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(7)航海速力
 航海速力については、文献によって8〜11ノットのバラつきがあります。航海記録を見ると極東に回航された時、リオデジャネイロから喜望峰(きぼうほう)の間で一番良く走った時が1日200海里(かいり)なので平均速力は8.3ノットでした。ただしこの時は汽走と帆を併用しています。またいつの記録かはっきりしませんが、汽走だけで6〜8ノット、平均7.4ノットという記録がありました。また汽走の最大速力は10ノットという記録もありますが、これは喫水を浅くして最大馬力で走った時の値でしょう。また他船の記録から類推しても8ノット程度が妥当(だとう)と思われます。
(8)備砲
 “サスケハナ”に搭載されていた大砲は口径10インチ(25.4センチメートル)が3門と口径8インチ(20.3センチメートル)が6門で、合計9門が上甲板に配置されていました。
 10インチの大砲3門はそれぞれ大砲の位置を前後にスライドできる架台に乗っており、この内2門は船首に、1門は船尾に配置されていました。さらにこの大砲は甲板上に設けられた円弧の形をしたレールによって旋回、移動ができるようになっていました。8インチ砲は4輪の架台に乗っており、左右舷に3門ずつ配置されていました。
 大砲は鋳鉄(ちゅうてつ)製で、弾丸と発射火薬を大砲の先から挿入するという前装砲(ぜんそうほう)です。砲身には弾丸を旋回させるための溝がなく、内面が滑らかな滑腔砲(かっくうほう)でした。発射できた弾丸の重さは、10インチ砲が86ポンド(39.0キログラム)、8インチ砲が68ポンド(30.8キログラム)です。日本側を驚かせたのはこの大砲がいずれも、通常の球形の鋳鉄(ちゅうてつ)製弾丸の他に、球形の炸裂弾(さくれつだん)も発射出来るようになっていたことです。
 炸裂弾というのは弾丸の内部に火薬を詰めて、弾丸が命中すると破裂するようになっている弾丸です。炸裂弾はフランスのペキザン将軍が1820年代に発明したものですが、1840年代になって各国の海軍に普及しました。これに対し日本側の大砲は中に火薬の入っていない球形の鋳鉄弾のみを使用していました。しかし炸裂弾の存在は知られていたようで、浦賀奉行所の与力 中島三郎助が“サスケハナ”の大砲を見学した時、「これはペキザンか」と質問して先方を驚かせたという話が残っています。
 
10インチ砲(シェル・ガン)ピボット・キャリッジ(旋回架台)に搭載された状態を示す。炸裂弾(シェル)が発射可能な砲で、“サスケハナ”、“ミシシッピ”に搭載
 
8インチ砲(シェル・ガン)炸裂弾(シェル)が発射可能な砲で、各艦に共通した備砲
 
甲板上に置かれた8インチ砲。手前には砲弾なども置かれている
 
(9)内部配置
 最後に解剖図(P.19〜22)の説明をしましょう。この図は船の科学館が所蔵する“サスケハナ”の図面などによってできるだけ忠実に内部を再現したものです。上甲板には大砲、ボート、キャプスタン等が配置されています。キャプスタンとは錨(いかり)、チェン、索類を巻き上げる装置で、キャプスタンの胴部分に長い棒を何本か差し込んで、大勢の水兵が人力で操作します。
 ボートは左右舷に各2隻、船尾に1隻あります。最後部のマストの前に操舵輪(そうだりん)があり4人で操作します。
 中央部に蒸気機関、ボイラ、外車が見えます。ボイラの前に石炭庫があります。石炭はこの他蒸気機関、ボイラの側面にも船首尾方向に仕切り壁を作って、外板との間のスペースにも貯蔵されます。上甲板下の第一層は居住区画です。ここに約300人の乗組員が寝泊りします。船尾には提督と艦長の部屋があります。その次は上級士官の居住区画で、左右舷に1〜4等尉官(いかん)、海兵隊士官、主計(しゅけい)官、軍医、軍医補、牧師、マスターの部屋があります。区画の中央に大きなテーブルがあり食堂になっています。機関室と上級士官の間は下級士官の居住区で、左右舷に士官候補生、水夫長および掌砲(しょうほう)長、船匠(せんしょう)および掌帆(しょうはん)長、機関長、1〜3等機関士補、医務室があります。機関部の士官の部屋が下士官級の区画にあるのは、この時代の蒸気機関がまだ推進の補助機関であったことを反映しているのでしょう。機関室の直前は調理室で調理用の竃(かまど)が設置されています。
 調理室の前方は水兵の居住区画です。水兵の居住区画は大部屋で寝台はなく釣床(つりどこ)(ハンモックとも言います)が天井から吊り下がっています。また食事用のテーブルも天井から吊り下げられるようになっていました。部屋の中央にはチェンが走っています。錨とチェンは前部マストの後方に見えるキャプスタンによって巻き上げられ、石炭庫の右隅に見えるチェンロッカーに格納されます。キャプスタン、チェンロッカーは機関室の後部にもあります。
 居住区画の下の甲板は倉庫区画です。各種の倉庫類が多数の区画に分かれて配置されています。倉庫区画の下は最下層で、石炭庫の前方の船倉には飲料水用の水タンクが多数置かれています。鉄のタンクですから錆(さび)が出て苦労したようです。1860年(安政7)に日米修好通商条約批准(ひじゅん)書の交換のため“ポーハタン”に乗ってアメリカに出かけた新見使節団の副使節であった村垣淡路守は日記に次のように書いています。
 「この船室では昼間でも明かりが必要な程暗いので気が付かなかったが、よくよく見ると飯が茶飯かと思うほどである。どうしたのかと尋ねると、日数が経ってきたので水面が水箱の底に近くなり動揺のため鉄錆が水に混じって茶を煮たようになったのだという。気持ちが悪いので士官に聞いてみると鉄分だから腹の具合が悪くなることはなく、安心してよいというので、仕方なくそのまま利用することにした」
 船倉の前は弾薬庫です。弾薬庫の前方は大きな倉庫で、主として索具(さくぐ)類が格納されています。後部のチェンロッカー隣の船倉には前部船倉と同じく水タンクが置かれています。その後方は酒蔵で酒樽が収納されています。酒蔵の左右舷とその後は弾薬庫です。火薬庫に隣接して各種のランプを格納するランプ庫があります。ランプ庫から船尾側には大きな倉庫がありますが、ここは主として食料庫になっています。以上で解剖図の説明を終わります。黒船の内部の様子がおわかりいただけたでしょうか。
 
“サスケハナ”のフィギュアヘッド(船首像(せんしゅぞう))の図
 
8インチ砲の準備を整える水夫たち。
上甲板には背の高い頑丈なブルワークがめぐらされている
 
那覇で行われた、“サスケハナ”艦内(士官食堂と思われる)の晩餐会の様子







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