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1989/01/17 読売新聞朝刊
[天皇をみつめる世界](8)ハワイ 遠ざかる「昭和」(連載)
 
 旧日本軍の真珠湾攻撃で、太平洋戦争の戦端が開かれ、二千四百三人の犠牲者を出したハワイ。当時州人口の四割近くを占めながら、あらゆる差別に苦しみ、逆境に泣かされ続けてきた二世中心の日系人は、父と母の祖国が自分の祖国アメリカに宣戦布告するという、新たな重苦しい試練に直面した。
 当時十代後半から二十代前半だった二世たちは、米軍の徴兵を待たずに、率先して志願していった。それは「アメリカ国家への忠誠」という、一種の踏み絵を乗り越えるためだった。彼らの前線での活躍は、いまさら多言を要しない。
◆少ない天皇批判の声◆
 第一〇〇歩兵大隊や、第四四二連隊に参加した日系米兵たちは、過酷な前線に送られ、八百人にものぼる戦友を失った。ハワイ出身の戦死者のうち、八割までが日系兵士で占められた。二流市民のレッテルをはがすためとはいえ、多大な犠牲であった。
 昭和天皇崩御の知らせを聞いた彼らの胸中をよぎったのは、どんな感慨だっただろうか。
 第一〇〇歩兵大隊の一員としてイタリア戦線に参戦したベン・タマシロ氏(71)は「正直に言って、昭和天皇が長い苦しい病気から解放されて安らかに永眠されたので、かえって良かったとホッとしている」と、淡々と語った。同大隊OBの集まり「クラブ一〇〇」のスポークスマンでもあるタマシロ氏は「私個人としては、昭和天皇に何らのわだかまりも持っていない。許すとか、過去を忘れたとかいう問題ではなく、時代的背景と、その時の天皇のお立場を考えればいたしかたなかったと言うしかないからだ」。
 一方、真珠湾生存者協会アロハ支部のジョン・ハーバティ元支部長(73)も、同様の意見を述べた。
 「真珠湾攻撃は軍が頭越しにやったことだ。天皇ご自身ではどうされることもできなかったのではないか」
 同協会は、全米に会員一万。アロハ支部の五十人の会員のうち、二十人が週一回、交代で真珠湾に浮かぶUSSアリゾナ記念館に出かけ、ボランティアで訪問者の案内役を務めている。
 アリゾナ記念館は、日本連合艦隊の攻撃を受けて乗組員千人余りとともに沈んだ戦艦アリゾナ号の上に、一九六二年に設けられた。
 今でも、「なぜ、日本人を中に入れるのか」と不快感を口にする人が、年に一人や二人の割合でいる。
 そんな時、「長崎や広島を訪れるアメリカ人も結構多いではないか。ここを訪れる日本人は最高にマナーがいい。なぜ日本人が記念館を訪れたらまずいのか」と、逆に諭す場合が多いという。
 スター・ブレティン紙のフィル・メイヤー記者は、「私見では、ヒロヒトはヒーローである」と題するコラムでこう書いている。
 「大戦を終わらせたのは、二つの原爆ではなく、昭和天皇だった。彼は戦争に反対だった。防止できなかっただけなのだ」
 終戦直後、東京で二年暮らしたことのある同記者は「ヒロヒトは近代史のなかで、ただ一人戦争を言葉で終わらせた人物である。果たしてジョージ英国王、スターリン、F・D・ルーズベルトが彼らの兵士に戦闘中止を命じたとしたら、兵士たちは従っただろうか」とも書いた。
 一九七五年のハワイご訪問のさい、昭和天皇は真珠湾には立ち寄られなかった。しかし、皇太子時代に計四回もハワイを訪問された新天皇は、一九六〇年の二回目のご訪問時に美智子妃殿下(当時)とともに真珠湾に足を向けられた。
 日系人たちにとって、苦い戦時中の思い出と、政財界への華々しい進出とに彩られた「昭和の時代」は、日々に遠ざかっていくに違いない。実際、崩御の後、日本総領事館に弔問・記帳に訪れた人の数は決して多くなかった。
 同時に、崩御の際に“真珠湾のOB”や遺族たちなどから昭和天皇に対する批判、非難の声がほとんど聞かれなかったのも、英国、韓国、ニュージーランド、オランダなどとくらべて対照的ですらあった。ハワイでは、日系人にとっても非日系人にとっても、「天皇」に対して抱く思いや関心が加速度的に風化しつつあると、感じざるを得なかった。
(ホノルル・島中特派員)(おわり)
 
 
 
 
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