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ペリー提督の略歴
 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は、1794年(寛政6)アメリカ海軍軍人の父クリストファー・ペリーの三男として誕生しました。少年期をニューポートで過ごし、父兄と同様に海軍をめざして15歳で士官候補生となり、19歳で任官、20歳で結婚し、乗艦勤務を経て1833年(天保4)ニューヨークのブルックリン海軍工廠(こうしょう)長となりました。ここでペリーは、蒸気軍艦の建造や艦船の近代化に貢献し「蒸気軍艦の父」と呼ばれるようになりました。1852年(嘉永5)、58歳の時にフィルモア大統領より東インド艦隊の司令長官に任命され、国書を携えて日本に向かい「日米和親条約」の締結に成功します。その後ペリーは海軍を退き、1857年(安政4)に3冊から成る膨大な「日本遠征記」を編纂・出版しますが、翌年の3月4日に63歳で死去しました。
 
bmトンについて
 ペリー艦隊を説明した歴史の本では、“サスケハナ”や“ミシシッピ”のトン数を、それぞれ2,450トン、1,692トンとしているものが多いようです。しかしトン数の種類が注記されていないので、このトン数を排水量と思っている人が大勢いますが、これはビルダーズ・メジャーメント(builder's measurement)と呼ばれていたトン数です。現在では全く使われていないため、日本語の訳がありませんので、この小冊子ではbmトンと呼ぶことにします。bmトンは長さLと幅Bだけを使用して、ある算式から計算されるトン数で、軍艦の積載能力を表す数値とされています。bmトンはアメリカ海軍では1865年まで、イギリス海軍では1872年まで使用され、それ以降はトン数に関しては排水量だけの表示となりました。
 
2. ペリー艦隊の編成計画
 1852年(嘉永5)1月24日に海軍准将(じゅんしょう)ペリーは東インド艦隊司令長官に任命されましたが、主な任務は日本開国の交渉使節でした。ペリーは日本との交渉は強力な武力を背景にしないと成功しないと考え、大艦隊を編成して日本に遠征することを計画しました。
 当時日本までの遠洋航海に動員できると考えられた蒸気艦は“ミシシッピ”(3,220排水トン)、“プリンストン”II(1,385排水トン)、“アレゲニー”(1,020排水トン)、“サン・ジャシント”(2,200排水トン)と既に極東に配備されていた“サスケハナ”(3,824排水トン)です。なお“サン・ジャシント”は一般の文献では触れられていませんが、ペリーの遠征(えんせい)日記に出ているので、ここでは含めることにしました。帆走艦は“ヴァーモント”(2,600bmトン)、“ヴァンダリア”(770bmトン)、“マセドニアン”(1,341bmトン)が本国の艦隊から、また“プリマウス”(989bmトン)、“サラトガ”(882bmトン)が東インド艦隊から編入され、さらに帆走補給艦の“サウサンプトン”(567bmトン)、“レキシントン”(698bmトン)、“サプライ”(547bmトン)が加えられました。これらを合計すると13隻の大艦隊になる予定でした。
 ところが当てにしていた蒸気艦の“プリンストン”II、“アレゲニー”、“サン・ジャシント”は機関部の修理がいつ終わるのかわからない状態でした。
 またその他の艦の整備もなかなか進まず、完了するのを待っていたら出発はさらに数ヶ月も延びることを懸念したペリーは“ミシシッピ”単独で出発することを決心しました。ペリーは蒸気艦の修理がいつ終わるかわからないので“ポーハタン”(3,865排水トン)を参加させる手筈(てはず)を整え、また現在整備中の軍艦とはいつか合流する機会があることを期待して、1852年(嘉永5)11月24日にノーフォークを出港しました。“ポーハタン”は1852年9月に完成したばかりの新鋭艦で、“サスケハナ”と同型艦です。“ポーハタン”は次の年の1853年3月にアメリカを出港しましたが、結局ペリーの最初の来航には間に合わず、第2次の来航に参加することになります。
 
“ミシシッピ”の航路図
 
3. “ミシシッピ”の日本までの航跡
 ペリーはどういう航路を通って日本まで来たのでしょうか。前に説明したように蒸気船の太平洋航路は未整備なので、アメリカから大西洋を横断し、アフリカの西海岸を南下して喜望峰(きぼうほう)を回ってインド洋に入り、さらにシンガポールを通って香港(ほんこん)、上海(しゃんはい)に至るという航路でした。上海から琉球(りゅうきゅう)(現在の沖縄(おきなわ))の那覇(なは)に寄港し、ここで最終の艦隊を編成して日本に向かいました。航路の詳細は航路図を見て下さい。
 この航跡について少し詳しく見てみましょう。ノーフォークを1852年(嘉永5)11月24日に出港した“ミシシッピ”は大西洋を横断し、12月12日にマディラ諸島に到着しました。大西洋横断中はかなりの荒波の中を航海しましたが、1日平均7ノット以上の速力で航走しました。この間ボイラの出力を30%位落とし、帆と併用して走りましたが、石炭の消費量は1日当たり約26トンでした。マディラには3日間停泊し、石炭440トンと水、食料等を補給しました。
 12月15日にマディラ諸島を出港し、次の寄港地セントヘレナ島に向かいました。12月17日にボイラの火を落とし、外車の水かき板を取り外して帆走に移りました。帆走の場合、外車の水かき板をそのままにしておくと水の抵抗が大きくなって速力が落ちるので取り外したのです。12月29日に水かき板をまた元に戻しボイラに点火し汽走運転に移りました。
 1853年1月10日にセントヘレナ島に到着しました。ここで石炭130トン、水、食料を積んで次の日出港しました。セントヘレナ島はナポレオンが幽閉(ゆうへい)されていた所ですが、ペリーは忙しい合間をぬってナポレオンの墓に詣で(もうで)ました。
 
ナポレオンが幽閉されていたセントヘレナ島に到着した“ミシシッピ”
 
後ろにテーブルマウンテンを望むケープタウンに入港する“ミシシッピ”
 
マラッカ海峡にて、英国艦(右)が礼砲発射で“ミシシッピ”に敬意を表した所
 
 1月24日に喜望峰のケープタウンに入港しました。ここで無煙炭(むえんたん)226トン、瀝青炭(れきせいたん)362トン合計588トンの石炭と水、食料の他に12頭の牛と18頭の羊を積み込みました。無煙炭は途中の寄港地で充分な石炭を入手できないことを心配したペリーが、アスピンウォール商会に依頼して手配してあった2隻の石炭船の内1隻に積んであったものです。もう1隻の石炭船は次の寄港地のモーリシャス島で積めるようにしておきました。
 2月3日にケープタウンを出港しました。次のモーリシャス島に行く航路は強い風を上手く利用するため、ヨーロッパのほとんどの蒸気船がそうしているように曲線航路を取りました。これに対し“サスケハナ”は直進航路を取りましたが“ミシシッピ”の15日間に対し2日余計にかかり17日間でした。
 2月18日にモーリシャス島に到着しました。ここでアメリカの石炭船から無煙炭262トン、街から瀝青炭208トン、合計470トンの石炭と水、食料を積み込み2月25日に出港し、次の寄港地であるセイロン島(現在のスリランカ)のポイント・デ・ガルに向かいましたが、直進航路でなく、数人の経験のある乗組員の意見に従って150海里(かいり)長くなりますが、西側に大きく迂回(うかい)する航路を取りました。
 3月10日にポイント・デ・ガルに到着しました。この港はインド、清国や紅海(こうかい)に往復するイギリスの定期船の重要な寄港地で、大きな石炭貯蔵庫がありました。しかし外国の艦船には1トンたりとも供給してはならないと厳命されていたので、止むを得ずセイロンの政庁に頼み込んでわずかな石炭を入手しました。
 3月15日にポイント・デ・ガルを出港し、狭いマラッカ海峡を通過して3月25日にシンガポールに入港しました。シンガポールもイギリスの支配下にあり石炭の供給を受けられるかどうか心配しましたが、幸いイギリスのP&O汽船会社が香港で返却するという条件で230トンの石炭を貸してくれました。
 3月29日にシンガポールを出港し、4月7日に香港に到着しました。昨年の11月24日にノーフォークを出港してから135日に及ぶ長い航海でした。香港で帆走スループの“プリマウス”、“サラトガ”と帆走補給艦の“サプライ”に出会います。しかし“サスケハナ”は上海に出港した後だったので、ペリーは“ミシシッピ”、“プリマウス”、“サプライ”を率いて上海に向かい、ここで“サスケハナ”と合流します。ペリーは旗艦(きかん)を“ミシシッピ”から大型の“サスケハナ”に変更しました。
 
4. ペリー艦隊の第1次来航
 5月23日に“サスケハナ”、“ミシシッピ”、“サプライ”の3隻は上海を出港して那覇に向かいました。“プリマウス”は上海のアメリカ居留民(きょりゅうみん)警備のためしばらく留まる(とどまる)ことになりました。
 5月26日に、“サスケハナ”、“ミシシッピ”は那覇に到着しました。香港近くにあるマカオから直行してきた“サラトガ”も同じ日に那覇に入港しました。“サプライ”は少し遅れて5月28日に到着しました。那覇に停泊中ペリーは“サスケハナ”と”サラトガ”を率いて小笠原諸島の調査に出かけました。日本との交渉が不調に終わった時に備えて、ここに石炭その他の物資の補給基地を建設しようと計画していたので現地の調査に行ったのです。ペリーが那覇に戻ると“プリマウス”が入港していました。ここでペリーは最終の日本遠征艦隊を編成しました。“サプライ”は那覇に残すことにしたので、結局“サスケハナ”、“ミシシッピ”、“プリマウス”、“サラトガ”の4隻で日本に行くことになりました。
 最初計画していた13隻は整備が間に合わない船が多くてわずか4隻ということになりました。「残りの艦船はいったいいつ到着するのか全く予測ができない有様である」とペリーは「日本遠征日記」の中で嘆いています。通信手段のない当時としては止むを得ないことでした。
 1853年7月2日(嘉永6年5月26日)に4隻の艦隊は那覇を出港し、日本を目指しました。“サスケハナ”は“サラトガ”を、“ミシシッピ”は“プリマウス”をそれぞれ曳航(えいこう)して航行し、最初に述べたように7月8日(旧暦6月3日)に浦賀沖に投錨しました。
 ペリーが携えて来たフィルモア大統領の国書の受け渡し場所について、日米間で交渉が重ねられましたが、結局、久里浜(くりはま)(浦賀近くの場所)ということになりました。
 7月14日(旧暦6月9日)に久里浜で大統領国書の伝達式が行われ、ペリーの護衛のため2隻の蒸気艦が久里浜沖に移動しました。ペリーは各艦の士官、海兵隊、水兵、軍楽隊約300人を率いて上陸しました。伝達式が終わるとペリーは来春国書の返答を受取るため再び来日すると言い残して艦に戻りました。
 このあと艦隊を率いて北上し、夜は小柴(こしば)沖(現在の横浜市金沢区沖)に停泊しました。この地点はペリーによって「アメリカ錨地(びょうち)」という名前を付けられていた所です。次の日ペリーは“ミシシッピ”に乗って羽田沖まで北上し、いつでも江戸の町に接近できることを見せつけました。
 7月17日(旧暦6月12日)にペリー艦隊は江戸湾を出港し、那覇を経由して香港に戻りました。
 この小冊子でご紹介した4隻のペリー艦隊に関する話はこれで終わりますが、この後のペリー艦隊とペリーの動向について簡単にご紹介しましょう。
 
久里浜にて、日本に初上陸するペリー艦隊の一行
 
浦賀付近を測量する“ミシシッピ”の搭載艇。攻撃の意図が無いことを、艇首に掲げた白旗で示している
 
富士山を後方に望み、江戸湾を北上するペリー艦隊
 
フリゲートとスループ
 帆船時代の軍艦(24門以上)は大砲の数によって、戦列艦(60門以上)とフリゲートに分けられていました。フリゲートは通常大砲を24〜40門備え、高速で偵察(ていさつ)などを主な任務にしていた軍艦です。フリゲートの次にランクされたのがスループで2、3本のマストと20門前後の大砲を備えていました。歴史の本でペリー艦隊のスループを1檣縦帆船(しょうじゅうはんせん)と訳されていることがありますが、これは誤りです。蒸気船の時代になってもフリゲートやスループの名称はそのまま使用されましたが定義は明確でなく、時代によって大きさ備砲の数は変化しています。1840年代後半のフリゲートは排水量2,000〜3,000トン、スループは1,000〜2,000トンでしたが、フリゲートは次第に大きくなり5,000トンを越えるものが出現しました。こうなるとスループとの開きが大きくなったので、イギリスではコルベットと呼ばれる艦種が生まれました。しかしアメリカでは2,500トン位の艦でもスループと称していました。







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