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終末期ケアを取り巻く現状と課題
2003年1月21日(水)
医療法人社団 花の谷クリニック
院長 伊藤真美
 
終末期ケアを取り巻く現状と課題
 
・病名告知と予後告知
・ギアーチェンジは誰のために
・在宅ホスピスと緩和ケア病棟のちがい
・サポーティブメディスンとパリアティブメディスン
・緩和ケアとリハビリテーション、そして地域へ
 
告知からインフォムドチョイスへ
 
 「ひさしぶりに寝てしまったんですよ」
 ソファに腰かけながら奥さんは笑った。入院の時に見かけたときより、表情がずいぶんと和らいでいる。聞けば、もう幾晩も夫の看病で寝ていなかったという。「ほんとは、お父さん、うちで過ごしたいと思っているんですよ。だけど、夜でも腰や背中に激しい痛みが三時間ぐらい続くから寝られない。苦しくなると不安になるみたいで、電気を消すとこわがるから、夜も灯りはずっとつけっぱなし。暗くしないでくれって・・・」
 六十一歳になる夫は腕のいい漁師。その夫が体調を崩し、ここに来る五年前に地元の病院で尿管腫瘍の診断を受け、紹介された総合病院で片側の腎臓の摘出手術を受けた。
 ふたたび漁に戻れたものの一年前に再発した。手術を受けた病院で定期的に検査を受けていたが、再発が見つからず、発見されたとき、医師からいきなり「手遅れだ」と言われたという。
 「夫は事実をきちんと知りたいと先生に言ったんです。患者として当たり前ですよね。だからって、『手遅れだ』ってそんな言い方はないでしょう?夫は言いましたよ、『先生、そんな言い方はねえっぺよ』って。悔しかったし、つらかったですよね。病院に対する不信感もあって、『あそこはもう嫌だな』って。入りたくないと言うので、昨日、こちらに来たんです」
 仙骨への転移が見つかったが、数ヶ月前までは少しずつ漁をつづけながら家で療養し、東京のがん治療専門のクリニックへ通院していた。しかし一ヶ月ほど前から痛みが激しくなり、ほとんど歩けなくなり、ここ数日は食事ものどを通らなくなってしまったという。
 「すごく痛がるんですが、お風呂だけはいいようで、浮力がつくから和らぐのかしら。いっしょに入ってあの人の頭を洗うと、やれ、耳の中に水が入ったとか、洗い方が悪いとか、うるさいことを言うんですよ。だから、『ごめんなさいね』って言ったら、お父さん、急に泣き出して・・・。俺は何もできないのにお前にうるさいこと言うなんて、情けない、悪かった、俺のわがままだって泣くんです。いいよ、いいよ、わがまま言っていいよって言うんですけど、私もいっしょに泣けちゃって・・・」
 ごめんなさいねと言いながら、奥さんの手の甲に涙がぽろぽろ落ちていく。
 「病人はやっぱり苦しくなるとわがままになりますよね。痛いとかって、自分の気持ちをこちらにぶつけてくるけど、私が声を出してわあわあ泣いたりはできないですよ。家には年寄りがふたりもいますから。夫の両親ですが、おじいちゃん、おばあちゃんがいるところで、私が泣いちゃうわけにはいかないですよ」
 そこまで言い終えて、奥さんはふうっと小さく深呼吸した。こうやっていつも気持ちの切りかえをしてこられたのだろう。
 「夫がなってみて初めてがんのケアはむずかしいなって思ったんです。うちでやれるところまでやろうと思ったんですが、苦しいのだけはどうしてもあげられない。ここに来て、昨日から食事がとれるようになったんですよ。痛みを和らげる薬をもらって。夜も睡眠剤を少しもらったら三〜四時間ぐっすり眠れたみたいで。『これなら苦しんでいることねえや。ちょくちょく睡眠剤もらって寝る方がいいや』って。うちにいたいとずっとこだわっていたんですが、本人も納得してね、昨日の晩、ほんとに眠れたんです」
 それがなによりよかったと話されたあと、「ちょっと、お父さんの様子を見てきますね」と奥さんは足早に病室へ向かった。
 
死にゆくプロセスへの支援
 
 支えるものがないと本当には生きられない
 「花の谷」で緩和ケア病棟を開いて四年が過ぎた。すでに二百人以上の方を見送っての実感は、その多くの人が「死ぬまで生きたい」と望まれていたことだったという。
 多くの方が最期までそれぞれの葛藤を抱えられていた、というのだ。
 「八十代、九十代近くになって、仕事をし、社会的な活動も十分に行い、子どもにも恵まれ、人生をやり通したと思われる高齢の方で、実際にご自身でも、『もういつお迎えがきてもいい』『早くお迎えが来ないか』、そうおっしゃっていらしいた方も、本当に死を受け止めて亡くなっていったかというと、決してそうではないと思うんです」と、院長。
 その間際に、何か訴えかけがあるのだろうか。
 「訴えではないのですが、感じるというか・・・。治療やケアによって症状緩和ができていて、痛みがなく、家族や友人に囲まれて、それこそ過不足ない人生を送ってこられた、そのように見える患者さんであっても、けっして笑って旅立たれるということは起こらない。みんなこの世に、生きていくことに未練があって、いろいろな思いをされていると感じるのです」
 たとえば、こんなこともあった。
 「最初に入院されるときから、『私はもう手術は受けません。抗がん剤治療もしません。もう死ぬ覚悟はできています』と、強い自覚と意志を持たれている患者さんもいらっしゃいます。身辺整理をし、一人で逝きますと語られていた方が、それでも身体が動かなくなり、思考が不自由になってくると、それまで望み続けてきた生き方が貫けないと言うのでしょうか。どうしてこんなことになったんだろうか・・・と強い葛藤が始まるんです。迷いというか、未練というか、そういう姿をお見せになって何かを訴えかけられる。そうした患者さんにどうしてあげたらいいのか、私は非常に困ったんです」
 困る・・・。「困る」ということを、もう少し聞いてみたかった。
 「なんと言ったらいいか・・・。亡くなる方が、私に対して何かを求めているわけではないのだと思います。でも、私はその人の葛藤というか、メッセージを感じているわけです。
 感じても、応えてあげようがない。この人のために今何をしてあげるのが一番いいのかはわからないのですが、とにかく目の前の人は支えを必要としている。どんなに過不足ないと思われる人生を送ってこられた人でも、自分の意志を貫いて生きようとされた人でも、支えがいる。死を覚悟したとしても、覚悟した死を迎えるにあたっても、支えるものがないと本当には生きられない。自分自身を保っていくことができないと思うのです」
 この四年間、毎回、毎回、そうした場面に出会った、というわけではない。だが、そういう問いかけやメッセージを投げかけて亡くなっていった方もまた少なくなかった、というのだ。
 「死について、受け止めているように見える方でも、そうしたあれこれを考えていないように見える方でも、やっぱり大変で、人間みんな、死んでいくのは大変だと思うんです」
 人間みんな、死んでいくのは大変だ・・・。その葛藤の近くにいる人の実感だった。
 ふと思う。未だに記憶の残照にある母は、かつてどれほどの葛藤を覚えたのだろうか。故人ではないので本当の心持ちはわからないのだが、最期のとき、彼女は取り乱すでもなく、抑鬱的になるのでもなく、ある種の覚悟を示した営みをいくつか重ねた。その果てに、残された人びとをあえて励ます、「提供」のような事柄もあった。ぎりぎりまで「与える人」であった。そのことに我が親ながら見事だなと畏敬の念のようなものを抱いていた。
 しかし今思えば、逝く人の最期の力を振り絞ったがんばりに目を奪われ、そのこころの奥底にあったかもしれない葛藤を、こちら側に受け止める力がなかったのだと言えなくもない。
 
死生観
 
 「あの世」がわからない
 患者さんの死について言葉を交わした日の少し前、院長は徳島に行っていた。日本死の臨床研究会の年次大会が開かれたのだが、そこで興味深い話を聴いたという。それはゲストとして招かれていた瀬戸内寂聴氏の「いかに死を生きるか」と題した講演だった。
 「寂聴さんの講演は初めて聞いたのですが、その中で、『私にはあの世のことはわかりません』、そうぴしゃりと言い切られるんですよね。彼女は仏門にいながら、あの世がわからない、と。インドへ行き、釈迦が最後に歩いた足跡をたどる旅をされている。だからといってそれをあの世の話につながない。それが聴いていて、なんだか非常に心地よかったんですよね」
 何故、院長にとって瀬戸内氏のこの言い切った言葉が心地よかったのか。それは、逆に現在、「あの世がある」という確信を得たかのような物言いが、とくに終末期の医療現場で聞かれ、そのことにこのところ少なからず違和感を覚えていたからだという。
 「科学者や哲学者の中であの世の話をされる方が出てきていることが背景にあると思いますが、たとえばホスピスの看護師さんたちの発言にも、最近、あの世の話が聞かれるんですよね。亡くなる間際に、不安や未練に苦しむ患者さんに対して、『あの世があるような気がします』とか、『あの世で待っている人に会えますよ』と言葉をかけてさしあげるとか・・・。そういった流れが大きくなってくると、私にはへんだなと思えるんです。ホスピス医や、ホスピスケアをする者は患者さんのこころを支える『スピリチュアルケア』をやらなくてはならない、『あの世への橋渡し役』をしていこう・・・、そういう風潮についていけないものを感じます。それは宗教や信仰の域であって、私がやろうとしている医療とはちがうと感じているんです」
 しかしそうではあっても、一方で、「花の谷」で緩和ケアを始めて、変わってきた自分について感じることもあるという。その一つが、『スピリチュアルケア』についての考えだ。
 「私は、『花の谷』を始めるまで、緩和医療というのは、症状コントロールがきちんとできていれば、それで役割は九割達成ではないかと思っていました。病棟を開いた初めのころ、『スピリチュアルケア』については、それは所詮、人の力のおよばない、私たちにはできっこないことなのだからしなくていい、しようと思わないでいいと、スタッフに言ってきたんです。
 しっかりと医療者として終末期の医療をやればいいのだ、と。それは今でもそう思っていますが、ただ、感じたことは、医療としてやるべきことをやる、しかしそれだけでは支えられない何かがあるのかもしれない。自分の身に置き換えてみても、支えられないだろう、それだけでは耐えられないのだろうなという感覚を持つようになったのです」
 
「自然に還る」思いで支えられたら
 宗教的な魂のケアはできない。だとしたら目の前の、支えを必要としている患者さんたちに何ができるか。院長はある時期から、「自然に還る」ことを意識しだした、という。
 「私はあの世があるとは思っていませんが、自然に還るということが、唯一支えになるかもしれない。生まれてきたことが自然なら、死んでいくのも自然だという、そのことが支えになるのではないかと思えるんです。自然を見つめることが救いになると言ってもいいのですが」
 そのときの「自然」とは、どのようなイメージで語られているのだろうか・・・。
 「広い海や雄大な山々でもいいのですが、光だったり、ちょっとした風だったり。堀辰雄が結核のサナトリウムを舞台に書いた小説『風立ちぬ』の中に、「風立ちぬ いざ生きめやも」という句がありますね。風をふっと感じたその瞬間、さあ何とか生きてみようと思う、人は風を感じるから生きていられる、そういう自然のことなのですけれど。今日は天気がいいなとか、雲がきれいだとか、そうしたことだってやっぱり力になるのではないでしょうか」
 「花の谷」に入院してわずか数日で亡くなられる人もいる。そうではなく、入退院を繰り返し、長いつきあいの中でやがて旅立っていかれる人もいる。そうした人たちとの出会いや別れを重ねる中で、どの人にも、自然を感じてもらえないだろうかと考えたという。
 一輪の花でも、ベッドから見える中庭の草木でも、海からの風でも・・・。
 「入院されている多くの方は、もう仕事ができない、残された時間が限られている、いろいろなことをあきらめて今ここにいらっしゃる。それぞれの人たちがお元気で、忙しかったときよりも、ちょっとちょっとの自然が力を持ってくるのだと思うのです。介助が必要な身体状況になると、なかなか自分から自然の近くに行くことができない。そんなとき、私たちにはその方が自然に触れてもらう機会を作ることが多少ともできると思うんです。今日の風は、今日の光は気持ちいいねということを人と共有できる。私だけではなく、看護師やヘルパーや、ここにいるスタッフたちがそれぞれの関わりで、患者さんと自然をともにする。そのことが支えにならないかと、今はそうしたことを考えています」
 
大変さへの共感こそ
 Yさんが好きだったという白い花の話から、ずいぶん遠くにきたと思われるかもしれない。
 しかし、思うのだ。緩和ケア病棟を立ち上げ、実際に患者さんとともに日々を過ごしていく中で、人のためにも、そして自分自身のためにも、「自然を支えにしたい」と思い始めたという話と、白い花が見事な精気を放つあの写真集を、患者さんに届けようとこころ急かれたこととは、同じ文脈の上にあったのではないか、と。少なくとも私にはそのように感じられた。
 院長にとって「自然」とは、「命」とも同義であるという。「死」について訊ね、「命」という言葉にたどり着く。この連還の中に「花の谷」も確として在る、ということに違いない。
 いつか聞いてみたかった問い、すなわち「最期まで支えることの意味」は、「人間みんな、死んでいくのは大変だと思う」
 この言葉の中にあった。
 いずれ死に逝く者の一人として、もしも、と自分の身に置き換えて考えてみると、慰めも励ましも要らないが、死んでいくことの大変さへの共感こそほしいと思うからだ。
 
「花の谷」の人々 〜海辺の町のホスピスのある診療所〜
著者:土本亜理子
(3月出版予定の本から抜粋)







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