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2001/03/22 毎日新聞朝刊
[再考・公共事業]第1部 ダムと干拓/2 完成望みつつ、屈折の熊本・五木村
◇国に依存の厳しい現実
 川辺川ダム建設で中心部が水没する熊本県五木村。朝、役場近くの道を建設資材を積んだ大型トラックやミキサー車が数分おきに行き交う。細い道では渋滞も起きる。水没地の住民が移る代替地の造成や付け替え道路の建設などダムの付帯工事は進み「五木の子守唄」が描く山村イメージは失われつつある。
 「私たちの村は初め、ダムに反対だった」
 西村久徳村長はそう言い切る。ダム建設を受け入れたのは1966年の計画発表をきっかけに村民流出が加速したためだ。「これでは村は空っぽになる」と選んだ水源地域対策特別措置法による基盤整備。代替地を確保し、新しい道路もできた。おかげで2時間がかりだった人吉市が1時間弱の近さになった。
 ダム事業は村の経済も支えた。予算ベースで年間150億円も投入されるお金が村の基幹産業だった林業の衰退を補い、建設業を育てた。村長は「公共事業がなければ村民は出稼ぎに出ていた。今ではよそからいっぱい来る」。
 
 水没者団体の一つ「川辺川ダム対策同盟会」の照山哲榮会長(68)は建設会社を営む。ダム関連工事の受注は地元トップクラス。会社は急成長を遂げた。それだけに照山さんは村の将来に不安を持つ。「ダムが完成すれば工事は半分以下になるだろう。体力のある今のうちに手を打たないと」
 村がダム後をにらんで96年に決めた「子守唄の里づくり」計画は地域資源を生かした産業と観光の振興をうたう。93年に6万人強だった観光客を20万人にするのが目標だ。
 だが、水没地区で農業を営む尾方茂さん(72)は「そぎゃんとは夢。でくるもんですか。代替地に行っても何もなか」。建設会社に勤める坂口岩男さん(52)も「ダムができれば仕事はのうなる。何で生活していけばいいのか」と不安がる。
 こんな話もある。五木の隣村で、ダム建設地のある相良村の医師、緒方俊一郎さん(59)の父親は71年から10年間、村長を務めてダムを促進したが、亡くなる直前「もうダムに反対してもいいぞ」と言い残す。国から引き出せる金はすべて引き出した、というのが理由だった。
 
 「今となっては早くダムができてほしい」。五木村民に強い思いだ。計画発表から35年。この間、例えば小学校に体育館を建てられなかった。水没予定地だから補助金が下りないのだ。そんな目にあってきたのにダムができないのでは報われない、との思いもある。
 照山会長は「ダムができなければ何も担保がない。そんな中での苦労には耐えられない。同じ苦労なら、ダムを“卒業”してから将来に向けた苦労をしたい」と話す。
 ダムの必要性を巡る議論をよそに、公共事業依存で身動きできない現実がここにはある。=つづく
 
 
 
 
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