序にかえて
―人間生活と沿岸環境の問題を生物から捉えようとするかき研究所の理念と姿勢、そして問題解明への具体的な取り組み―
財団法人かき研究所は、文部省(現 文部科学省)主管の財団法人として昭和36年に発足して以来、沿岸漁業の発展の基礎となる有用海産生物の種苗生産に関する生理・生態・技術の研究を推進し、地域の産業開発への技術的な支援、若手研究者の育成、そして研究の国際交流を積極的に行って参りました。
現在では、「人と水環境と水産生物の調和の追求」を本研究所の基本理念として掲げ、多くの研究課題に取り組んでおります。中でも海洋環境保全の問題、とりわけ人間生活とも関わりの深い「沿岸海域」の環境保全の問題は本研究所の最も大きなテーマとなっています。そして、沿岸海域の環境が良い状態であるという評価は、人間の健康や生活にとって有益であることばかりでなく、“沿岸に棲む生物が健康で安全に生息できること”という視点に立脚した上で行われるべきものであることを提案したいと考えています。すなわち、この視点に基づいて環境保全を図っていくことが、人間と沿岸に生息する生物との共存に結びつき、結果として人間にとっても、より優しい環境を維持することになると考えているからです。
1. 水性生物の健康を指標として沿岸海洋環境を評価する取り組み
上記の視点に基づき、かき研究所では、日本財団の助成を仰ぐことにより、平成9年度、10年度の2ヶ年をかけて「水生生物の健康を指標とした沿岸海洋環境の評価に関する調査研究」を実施しました。
この調査研究では、フランスガキ(標準和名:ヨーロッパヒラガキ)を対象種として取り上げ、環境の異なる3つの海域で試験的に飼育し、各海域における成長や性成熟等の基本的な生物性状を把握した上で生物の健康度の指標として生体防御能力を定期的に測定しました。そして、これらの結果と海洋環境の最も基本的な項目である水温・溶存酸素量・塩分濃度の定期測定の結果とを併せて考えることにより、“個体が健康に生きているかどうか”を基準とした環境評価法の確立を目指しました。
その結果、各々の海域により、あるいは時期によって、フランスガキの生体防御能力は大きく変動することを示すことができました。そして、その変動は水温に代表される環境要因の変化の影響を受けた結果として起こることも明らかにしました。すなわち、カキの生体防御能力の発現と環境要因の変化との間に関係があることを見い出すことができ、生体防御能力を指標として選択したことは誤りではなかったと思います。しかし、主題である環境評価法の確立については、健康度と生体防御能力との間の定式化に曖昧さが残りました。今後も、より有効性の高い評価法の確立を目指して研究を継続したいと考えております。
2. 海水の濃縮毒性試験法の確立と沿岸生物に対する化学因子の影響評価への取り組み
そして、平成11年度と平成12年度の2ヶ年は新たな課題「培養細胞を用いた海水の濃縮毒性試験に関する調査研究」に取り組みました。
本課題の設定にあたっては、先に実施した研究を進める過程で考えさせられた事柄が発想の基になっております。前の2ヶ年で行った研究では沿岸生物に対して影響を与えるものとして、自然海洋環境における主要な因子である水温や塩分濃度の変化に着目しています。しかし、環境問題、特に人間の営みが沿岸生物に大きな影響を与えていると考えられる昨今の状況のもとで、天然の環境因子を考慮するだけで必要十分なのか疑問が残りました。人間は様々な物質を産み出し、消費し、そして廃棄・処理しています。つまり、人間社会は巨大な代謝システムと見ることができます。そして、その活動の結果、思わぬ物質を作り出し、思わぬ副作用をもたらすこともあります。それらが陸水を通して沿岸の海水に流入し、生物に影響を与えることもあり得るのです。そのことを理解した上で沿岸生物の状態を考えるべきなのではないかと考えました。
近年、環境ホルモンとも呼ばれる内分泌撹乱化学物質に代表される様々な化学物質による環境汚染の問題が大きく取り上げられているのはよく御存知のことと思います。内分泌撹乱化学物質は動物のホルモンと同様の作用を示し、動物が有する本来の内分泌環境を乱すため、生殖や行動に異常を生じさせると言われています。生殖に対する影響は、生物個体にとって最も重要な健全な子孫を残すということに対して強い障害となりかねません。こうした事態の進行を看過すれば種の存続に対して影響をおよぼす可能性も考えられます。さらに大きな問題は内分泌撹乱化学物質だけでも多種類の物質が存在すること、そして生殖への影響以外の様々な作用をおよぼす内分泌撹乱化学物質以外の物質が人間の営みによって生じていると考えられることです。これらの多くは農薬、界面活性剤、防腐剤などに含まれているといわれています。こうした物質が人間生活において果たしている大切な役割を否定することはもとより考えておりません。しかし、ここで問題視されるのは、これらの物質がたとえ偶発的であるにせよ、本来の目的以外の場所で本来の目的以外の作用を生物におよぼしている可能性です。従って、こうした物質の影響を十分に調査し、目的以外の影響をきちんと認識した上で使用することが緊要であると思います。とりわけ、懸念されるのは環境中に放出された物質は最終的に水界に到達することです。特に、沿岸域は海中に放出されたものと陸圏に放出されたものの両方の影響を受けることが考えられます。“沿岸域に生息する生物の健康にも配慮した環境の保全”を考えるのならば、沿岸域の現状をきちんと把握した上で問題点を指摘し、生物に影響をおよぼす物質を環境中に出さないようにすることを訴えていくことが重要であると思われます。
以上のような見地から、2ヶ年にわたって日本財団の助成を得て、海水に混合する物質の濃縮毒牲試験法に関する調査研究を実施することに致しました。すでに作用機序が明らかになっている化学物質については、厳密な分析的手法を用いて生物の特定の機能に対する影響を把握することが肝要であると思われます。しかし、現時点ではどのような機構で生体に影響をおよぼすのか明確ではない物質も多いとされています。そこで、本研究所の取り組み方としては特定の物質のみに的を絞るのではなく、平成11年度に「海水に懸濁する物質の海洋生物に対する影響を総合的に判定できる簡便で高感度な手法」の確立を目指し、平成12年度には、その手法を用いて沿岸海水の測定を行い、沿岸域の現状を評価することを試みました。
平成11年度の研究では、人工海水に化学標品を添加した試験海水を試料として方法論の確立に取り組んだ結果、海水中の化学物質を逆相カートリッジカラムによって捕捉・溶出し、高倍率に濃縮することに成功しました。これまで高濃度に含まれる塩類の影響により濃縮が難しいとされてきた海水試料から化学因子を比較的簡便な方法で効率よく濃縮できたことは大きな成果であると思います。また、得られた化学因子の生物に対する毒性や障害性の検定では、永久継代系として確立している種々の培養細胞株の中から高い感受性を示す細胞株が得られ、動物実験の10〜20倍という高い感度で毒性を検出することができました。
続いて、平成12年度の研究では、2ヶ所の現場の海水試料を採り、そこに含まれる化学因子の濃縮と毒性・障害性の評価を行いました。その結果、いずれの時期の試料においても毒性を示す因子は検出されること、検出される成分が場所によって一定するということはないこと、同じ場所の1日のうちでも大きく変化することなどが明らかとなりました。当然のことながら、現場の海水に含まれる化学因子の組成は試験海水に比べて著しく複雑であり、本研究で確立した方法のみでは毒性の評価が難しい点もありました。しかし、海水試料からの化学因子の濃縮を簡便に行うことができる点では非常に優れておりますので、まず本研究の方法で試料を濃縮し、その後に精密な化学分析法を行うといった適用が考えられます。
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