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解剖学への招待 −私と献体 解剖学習を終えて−

 事業名 篤志献体の普及啓発
 団体名 日本篤志献体協会 注目度注目度5


献体との縁
熊本白菊会 林 益江
 
 私は熊本大学附属病院に昭和30年より61年まで31年間もの間、仕事をさせて貰いました。
 その間に沢山の患者さんとの出会いがありました。元気に快復されて帰られる方、また、今の医療でも手立てが出来ず最期を迎える方がありました。先生方は一生懸命に治療した後ですから、その悪いところがどうなっているか勉強したくて解剖をその家族にお願いされますが、なかなか返事が貰えなかったのです。でもその中で返事を下さった方があった時、先生方、また医療に係わるものとして沢山の勉強をさせて頂きました。私もその中の一員として感謝感謝です。
 そんなにして死亡された方の家族、また元気になって帰られた方等から、職場を離れて17年過ぎた今でも、年賀を200枚以上も頂く幸せをしみじみと感じます。
 そんな私が退職を迎えた時の決意が白菊会への入会でした。それは全ての方々にお世話になり無事にこの日が迎えられた。しかし何を恩返ししたら良いか分からなかったのです。私にできる事は何だろうと思い白菊会への入会を決めました。でも手続きまでは出来ていませんでした。それが私が一番尊敬信頼している方が献体をされた事で、私も子供達の許可を受け手続き完了となりました。大変にうれしゅうございました。子供達もお母さんがそこまで思っているのだったらと、息子嫁も娘婿も同意をしてくれての白菊会への入会です。
 人様のために何も出来ない私ですが、少しでも、医学のために役に立てれば本当に幸せを感じます。全ての方々に感謝で一杯です。
 
産業医科大学医聖会 葉山 隆
 
 昨年も「敬老の日」特集をテレビで見ました。100歳を越えてなお現役の方々の活き活きとした姿や表情にみとれてしまいました。
 わずか70年前の男性の平均寿命は45歳にも達していなかったのですから、まさに人生を二度生きられたことになります。
 これらのみなさんに共通していることの一つに、新聞をよく読まれるということがあります。世の中のことに常に強い関心を寄せ、色々な出来事に疑問を持ち続け、旺盛な好奇心を失っておられないことです。
 少し古い話ですが、僕は現役時代、スポーツゴーグルや工場で使う防塵メガネで有名なY光学の会長さんと親しくしていました。
 社会人のスタートを大阪でした僕は、90歳近い会長さんの生粋の大阪弁が大好きでした。ユーモアのある会話には関西弁がうってつけです。
 ある時、話が「高齢化社会」に及んだ時、会長さんが笑いながら「2年ほど前に、わてが会長してる老人会にひばりはんがきましてん」「美空ひばりでっか」と僕もつい大阪弁で相槌を打つ。
 会長さんの住いはY光学の本社のある大阪近郊のF市。その老人慰安会は「敬老の日」に市の福祉課が主催して行われた。
 美空ひばりはカラオケをバックに、和服で3曲、洋服に着替えて2曲を熱唱した。アンコールにも愛嬌よく応え、その上、客席に降りて何人ものお年寄の手を握り、声を掛け、大いに感激させてくれた。慰安会は近年になく盛り上がり、大成功だった。
 その晩、会長さんは「テレビにでるのがすくのうなったとはいえ、どう考えたかて、ひばりがうちのような小さな市の敬老会にきて、一人でカラオケをバックに歌うかいな。どうも腑に落ちへん」
 翌朝さっそく市の福祉課にでかけた。「あれほんまもんのひばりはんだっか」「会長はん、みんなに言うてはあきまへんで。あれ吉本興業のそっくりさんだす。来年は島倉千代子はんはどうだっかと言われてまんねん。吉本はんに頼んだらどんなそっくりさんでもいますがな。費用も安うあがるし」僕は関西人のユーモアを絵にかいたような話に大笑いした。
 Y光学は歴史の長い会社には珍らしく、革新的な発想と実行性がある。その源流を高齢の会長さんのあのひばりの出演に疑問を持ち、その疑いを自分の内だけに止めておかず、すぐに行動を起して確めてみる精神の若さと、柔軟さに見い出したように思えた。
 
順天堂大学白梅会 廣木 久子
 
 私が女学校を卒業後満十九才で北区王子の旧家に嫁いで十一年目ですが、急にトイレの中で意識不明で倒れ、救急車で入院となりました。
 今から四十四年前ですから、なかなか病名がわからず、ようやく甲状腺機能低下症と過労、栄養失調と診断され七ヵ月間大久保病院へ入院となりました。それが三十歳の時です。それから三十七歳で子宮ガン、四十二歳で胃ガンと十二年間大病ばかりで、あち、こちと入院の連続でした。
 主人は、この以前に胃ガン、肝臓ガンで全財産を使い四十歳でなくなりましたので、私は費用の安い都立病院で半年入院し完治したと先生に言われて退院し、すぐに働き始めました。ところが退院して一ヵ月目の定期検診で、内科の医長先生が、「あれ、再発しているからすぐに再入院して下さい」と言われ目の前が真暗になり泣きくずれ自宅にどうして帰ったかわからない状態でした。
 丁度その折、私にとって大切な友人が、順天堂医院の消化器の胃の先生、増田先生を紹介して下さいまして病院へつれて来て下さいました。診察の結果、緊急入院と赤ペンで記され入院手続きをし手術する事になりました。私は一応娘に遺言状を渡し手術にのぞみました。昭和四十六年二月十八日です。入院の時は二週間位と言われたのですが、約一ヵ月半入院し娘が特別に一ヵ月間泊って看病してくれました。本当に増田先生のお蔭でこんなに丈夫になりました。お礼の言葉もございません。
 その頃ラジオで献体のことを耳にしました。何度も死の宣告を受けながら、奇跡的に丈夫になった身体ですから、献体してすこしでも医学の進歩にお役に立ちたいと考え早速お世話になった順天堂大学にそういう組織があると聞き書類を頂きました。ところが娘が賛成いたしません。「何度も身体にメスを入れているので、もうこれ以上メスを入れるのはしのびないからいやだ」と申したのです。そのうちに娘も結婚してなかなか子供に恵まれずようやく七年目に長男を八年目に次男をさずかりました。そうしたら子供の病気を経験し医学の大切さを痛感したのでしょう、献体の承諾をしてくれました。書類を手元に頂いて八年目にようやく献体の手続が出来ました。
 私は小学生の時から人生ローソクのあかりの如くと言う事をモットーとして居ります。ローソクは自分の身を削り溶かして周りを明るくしています。どうせ人間生きるなら、人の為に生きて人生を全う致したいと考えています。病人はお医者様が一番頼りです。最後に技術の進歩もさることながら病人の気持、人の痛みがわかるようなお医者になって欲しいと思います。
 
財団法人不老会 藤内美也子
 
 その瞬間、眼に映る全ての物は色彩を失い、耳に入る様々な音は掻き消されておりました。その中で、窓の外に広がる空だけが、五月の空だけが、青く、ひたすら青く美しく輝いていたのを覚えています。
 何時頃からでしたか。両手の指を胸の上で組み合わせ、じっと天井の一点を見つめる様になりましたのは・・・。
 残りの日々が、一日一日と過ぎて行く。その不安と、痛みとの戦いのなか、自分らしく生き、終える為には、何をするべきか、何が出来るのか。先輩として、後輩に残していきたい数々の想い、心に描いた授業風景、共に学ぶ幸せ・・・。
 「僕に出来る事はなんだろうね。学生さんにしてあげられる事って、何だろうね」
 解剖学の教授に病室まで御足労頂きましたのは、それから間もなくの事でした。
 「献体させて頂きたい。よろしくお願いします」
 「お葬式はしなくていいから」
との言葉に、教授や医局の先生方がお別れ会をして下さり、本当に沢山の方々がお別れにいらして下さいました。そして、愛する皆様方と、大好きなビートルズの曲に送られて、人生の半分以上を過ごした愛知医科大学に、また戻って行きました。助教授として、初めての、そして最後の実習をする為に。
 ありがとうさん
 ああ たのしかった
 いい 人生やった
 五十年の生きて来た道を、こんな言葉で締め括った大切な人の遺骨は、帰って来たその旧からずっと、家族と一緒にいます。そして、空に眼を移すと、ひたすら青く輝く空の中にも、あの優しいいつもの笑顔があります。
 今は、抱えきれない程の愛に包まれているのを、強く感じています。
 ありがとうさん。
 
東京医科歯科大学献体の会 ほしのいたる
 
黄色は春
もえ立つばかりの青春の色
それでも やがて いつか
花は閉じてうなだれる
だが白髪になると
背すじをしゃんと伸ばし
すっくと立ち上がり
ひたすらに風を待つ
はるかな見知らぬ土地への言伝てに
自らの生命を伝えようと
通りすがりの春風に託して
 
北海道医療大学白菊会 町田 和子
 
 七年余り寝たきりの長い闘病生活をしていた妹が、病院の一室で静かに息を引き取りました。享年六十九歳でした。私は献体の搬送に接して、白装束に身をまとい整いつつ姿を目にして、私はあのように清楚で白衣の天使のようになって天国へ旅立った妹は幸せ者と思います。最後の別れの時に「私も後から行くからね」と、心につぶやきながら妹を見送りました。
 病院の沢山の方々に見送られての旅立ちでした。ほんとうにお世話になりました。また、大学関係者の心あるご配慮など、感動いたしました。本当に多くの皆様ありがとうございました。
 私達の時代は戦時中で十代半ばを戦禍のなかで一生懸命生きてきました。空襲、・・・そして終戦、引き揚げと大変な時代でした。その後もそれぞれに山あり、谷あり、道を歩んできました。苦楽を共にした妹でした。妹がいればこそ乗り越えてこられてきた事と思います。今、各国で争いがあります。イラク戦争を目前に、妹は私に「サヨウナラ」、とひとこと言って去って逝きました。
 私が献体に関心を持つようになったのは、昭和五十六年、当時の新聞で道新の「朝の食卓 森田義雄氏」の記事を拝見したときのことです。今日までずっと続いて、その記事を切り抜いてあります。切り抜いた記事もたくさんあります。献体登録を六十歳になったら、六十五歳になったらと、心に思いながら六十八歳でようやく長年の思いを妹と共にかなえる事ができました。
 時の流れの速いことを実感し心の支えと勇気をいただきながら、妹の病室に通った時を振り返っています。病室の寝たきりの周囲の姿を目にしてきました。私も、どんな状況になるかわかりませんが早かれ、遅かれ、必ずその日はきます。でも、私は寝たきりになんかなるものかと心に念じつつ、一日、一日を大切に生きていくつもりです。次は私の番ですがそのときは、同じ大学病院ですので妹と再会(?)するかもしれませんね。これだけは神様しかわかりません。その時は宜しくおねがいいたします。人生の終わりに「白菊会」へいけることに感謝します。皆様、本当にありがとうございました。







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更新日: 2018年12月8日

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