1987/10/25 読売新聞朝刊
尊い犠牲に思い切々と 天皇陛下のお言葉に「やっと気持ちに区切り」と沖縄県民
「深い悲しみと痛みを覚えます」。天皇陛下は二十四日、沖縄戦と戦後のアメリカ統治を乗り越えて来た沖縄県民に、率直な表現でご自分のお気持ちを伝えられた。ご病気のため、やむなくご訪問を中止された陛下。ご名代の皇太子さまは、十八万余柱が眠る摩文仁の丘で、陛下のお言葉を代読された。「これでやっと気持ちに区切りがついた」と声を詰まらせる人がいた反面、革新系の人たちが会場でのお出迎えを欠席するなど、沖縄の複雑な事情をのぞかせていた。
午後四時前、糸満市摩文仁丘南部戦跡の国立沖縄戦没者墓苑で、拝礼された皇太子ご夫妻は、約五百メートル離れた平和祈念堂へ。付近には近くの住民約千人が出迎え、戦跡を一望できる祈念堂入り口にご夫妻が立たれると、集まった歓迎陣から万歳の声があがり、「天皇陛下の御治癒を心からお祈り申し上げます」「天皇陛下のお言葉を心から感謝申し上げます」などと書いた横断幕を高々と掲げた。
皇太子ご夫妻は祈念堂内の平和祈念像前で、黙とうされたあと、県内の各界代表者百六十三人を前に、天皇陛下のお言葉を読み上げられた。
目を閉じてお言葉に聞き入る前知事屋良朝苗さん(85)。隣では県商工会議所連合会長の国場幸太郎さん(88)がお言葉の一つ一つにうなずく。
お言葉の伝達は二分たらずで終わったが、奉迎者たちは沖縄県民に対する陛下の初めてのお言葉に感極まった表情だった。
県遺族連合会会長の池原三郎さん(63)は、お言葉が「戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表する・・・」と、遺族へのいたわりの部分にさしかかると、目をしばたたかせて、聞き入っていた。
この日、ご夫妻が到着された那覇空港国際ターミナル前広場には海邦国体を成功させる県民運動会議(国場幸太郎会長)が動員した約六百人の市民が、日の丸の小旗を持って迎えた。一方で過激派の動きも活発なため、空港と周辺では、制、私服警官が早朝から巡回。那覇市街地と同空港を結ぶ国道三三二号線でも検問が設けられ、車のトランクなどをチェック、沖縄は終日、緊迫した空気に包まれた。
◆平和へ強いお気持ち/戦争責任“玉虫色”◆
前知事・屋良朝苗さん(85)(那覇市大道)「お言葉には、陛下の沖縄戦についてのお気持ちをなんとか伝えたい、という強い気持ちが感じられました。お言葉がこの南部戦跡で述べられたことに意義があると思います。平和に対するお気持ちの表れでしょう」
芥川賞作家・大城立裕さん(62)(那覇市首里)「(戦争責任について触れられていない点で)ある程度予想された内容だった。現在の天皇制の中で、陛下のご意思だけで内容が決められるものではなく“玉虫色”のお言葉になっている。この内容で十分に納得した人がどれだけいたかわからないが、もし救われる人がいたとすれば、それはそれなりによかったのではないか」
ひめゆり同窓会副会長・嶺井百合子さん(76)(那覇市古波蔵)「陛下はどうしても沖縄で遺族にお言葉をかけたいとおっしゃっていた。皇太子さまを通してのお言葉は陛下の真心で全県民へのねぎらい、遺族への哀悼だと受け取りました。私も主人と弟を沖縄戦でなくしていますが、それを乗り越え、平和な沖縄、日本をつくっていきたい」
島守の会会長・稲嶺成珍さん(78)(那覇市首里久場川町)「私も戦場に行ったが、お言葉で、長年心につかえてきたものが、癒える(いえる)思いがしました。殿下からも直接、お言葉をかけて頂き、沖縄について理解を示されていることに感激しました」
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