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解剖学実習を終えて
『無題』
千葉大学医学部 相澤 悠太
 
 「私は死に対して希望を持っております。献体する事で、医学の発展と後世の人々の健康、幸せのために貢献できるのだから」。このような趣旨のお話を、実習開始の直前に白菊会の会員の方から聞いたとき、その崇高な精神に私は度肝を抜かれた。自分が同じ言葉を言うことができるだろうかと考え、ただただ敬服するばかりであった。実習前は、私は単に死というものに対して漠然とした不安、恐怖を抱いたごく普通の学生であった。私は、死を迎えた方を一度も見たことが無かった。知人でそのような方がいても、今会っていないだけで、会おうと思えばいつでも会えるような気がしていた。そして、それが全くの錯覚であるということは、すぐに実習室で御遺体と対面したときにわかった。目の前には、死という厳然たる現実があった。それから、死と生についての思索の日々が始まった。どの神経、血管、筋肉、臓器がどこにあって相互的な位置関係はどうであって、触れてみるとどんな感じで・・・。このような実習の中で、私の頭の中は生と死のことで常に一杯だった。御遺体の方々も、以前は自分と同じように呼吸し、笑い、確かに生きていた。当初あまりに強烈な死のインパクトが支配的だった私の頭の中で、次第に、生きているとはどういうことだろうかという、新たな考えが現れ始めた。御遺体は、自らの死をもって、死だけでなく生をも示唆してくださった。この方が自分の人生において最も偉大で意義深い先生の一人であるということを私は確信している。
 「隅々まで隈なく見て勉強して下さい」。この激励の言葉も実習開始の直前に白菊会の会員の方からいただいた言葉で、大変衝撃を感じた。解剖実習では人の体にメスを入れる。わかりきっていたことのはずなのに、急にこれから自分が行おうとしていることの重大さ、責任の重さを痛感させられた。そしてなにより、私たち医大生に対する期待の大きさを感じた。自分には解剖する資格があるのか、医師になる資格があるのか悩んだ。でも、それは自分が判断することではなくて周囲の人々が判断すること。自分が今するべきなのは、真摯な態度でもって御遺体の方の崇高な精神に応えること。そう信じて実習を行った。御遺体に対する敬服の念が絶えることはなかった。解剖実習が終わった現在ももちろんである。毎回、実習開始時の黙祷ではその日に行うことと「しっかりがんばらせていただきます」と決意を述べ、実習終了時の黙祷では「今日もお疲れ様でした。復習予習をしっかりやってきますので、次回もよろしくお願いします」と言い、御遺体の方からの励ましを感じながら何とか実習をやり遂げることができた。
 なぜ医学教育において解剖学が最初にあるのか。それは、解剖学が医学の全ての基礎となるから、ということだけではなくて、これから医学を学ぶにあたっての心構えのようなものを各人に考えさせ持たせるため、という話はよく聞いていたが、まさにそのことを実習が終わった今だからこそ、よく理解できるようになった。解剖実習で得た膨大な知識以上に、人間としての成長が大きな収穫であった。
 以上、私が解剖実習を終えての感想を綴ってきたが、全ては、献体してくださった崇高な精神をお持ちの方々のおかげである。感謝してもしきれないほどである。身をもって死と生を教示してくださった「先生」に、今一度感謝の意を記しておきた。今後、献体してくださった方々の気持ちに少しでも多く応えられるように、医学の勉強をがんばっていこうと決意を新たにした。決して忘れることのできない、大変貴重で意義深い実習をさせていただき、本当にありがとうございました。
 
愛知学院大学歯学部 青山健太郎
 
 実習を開始する前まで、私の心の中には歯学部生として人体構造の観察を許されたことへの優越感と、ある種の好奇心を少なからず持ち併せていた。しかし、初めて実習室に入りご遺体と対面した瞬間、私の心と体は異様な緊張感に包まれ、俗な感情は霧散した。おそらく、ご遺体と対峙する非日常の世界に足を踏み入れたという現実を理屈ではなく五感が感じ取ったためであろう。
 実習内容のすべてが初めての経験であり五里霧中であった。ダンテは神曲の中で「私は人生の途中で道を失い、暗黒の森へ迷い込んだ・・・」と言っているが、「人体の構造」実習を進めていた私もまさに同じ思いであった。ピンセットやメスを使って無我夢中で血管や神経を剖出する日々。不慣れな作業の為、簡単な動脈の剖出でさえ手間取ることも多かった。そんな時は、人体がまるで深い森のように思え、自分がその森の中で迷子になっているかのような錯覚に陥っていた。やがて、実習を始めて一月余りを過ぎた頃になると先生方のご指導や自らの手技の上達もあって、いつしか実習が順調に進むようになっていた。そして、ご遺体から教科書の図譜では理解し難い人体の素晴らしい構造を教えていただくことができました。
 また、今回の実習ではご遺体の方や死そのものについても考えるようになった。現代の社会は死を禁忌とする社会である。また、私自身もこれまで死について深く考えてこなかったため、「人体の構造」実習に臨むにあたり、誠に不謹慎であるが、ご遺体を『自然物』と思い込むことで心の安定を図っていた。しかし、真摯に実習に取組むうちに、ご遺体を『自然物』と思い込む誤魔化しはできなくなっていました。では、ご遺体とは何か?
 実習も終わりに近づく頃、遅まきながら出した私の答えは「ご遺体とは私自身である」ということである。何か禅問答のように聞こえるかもしれない。だが、これは理屈ではなく心が導きだした私にとって真実の答えである。今後は、この貴重な「人体の構造」実習の経験を心に刻み、「死とは何か?」或いは「生きるとは?」という問いを絶えず持ち続け勉学に励み、良き歯科医師を目指したいと思う。
 末筆になりましたが、献体いただいた方々とご遺族の皆様方の崇高なご意志に深く感謝するとともに、故人のご冥福を心からお祈り申し上げます。ありがとうございました。
 
順天堂大学医学部 家田 健史
 
 解剖実習を行うにあたって、献体していただいた方々のために私たちが唯一できることは解剖に真剣に取り組むことであり、今回の実習では、それを実践してきました。
 解剖実習が始まる前に先輩や医師である父の話を聞くと、「最初は緊張し、誰でも怖いものだろうと思うけれども、すぐに慣れるものだよ」と言われましたが、私はこの実習に対してあまり気が進みませんでした。実際に人にメスを入れる、ということに対しての恐怖感があったからです。ご遺体には、自分が生きてきたよりも数倍もの生きてきた時間や、人生経験があり、そのことを思うと学習するどころではなくなってしまうのではないか、という恐怖感です。特に、ご遺体の顔を見たときには、目をつぶった「表情」を受け止めてしまい、とても今から解剖していく「顔面」として、などとは受け止められないのではないか、と思ったことが何度となくありました。むしろ、骨格・内臓・筋肉などを含めた人体の模型を造り、それを学生が解剖する形式を取るようにすれば、献体などする必要もなく、学生もつらい思いをしないで人体の構造について学習できる、と考えたときもありました。
 逆に、解剖実習が始まり、慣れてくると「一人のご遺体」が「一つの人体」として見えてしまうことがあり、そのように見えてしまう自分に罪悪感がありました。同時に、最初は恐れていた解剖実習も、慣れることによって恐怖感が次第にやわらいでいき、その素晴らしさがわかりました。実習書、教科書だけの机の上の知識だけを学んできた医師は、決して立派な医師とは呼べず、こうして一人の人間と向かい合って学んでいくことによって医学生として成長する、という素晴らしさです。
 大学に入学する前、私にとって理想の医師は、患者さんを思いやり、決して「病気になった人体」としてではなく、「一人の人間」として診る医師だと考えていました。しかし、私はこの解剖学実習で、患者さんを人体として扱い、冷静な判断をして、客観的に診ることも、病気を治すための要素であることを肌で感じました。解剖学実習を終えて、私は、患者さんを「一人の人間」と「一つの人体」という両方の観点から診て、治そうとする思いやりの心と冷静な判断力を兼ねそなえた医師になりたいと思いました。人間を「個性」として見ることと「人体」として見ることを同時にするのは大変困難なことですが、医学の教育において、解剖学実習は、この二つの要素を両立する難しさを与えてくれる最初のきっかけになりました。この難しさは、人体の模型など解剖していたらとてもとても学べないことであり、解剖学実習が昔も今もその形式をほとんど変えることなく医学部のカリキュラムとして含まれている理由も理解できました。解剖学実習の意義や素晴らしさについて、ここまで真剣に考えることができたのは、この解剖学実習を行うことに協力していただいた先生方のおかげだと思っています。
 最後に、献体をしてくださった方々、献体に同意してくださったご遺族の方々、白梅会の皆様に深く感謝し、良き医師になれるよう日々努力していきたいと思います。
 
名古屋大学医学部 家出 清継
 
 私は他大学の農学部で一年を過ごし、医師になることを諦めきれずに再受験をしました。二年生となり、解剖実習が始まり、ただの好奇心ばかりで臨んだものだったのかもしれませんが、医師への覚悟へと姿を変えていくことを感じ、自分の選んだ道を今は、確かに、信じています。
 学業に対して真面目とは全く言えない私でありますが、五月、六月、七月と私の生活の中心が解剖実習になっていました。時に怠慢になることもありましたが、それでも、好奇心と覚悟が背中を押すように解剖台に屈み込みました。
 この三ヶ月は気付けば、とても過ぎるのが速く、しかし、考えればとても長かったような不思議な季節でした。梅雨を跨ぐ鬱積した日々でしたが、御遺体の犠牲と献体への覚悟を考えると遥か及ばないですが、真摯に取組んだものと思っております。
 しかし、真剣になればなるほどに、日常とはかけ離れていくものを感じました。
 「人体にメスを入れるということ」
 非日常的なこの行動が日常化していくのです。この倫理観の葛藤が何より考え続けるべき問題だと思っています。初めて御遺体を目にしたときの畏怖の念、それこそ普通の感覚であり、メスを入れるなんて許されたことではないと心で何度も反芻しました。
 このことが御遺体に教えて頂いた最も大切なことであり、このことを考え続けることこそが、医師になることの覚悟だと思っています。
 
日本大学医学部 池田 迅
 
 期待と不安が混ざり合った気持ちだった。
 それが解剖実習初日に解剖台の上に並べられた御遺体を前にした時の私の率直な感想である。そして、そう思うと同時に毎時間一生懸命に勉強することが、献体して下さった方、さらには御遺族の方々へ対する一番の恩返しであると考えた。
 医師になることを志し医学部に入学して約1年半、それまでは神経・筋・骨など人体の構造については全てイラストや写真を通してしか学んでいなかった。しかし、解剖実習では当然のことながら実際の人体を前にし、自らの手で解剖を進めていくのだ。そのため、初めのうちは使い慣れない様々な器具の扱い方や、解剖をしているということに対する緊張などで全く余裕などなくただ黙々と作業をするだけになっていた。しかし、二週間・三週間と時が経ち何度も解剖の授業を重ねていくことで、慣れてきて余裕も生まれるようになった。
 そうなった時に、他の御遺体の解剖を見る余裕も出来た。そこで御遺体により血管の分布・走行、筋の太さ・長さ、臓器の大きさ・形等が大きく異っていることに気付かされた。
 このことは、医師になる上で基本のことでありかつ非常に重要なことである。そして、教科書を読んで、イラストと写真を見ているだけではきっと忘れてしまうことではないだろうか。
 つまり、今回の解剖実習では、解剖の知識を増やすということ以上に、今後医師になった時に患者『一人一人』を見、一様の治療ではなく各々に合った治療をすることが大切であるということを学んだ。
 そして、このような機会を私たち学生に与えて下さった白菊会会員の皆さまとそのご家族の方々に心から感謝の意を申し上げます。今後も解剖で学んだことを礎として勉学に励み社会に貢献出来る医師となるよう、頑張りたいと思います。







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