日本財団 図書館


1992/10/25 産経新聞朝刊
【オピニオンアップ】死刑廃止が抱える問題 執行ゼロは法相の怠慢だ
法務省世論調査を計画
 最近にわかに死刑廃止論が台頭している。死刑廃止論は現憲法制定直後からあるが、最近の廃止論はいつもとやや趣を異にしている。背景には、国連で死刑廃止条約が採択されたこと。元最高裁判事で死刑制度存続派と思われていた団藤重光氏(現宮内庁参与・刑法学者)が「死刑廃止論」という著書を出版したこと。また今年八月六日で「死刑執行なし」が一千日続いたということなどがあるようだ。
 法務省は平成元年いらい四年ぶりに死刑に関する世論調査を実施する方針といわれるが、死刑廃止は本当に機が熟しているといえるのか、問題点を挙げて世論調査の判断の糧にしたい。
 死刑廃止の論拠の主なものとしては(1)人道に反する(2)死刑は犯罪抑止力にはならない(3)死刑の誤判は取り返しがつかない−が挙げられる。
 このうち(1)の主張をする人の多くは、被害者および遺族に対する思いやりが希薄である。戦後の日本で死刑を言い渡された犯罪者のすべては殺人がからむが、死刑問題を論議する場合、最大でしかも回復が絶対不可能な人権侵害を被ったのは被害者であり、遺族である。
 近代の行刑思想では刑罰は教育刑である、とするのが主流だが死刑は応報刑だ。犯罪者を捕まえるのは防犯的目的のほかに被害回復と被害者感情の治癒がある。
 しかし殺人被害は絶対被害が回復されない。大事故などで肉親を失った遺族が「夫、妻、子供を返せ」と叫ぶのと同様に、筆者が取材した凶悪事件の被害者の遺族は犯人に対し同じ気持ちをもち、できれば「犯人を殺してやりたい」と思っている人が多かった。
 この感情は加害者を処罰することでいくらか治癒する。ただ個人が勝手に相手に復讐したら私刑になる。こうした無法状態になるのを防ぎ国家の責任において被害者感情を治癒することも大切だ。「死刑制度を廃止することはどのような凶悪犯でも命だけは国家の責任で保障する法律をつくることになる」(刑法学者・植松正氏)という言葉と、団藤氏が死刑廃止論者になったきっかけは、最高裁判事時代死刑を支持する判決を言い渡した直後、傍聴席から「人殺しっ」と罵(ば)声を浴びせられたことだというが、どちらが説得力があるだろうか。
今年も4人が死刑確定
 (2)の死刑には犯罪抑止力はないとする意見は犯罪者に「捕まって死刑になると考えたか」と質問したのに対し「考えなかった」という答えだったことが根拠のひとつになっている。
 しかし、視点を変えて犯罪者ではない一般人に同じ質問をしたら死刑の存在は犯罪の実行をためらわせる、と答えた。
 もちろんその前に理性が大きなはたらきをしているだろうし、実際には死刑判決を受けるのは殺人でも犯情が極端に悪く、だれがみても死刑しか選択できない凶悪な犯罪者に限られる。それでも今年最高裁で死刑が確定した殺人犯は四人もいるのである。
えん罪が廃止論を援護
 (3)のえん罪(冤罪)だった場合、取り返しのつかないことになる、という理由は最も重みがある。現に米国では有名な「サッコ&バンゼッティ事件」という、えん罪の人を処刑してしまった事件がある(一九二一年強盗殺人罪で死刑確定、二七年処刑)。二人がアナキストだったこともあって、陪審制の弱点を示した不幸な事件だ。
 幸い(当事者にとってはとても幸いとはいえないが)日本では危機一髪のところで再審裁判制度が機能して、こうした不幸な事態は回避された。
 しかし、この場合も九死に一生を得た元被告の喜びの陰に、被害者遺族が改めて悲しみに暮れていることが忘れられがちだ。遺族にとっては、真犯人が捕まってはじめて被害者感情は治癒する。残念ながら相次いだ死刑囚のえん罪事件で、真犯人が捕まり処罰されたケースはまだない。前回の世論調査で死刑廃止に賛成した人がわずか一五・七%、反対が六六・五%もあったのは、こうした遺族と同じ感情が大きくはたらいてはいないだろうか。
 またえん罪事件では非難が警察、検察に集中し、裁判官が意外にも対象外になっている。本来ならば、捜査陣の勇み足をチェックするのが裁判所で「与えられた材料を料理するのが裁判官だ」というのは責任のがれだ。えん罪の最大の原因は裁判官の能力不足といえないか。
 死刑を言い渡すべき事件はそう多くあるわけではない。最高裁は死刑事件はすべて大法廷で審理するよう法改正し、針の先ほども疑義があれば「疑わしきは被告人の利益に」の大原則に従い無罪にすべきだ。その結果凶悪犯を社会に放つかもしれないリスクは国民が負い、もし誤判があれば関与した裁判官全員の責任。そうなればえん罪者の誤処刑という心配はゼロに近くなるだろう。
 死刑執行ゼロは、法務大臣のサボタージュに近い。信念として執行を認めないなら、法務大臣就任を辞退して堂々と論議を巻き起こすのが筋だ。
論説委員 飯田浩史
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION