元号制が確立し、昭和五十四年の元号法制定で、それが再び継承された。これは天皇の「万世一系制」、つまり、切れ目のない天皇位の継承を合理化する装置として働く。明治から大正、大正から昭和、昭和から平成へと元号は継ぎ目なく流れ、天皇位が継ぎ目なく移って行く。西暦に統一した方が便利だというのは枝葉末節の議論であって、大事なことは、元号制が「万世一系制」を合理化する制度として定着したということの方である。
しかも、その合理化に国民がかかわっている。形式的にではあるが、国民各界各層の代表者を集めて承認を得て、衆参両院議長にも相談して国民合意のうえで平成という元号を決めたという形をとった。巧妙な手口であると思わざるを得ない。
おそらく、世界で元号制度を残している国は日本だけであろう。天皇制が王朝の交代を経験せずに万世一系の形で今日まで続いてきたという自信と伝統。そういうものに裏付けられて国民も元号に従っているということだろう。天皇制がそのことで強化されて行く仕掛けになっている。
大嘗祭は、今後の問題であるが、この儀礼の根本的観念は、天皇霊を継承するということにある。これも西欧の王位継承の場面では、ほとんどみられない。アジアの場合ではチベットのダライ・ラマの継承にみられるぐらいで、天皇制の天皇制たる由縁、根拠を示す最重要な継承原理であろう。剣璽等承継の儀、「万世一系制」を法的に強化しようとする元号制、それに天皇霊の継承。この三つの儀礼、パフォーマンスによって王権を継承し、安定させ、保証し合理化していくという、この全体が天皇制という配電盤装置である。社会主義政党、例えば社会党が政権を取った場合、はたしてこれだけ便利な配電盤を全部放り投げるようなもったいないことをするだろうか。ひょっとすると共産党も別の形で使うかもしれない。これほど見事な支配装置はそうはないからである。
侍医は現代の加持祈祷僧だった
昭和天皇は、一年半近く闘病生活を送ったわけだが、天皇の肉体性が新聞やテレビを介してこれほど赤裸に広く、一般の人々の目に映し出されたことはかってなかった。われわれ普通の人間の肉体の場合と同じように、天皇の肉体の推移を一般の人々が考える機会でもあった。病気になって肉体が衰えて死んでいくというプロセスは、デス・エデュケーションの最良の機会だったとも言えよう。同時に、現代医学の残酷さのようなものも浮きぼりにされたように私には思える。
侍医らの報告では、できるだけ天皇に苦痛を与えずに臨終を迎えるよう導いたというが、普通の人間ならもっと早くに息絶えていたかもしれないというときに、あれだけ延命したことは、最終場面で天皇にとっていいことであったのかどうか、どうしても疑問が残る。
国会で税法などの法律が全部通過した後であったとか、また、正月が明けていたとか、学校が姶まる二日前だったとか、土曜日だったとかと、崩御の日時のタイミングをめぐってさまざまな臆測が流布されている。そういうことを聞くと、私は自然に殯(もがり)のことを考える。
古代には天皇が亡くなったとき、皇位継承者が決まらず王権の継承がスムースに行われない場合、遺体を埋葬しないままで置いた。それを殯と言った。天武天皇の場合、二年二ヵ月殯の状態になっている。皇嗣が死んだり、複数のライバルがいたりして、次の持統天皇が即位するまで適当な継承者が見つからなかったのである。皇位の空白期間があったと言っていい。
なぜそういうこと(殯)が可能だったかというと、私の解釈では、殯期間中は天皇は肉体的には死んでいても、社会的には死んでいないと考えられていたからである。二年二ヵ月を経て持統天皇が継承者に決まり、それと同時に天武天皇は埋葬され、それで社会的にも死んだと宣言された。このような伝統的文脈から言えば、昭和天皇が病気になって、次の天皇が政治的、社会的混乱もなくスムースに皇位につけるような状況を作る、つまり、天皇の社会的な死をコントロールするというような政治的知恵がここで出ても不思議ではない。ただ、近代社会ではそれをあからさまにもちだせないのである。
話が脇道にそれたが、戦後の歴史学を含めて、従来、天皇の権威については二つの代表的な見方があったように思う。一つは、津田左右吉の考え方で、天皇の権威は高貴な皇位という地位に由来するというもの。もう一つは、折口信夫の説で、折口は、その権威は高貴な地位に由来するのではなくて、天皇に継承されてきた天皇霊の尊厳さ、高貴さに由来すると説く。天皇霊は、神武天皇以来継承され、それを受け容れる容器が天皇の肉体だと言うのである。しかし、津田左右吉はこの天皇における肉体性を無視した。
戦後の日本の歴史学は、津田説が主流だったが、それだけでは天皇の権威を十分に把握できないという反省からか、最近では、左翼の方でも折口説を取り入れる動きが出ている。
私は、両方の説にそれぞれ意味があると考える。しかし、大事なのは、大嘗祭の問題は折口説でないと解けないということである。
大嘗祭は、よく知られているように、天皇の代替りの時に行われる儀礼である。宮中に悠紀殿、主基殿という殿舎を作り、両殿に十一月下旬の卯の日に天皇がこもって或る秘儀をする。その社殿に天皇の休む寝所が作られ、しとねとふすま、つまり布団が置かれる。後継者の日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)、つまり新天皇になる人物が、その資格を完成するために寝床にひきこもって物忌の生活に入る儀礼である。
両殿にこもるときに天照大神をはじめとする天神地祇を勧請し、その神々にその年に穫れた穀物を捧げ、神々と一緒に食べる。食べた後、こんどはその寝所に横になって休む。天照大神と一緒に休むということである。つまり神々と供食供寝する。やがて布団をはね上げて起き上ったときに、完全な新しい天皇として誕生するということになる。折口信夫は、両殿にこもったときに亡くなった天皇の霊魂が新しい天皇の肉体に移し入れられるのだと言っている。
新たに継承した天皇霊は、こんどは毎年秋になって行われる新嘗祭で活性化される。その年に穫れた穀物を神々と一緒に食べて強化するわけである。だから、供食というのは穀物の再生を願うということでもある。それが天皇の権威の源泉であり、支配の装置としての配電盤の中核である。
伝統的文脈からすれば大嘗祭をやらないことには、天皇は天皇にならないということになる。これがどういう形で行われるか、今後大いに問題となるところであろう。大嘗祭は、天皇の内部霊のコントロールという仕事の総仕上げであり、伝統的文脈では神職が神道方式で行う。国事でやるとすれば、神道色を抜かなければならないし、神道色を抜いた場合、はたして大嘗祭たりうるかという問題が出てくる。
天皇の霊については、もう一つ重要な儀礼を考える必要がある。
平安時代以降、天皇は毎年正月の第二週の八日から十四日までの一週間、後七日御修法(みしほ)という儀礼を行ってきた。後七日というのは、正月元旦から七日までの一週間、神道の方式にのっとって正月の節会(せちえ)(前七日の正月の節会)を行った後に実施されたからで、これは密教僧によって行われた。天皇の肉体にとり憑いた邪霊、悪霊を内裏の中の紫宸殿近くの真言院という修行道場で、加持祈祷によって駆除するというものである。
最初は、天皇がそこにおでましになって、直接加持祈祷を受けていたが、後代になって天皇の着物だけを持って行き、それに加持祈薦をするというように変化した。これを御衣(ぎょい)加持という。その着物を着ると、外部から天皇の肉体に憑いた悪霊が排除されると考えられたのである。一種の病気治療である。古代では病は悪霊、邪霊の憑依と考えられていた。
ようするに、天皇霊が年末の新嘗祭で強化されるのに対して、正月の第二週に行われる御修法では外部から憑いた悪霊が排除される。つまり、二種類の霊が天皇にはかかわっていた。その内部霊と外部霊をうまくコントロールするとき、初めて天皇が健康な天皇になり、王権がそれによって安定するというのである。
現在では、後七日御修法は行われていない。明治以降宮中で行うことをやめ、江戸時代にはやったりやらなかったりしていた。明治時代は、神道主導の儀礼主義者の主張が通って、仏教儀礼が排除されたのである。
ただ、それにもかかわらず天皇は病気になる。この、平安時代以降、後七日御修法を行った加持祈祷僧に対応するのが、明治以降の近代の医者なのである。昭和天皇の闘病生活の中で現代医学と医師の果した役割は大きかったが、彼らの役割は伝統的文脈と伝統的観念から言えば、現代の加持祈祷僧と言えるだろう。天皇にとり憑いたさまざまな病源体を排除するための専門家であった。内部霊、外部霊をコントロールする技術と装置は、これまでみてきたように、形を変えながら儀礼的にも伝統的にも今日まで受け継がれていると言っていいのではないか。そこに息づいている伝統的観念は今日の天皇制の深層を支えている重要な点だと、私は思う。
だれもわからない伝統排除の束の間儀礼
新天皇の皇位継承の儀礼をみていて気がついたのは、剣璽等承継の儀に象徴的にみられるように、その儀礼の中から伝統的な観念を排除していることだった。あの伝統排除の儀礼の流れをみているだけでは、どこにどういう観念や信念体系が含まれているか、だれもわからなかったにちがいない。政治家さえ、竹下首相さえわからなかっただろうと私は思う。
そういう意味では、天皇の崩御と同時に皇嗣が即位するという、あの一片の法律が大文字で演出され、最大限に生かされていたという気がする。そこには、伝統的観念とか儀礼的象徴性が入り込む余地はいっさいなかった。そして、即位を追認する形で、剣璽等承継の儀が行われたわけであって、その場面では、少くとも帝国憲法下の剣璽の渡御に含まれていた儀礼観念は払拭されていた。剣璽の渡御は、亡くなった天皇の権威がそれによって次代の天皇に移譲されると伝えられていた儀礼だった。非常に重要な儀礼で、践祚と同時に行われたのである。これに対して、今回は即位といういわば法的な事実とは切り離された形で、単なる儀礼として付加えられただけだった。近代における伝統的儀礼は、大なり小なりそういうような運命をたどるほかないのである。
にもかかわらず、天皇そのものは、あいかわらず特別な権威を有するものとして存在している。象徴天皇制がそもそもそういう役割を果す制度なのかもしれない。その制度は、新天皇即位直後の新聞の世論調査で八割以上の支持を得ているというが、近代的な観念を乗り超えて天皇を崇拝の対象、信仰の対象にしかねない可能性を持っている。外国人が天皇制の行く末に不安感を持つのは、そういうところからきているのである。
しかし、実を言えば、毛沢東でもスターリンでも権力を握ってしばらくたつと個人崇拝の対象になっていった。社会主義革命の指導者が、政治的文脈を離れて特殊な個人崇拝の対象になっていく事例をわれわれはたくさんみている。それはむろん社会主義体制の内部でだけではない。チャーチル、ルーズベルト、ド・ゴール、ケネディ、レーガン・・・。欧米諸国でも程度の違いがあるだけで、カリスマ的政治家、ヒーローたちが登場している。
近代の政治家は、伝統的観念や儀礼を媒介することなしに、しばしば超近代的な崇拝の対象になって行くことがある。ド・ゴールの場合にいたっては、死後も彼の墓地に巡礼する人が年間百万人にも達するというのである。墓碑にさまざまな供物が捧げられ、病気の子供をその墓碑に触れさせて病気治療を願う人たちもいるという。そこは聖地になっているのであり、彼は神のごとき扱いを受けている。
近代の政治的文脈の中で指導者がしばしば宗教的、超現世的なカリスマと化していくというこの現象。近代は、伝統的観念をどんどん脱色し無化していくわけだが、逆に近代政治の中では政治家自体がカリスマ化していく傾向をしばしば示している。近代は伝統的観念や儀礼を無力化し排除する一方で、新たなカリスマや神話を作る。王権論とか天皇制を考える場合、そのような両面性を全体的に把えることが肝要だと思う。
日本では、ド・ゴールとか毛沢東、スターリンといった政治家は現われなかった。それというのも天皇制という支配の装置の中では、最大のカリスマ性を体現しているのが天皇だったからである。日本における政治カリスマ誕生の可能性、あるいは政治カリスマに対する国民的な願望は、天皇がすべて吸い上げてきたといえるだろう。政治指導者が超現世的なカリスマ性をなかなか獲得できないというメカニズムが出来上っている。
日本における天皇制批判のむつかしさは、そういう日本に固有の問題があるだけではなくて、そもそも近代の政治が抱えている、権力構造と大衆との関連性の中にやっかいな問題が隠されているからである。
ところで近代の原理として、しばしば市民の自由とか平等ということが言われるが、それをラジカルに追求していくとかならず国家とかナショナリズムの壁にぶつかる。国家の機構が抑圧の機構になるときがそのときだ。政治というのはその両者の間の矛盾を加工しようとする装置であるが、それにもいずれ限界がくる。こうして大衆の自由願望がアナーキズムという爆薬をかかえ、またその平等願望がルサンチマンを次第に培養して、近代政治の合理性神話を破壊しにかかるだろう。
そういうアナーキズムやルサンチマンを、国家という枠組の中で統御しようとするとき、カリスマ登場の機縁が熟するといえるかもしれない。政治が宗教的文脈の中で語られる状況がやってくるのである。政治的熱狂が宗教的情熱とほとんど同一のメカニズムで作動しはじめるのである。
そういう無数の大衆の情熱の凝集点にカリスマが結晶し、マナ(呪力)の妖怪が輝きだすことになるわけだ。
この国では権力論、天皇論というのは、まだトバ口にさしかかったばかりである。とりわけ事務的で、伝統的観念を排除して行われた新天皇の即位の過程をみて、その思いを強くする。
構成・編集部
◇山折哲雄(やまおり てつお)
1931年生まれ。 東北大学卒業。 東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授を経て、現在、国際日本文化研究センター所長。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|