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1989/01/07 読売新聞夕刊
[社説]天皇陛下崩御を悼む
 
 天皇陛下は、八十七歳のご生涯を静かに閉じられた。
 ご回復を願う私たちの祈りも、陛下の強いご気力も、そして侍医団の最後の献身も、ついにむなしかった。皇居周辺は深い悲しみに沈んでいる。
 在りし日の陛下の、心にしみるような笑顔が改めて思い起こされ、惜別の念を禁じ得ない。心からご冥福(めいふく)をお祈り申しあげたい。
 光と影に包まれた「昭和」が今、六十四年の幕をおろした。
 長い歳月の中で、陛下と私たちは戦争と平和の時代を共に生き、それぞれの苦難と喜びの道を歩んできた。若者が、そしてかけがえのない人々が、大きな時代のうねりに飲まれていった。その日々を振り返る時、私たちの胸にある種の痛みとともに、さまざまな思いが去来する。
 陛下のご生涯はまさに、私たちの昭和そのものだった。
 第百二十四代天皇に即位された時にはすでに、未曾有(みぞう)の不況を背景に、軍靴の響きが迫っていた。満州事変、二・二六事件、日中戦争を経て、時代は、太平洋戦争の悲劇へと急テンポで進む。
 陛下は、繰り返し戦争への危惧(きぐ)を表明され、戦争準備よりも外交優先を説かれた。しかし、時代のうねりは、元首であった陛下の声をもかき消していく。
 そして敗戦。ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議が賛否同数に割れた時、陛下は「一人でも多くの国民に生き残ってもらう以外に道がない」と、受諾の断を下された。
 戦後は、新憲法のもと、日本国と日本国民統合の象徴となられた。若き皇太子時代、英国王ジョージ五世によって平和の尊さを心に刻まれた陛下には、象徴天皇の方がお似合いに思えた。
 二十一年の年頭詔書の「人間宣言」のあと陛下は地方巡幸に出かけられた。
 敗戦に打ちひしがれ、食糧難にあえぐ国民を励まし、勇気づけられるためだった。多くの国民はつかの間、厳しい現実を忘れ、いたる所で、陛下はもみくちゃになった。二十九年まで続いた巡幸はまた、戦争犠牲者への鎮魂と、悔恨の旅でもあった。
 長い復興の苦難を経て、昭和日本は高度成長から繁栄の時代を迎える。
 陛下にとっても、ようやく訪れた平穏の日々だった。
 皇太子殿下はじめ、お子さま方のご結婚、お孫さんの誕生が続いた。目を細められる陛下と、皇后さまのふくよかな笑顔に、国民は平和のありがたさをしみじみとかみしめた。国体に、植樹祭にと、陛下の誠実で温かいお人柄に触れる機会も多くなった。
 ご公務では、皇室外交にも大きな足跡を残された。フォード米大統領やエリザベス英女王など三十年代以降に相次いだ賓客の接待、あるいは両陛下そろってお出かけになったヨーロッパ、アメリカ旅行では、飾らないお人柄が人々をひきつけた。
 戦争で大きな犠牲を強いた中国、韓国などアジアの近隣諸国に寄せる陛下の思いは、限りなく深く重いものだった。五十三年、中国のトウ小平副首相(当時)との会見で、陛下は「大変不幸なこと」と自ら日中戦争に触れ、両国の末永い友好を望まれた。
 ご長寿、在位期間とも歴代で飛び抜けた存在だった陛下は、また「国民と共に」をだれよりも深く心に刻まれた天皇でもあった。象徴天皇制について、陛下が公に口にされたことはなかったが、常に控え目に黙々と責務を果たされた。
 象徴天皇制は、こうした陛下のご努力と、そのお人柄を敬愛する国民との自然な結びつきの中で定着してきた。
 昨秋、陛下が病の床につかれた後、ご平癒を願う数百万人の記帳の列が続き、各種行事の自粛も広がった。その一方で、戦争責任をめぐる論議もあった。三か月余のご闘病が投げかけたさまざまな波紋は、改めて陛下の存在感の大きさを物語るものだった。
 長く苦しいご闘病の中で、なお私たち国民に心をかけられた陛下。私たちは今、深い悲しみの中で、陛下とその転変の時代を思いつつ、新たな前進をお誓いしたい。
 
 
 
 
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