“ポーハタン”の図
(亜米利加船渡来横浜之真図より)
“サスケハナ”と同型の“ポーハタン”の特徴を良く再現して描いている。
所蔵:神奈川県立歴史博物館 |
“ポーハタン”の図
(ペリー渡来絵図貼交屏風より)
船の構造に大変詳しい絵師の手による、第2次来航の“ポーハタン”の図。策具(さくぐ)類や外車など船の艤装品(ぎそうひん)が実に詳しく描かれている。本艦は“サスケハナ”と同型艦であるが、赤い帯が船体上部に描かれている点が異なる。
所蔵:東京大学史料編纂所
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1. ペリー艦隊浦賀に現れる
1853年7月8日(嘉永(かえい)6年6月3日)の夕刻、4隻の巨大な黒船が江戸(現在の東京)湾に現れ浦賀沖に投錨(とうびょう)しました。4隻はアメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督が率いる艦隊で、蒸気フリゲートの“サスケハナ”と“ミシシッピ”、帆走スループの“サラトガ”と“プリマウス”でした。蒸気艦の“サスケハナ”が“サラトガ”を、“ミシシッピ”が“プリマウス”をそれぞれ曳航(えいこう)して入港しました。
狭い浦賀水道を帆を使用しないで、自由自在に航行する大きな船を見て人々はびっくりして「城が動くようだ」とか「飛ぶ鳥のようだ」などと形容しました。
また、黒船の出現に大騒ぎする世相を風刺(ふうし)して、
「泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たった四はいで夜も眠れず」
のような狂歌がたくさん作られました。この狂歌で上喜撰というのは上等なお茶のことで、上等なお茶をたくさん飲むと夜眠れないように、蒸気船(じょうきせん)が心配で夜も眠れないという意味です。この狂歌では蒸気船が4隻になっていますが、実際はすでに説明したように2隻です。
当時の人々が目にした大きな船は千石船(せんごくぶね)なので、千石船と“サスケハナ”の大きさを比較してみましよう。千石船は文字通り1,000石の米を積める大きさの船ですが、1,000石の重さは約150トンなので、積載(せきさい)能力は150トンということになります。また排水量(はいすいりょう)は約200トンと推定されます。排水量とは喫水線(きっすいせん)から下の船体部分が排除する海水の重さですが、これは船全体の重さに等しくなります。一方“サスケハナ”の排水量は3,824トンなので千石船の排水量の19倍もあることになります。船の外形を比較した図をご覧ください。黒船が千石船に対してどんなに大きいか分かります。これでは当時の人々が黒船を見て驚いたのは無理もありません。
千石船と“サスケハナ”の大きさ比較
さて、ここで艦隊のプロフィールを紹介しましょう。詳しいことは後ほどまた説明しますので、簡単に述べることにします。
各艦の写真や絵も参照してください。“ミシシッピ”は1841年(天保12)12月に完成、アメリカで建造された最初の蒸気フリゲートです。また“サスケハナ”は1850年(嘉永3)12月の完成ですから、来日した4隻のなかでは一番新しい軍艦(ぐんかん)でした。
両艦共に3本マストで帆が張れるようになっていました。当時の蒸気船は、まだ蒸気機関の効率(こうりつ)が悪く燃料の石炭をたくさん消費するので、蒸気機関だけで長距離を走ることは困難でした。従って風向きの良いときは蒸気機関を止めて帆だけで走ることや、あるいは蒸気機関の馬力を落として帆と併用して走ることがよく行われていました。また蒸気機関が故障したときは帆だけで目的地まで航海する必要があります。このため帆船と同じような帆走装置が装備されていました。
船体は黒く塗ってあったので、鉄製と思っている人がいますが、すべて木製です。また船体の両側にある水車のような車輪を蒸気機関で回して前後に進めるようになっていました。
満載排水量は“サスケハナ”が3,824トン、“ミシシッピ”が3,220トンです。この他当時使用されていたトン数でビルダーズ・メジャーメント(builder's measurement)と呼ばれるトン数がありました。このトン数は1870年代の初期までよく使用されていましたが、その後は全く使われなかったので日本語の訳(やく)がありませんので、ここでは今後bmトンと呼ぶことにしますが、bmトンの定義についてはコラムの解説をご覧ください。
さて、このbmトンは“サスケハナ”が2,450トン、“ミシシッピ”が1,692トンでした。この数値は一般の歴史の本で排水量として誤って紹介されていることが結構多いようです。
また帆走スループの“プリマウス”と“サラトガ”は共に3本マストの木造帆走艦で、“プリマウス”が1843年(天保14)、“サラトガ”が1842年(天保13)の建造です。
bmトンは“プリマウス”が989トン、“サラトガ”が882トンですが、排水量は両艦とも不明です。
さてペリーは何のために日本に来たのでしょうか。ペリーは日本に「開国と通商」を求めるアメリカのフィルモア大統領の国書を日本側に手渡し、承諾(しょうだく)の返答をもらうために来航しました。アメリカが日本に対し開国と通商を要求した目的は次のように言われています。
まず第一に、アメリカと清国(しんこく)(現在の中国)の間に蒸気船による太平洋航路を開くため石炭や食料、水等の補給基地を日本に求めるものです。アメリカと清国の間は人の移動や交易も盛んでしたが、これらはすべて帆船によって行われていました。
この航路に蒸気船を走らせようとすれば、当時の蒸気船では途中で石炭を補給しないで太平洋を横断することは不可能なので、中継基地がどうしても必要になります。
その次は、アメリカの捕鯨船(ほげいせん)の補給墓地を日本に求めるものです。当時太平洋にはアメリカの捕鯨船が多数操業していました。今では想像もできませんが、その当時、アメリカは大捕鯨国だったのです。捕鯨の目的は鯨の油を照明(しょうめい)用に使うためです。多数の捕鯨船が太平洋で操業(そうぎょう)すれば、物資の補給を日本で行うのが便利です。
また遭難(そうなん)して日本に辿り(たどり)着く乗組員も出てくるでしょうから、これら遭難者を保護してもらう必要が出てきます。
三番目が日本との貿易を進めようというものです。ペリー以前にも日本に開国と通商を求めて来航した外国の艦隊はいくつかあります。例えば1846年(弘化3)、浦賀に現れたアメリカのビッドル提督に率いられた2隻の帆走艦が有名です。
しかし、いずれも幕府の厚い壁に阻まれて(はばまれて)交渉は失敗に終わりました。これに対し、ペリーは蒸気艦の機動力と艦載(かんさい)砲の威力を背景にした巧みな交渉で、初めて日本を開国させることに成功しました。ペリー艦隊の大砲は“サスケハナ”が9門、“ミシシッピ”が10門、帆走スループがそれぞれ22門で合計すると63門になります。
これに対し、江戸湾の入口に配備されていた大砲は約100門ありましたが、ペリー艦隊の大砲に匹敵する大砲は僅か20門程度で、射程距離もペリー艦隊の約2,000メートルに対し、大部分が半分以下でした。この強力な武力を前にしては、幕府としては何とか交渉をまとめて平穏無事(へいおんぶじ)のうちに艦隊に引き揚げてもらうほかはなかったでしょう。このような状況を風刺した落首(らくしゅ)に、
「アメリカが来ても日本はつつがなし」
というのがあります。「つつがなし」には平穏無事という意味と筒(つつ)(大砲)がないという両方の意味が込められています。
蒸気フリゲート“ミシシッピ” (The Illustrated London Newsより)
蒸気フリゲート“サスケハナ”
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