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 「僕四日の夜、船を発候処、甚遅し。且風潮共に不順。五日朝四ッ時漸く品川に到り上陸仕、夜四ッ時浦賀に着仕候」。松陰は4日の夜船を出したのですが、これは佐久間象山から異国船が来たという情報を聞いたようです。佐久間象山は川路聖謨から情報をもらったようです。松陰は船に乗りましたが、江戸湾が風、潮ともに不順で、ようやく品川に至った程度という話です。しょうがないので、そこから陸路をひた走りに走って、夜、浦賀に着いた。暗くて何も見えませんので、次の日の朝、すなわち6日の朝、「今朝高処に登り賊船の様子相窺候処」、高いところに登って賊船の様子をうかがった。松陰にとって黒船はあくまでも賊船であり、もちろん平和の使者ではありません。
 吉田松陰が登った「高処」がどこかということがどうしても知りたくて、浦賀に通ったわけです。これは当時のちょうど4隻の黒船艦隊、アメリカ合衆国艦隊が浦賀沖に停泊している、第1回の来航の様子です。これがフラッグシップ旗艦、“サスケハナ号”だろうと思います。そしてこちらは、やはり外輪がありますから“ミシシッピ”です。それから帆船の“プリマス”と“サラトガ”で、これではどちらがどちらかわかりませんが、このように停まっている。
 浦賀の港はこちらです。こちら側に西浦賀と書いてありまして、こちら側は東浦賀です。上陸した久里浜は、もっとずっとこちら、このへんになります。ここは浦賀の港の入口の燈明台という、当時灯台の役割をしていたものです。この燈明台は東浦賀の干鰯問屋が元禄以降からずっとお金を出して、毎晩灯していました。終夜油を焚きますので、お金のある人でないと出せない。干鰯問屋は非常に儲かっていたらしいものですから、その人たちに出すようにと浦賀奉行が命じて、ずっと灯していたようです。
 次のこれですが、これは東浦賀の先ほどの山です。新台場と書いてありました。つまりお台場をつくっていたのです。さらにこの上にも明神ケ崎の台場というかたちで台場をつくっていました。もう一度元に戻しますと、ここに新台場と書いてあります。この山一帯は軍事施設でしたから、一介の浪人である吉田松陰は、ここには登りにくいだろうと思います。山が二つ描いてありますが、このあたりではないかと私は当たりをつけました。ここはちょっと難しい。これは中世から御後北条氏の城だったようで、ここに空堀がつくってあって一大軍事防御施設になっています。現在は東叶神社の奥宮がこの上にありまして上まで登れますが、おそらく江戸時代はこれ全体がお台場というかたちで軍事施設になっていて、この上は物見台にもなっていたようですから、松陰が行くにはちょっと難しいかなということです。
 そこで、いまの山がこれですが、少し平らになっていまして、もう1個山があり、そしてもう1個山がある。だから最初の江戸時代の地図は結構正確なのです。これが明神ケ崎の台場であり、東叶神社が先ほど見えていました。いま、ここの平らな部分にずいぶん住宅ができていました。ここに集会所があり、ここの狭い道を登っていきますとここが開けていまして、そこがこの山です。この山のこのあたりから見ると、このように見えます。ですので、黒船艦隊はこのへんに停まっていたと思われますが、日本の船がどんどん入りますから、少し浦賀の港の口をよけて、鴨居の団地のこちら側あたりにいたと思われますので、むしろ先ほどの明神ケ崎の台場よりは、こちらの鴨居の、観音崎寄りのほうが見やすいということになります。
 燈明台のところはここです。だから先ほどの、この図は灯明台のところから見たものです。私がいま立って撮影しているのが燈明台で、これが明神ケ崎、東浦賀の新台場のあたりです。それで松陰はこのへんから見たと思われる。このへんからもう一度見ると、このように見えるということです。
 この書簡によると、ここから立って黒船艦隊をどのように見たのか。「四艘」、括弧で括ってありますが、これは割注といいまして、この四艘を説明しているのです。「四艘<二艘は蒸気船、砲二十門余、船長四十間許。二艘はコルベット、砲二十六門、長二十四五間許>」というふうに観察しています。
 さて、船の科学館で出してくださいました、この資料ガイド4、「黒船来航」というものをお持ちだと思いますが、これが黒船艦隊のデータとしてはとても正確で役に立つものだと思いますが、これによりますと、当時きていた“サスケハナ号”、これがフラッグシップですが、フリゲートです。それから“ミシシッピ”もフリゲートです。ともに蒸気船です。長さは“サスケハナ”が76.2メートル、“ミシシッピ号”は67.06メートルと、こちらのガイドに書いてありました。
 それから“プリマス”、“サラトガ”に関しては、スループという分類になっていまして、コルベットではありません。ただ、当時、松陰の時代にこれはコルベットといっても無理はないと思うのは、フリゲートより小型の船、軍艦であるということになると、コルベットでもそれほど間違いではないのかなと思います。“プリマス”の場合は44.96メートルとありまして、“サラトガ”も44.6メートルということで、非常に近い値です。
 それでは松陰が言った、蒸気船に関して40間というのは、すぐに頭の中で換算できる方はある年代以上だと思いますが、だいたい72メートルです。それからコルベットに関する24、5間というのは、43.2メートルから45メートルということです。“サスケハナ”が76メートルで“ミシシッピ”が67メートルですから、ちょうどその中間の72メートルということで、すごくいい値ではないかと私は思います。それからコルベットに関しては、43.2メートルから45メートルですから、“プリマス”、“サラトガ”も44メートルですので、これも非常に近い値です。遠く離れていたはずで、こういうふうに見えたはずですが、それでだいたいどのくらいの長さかというのを非常に正確に測ることができているということに、まず一つ驚いているところです。場所は鴨居というところですが、鴨居から見てよかったのではないかと思います。
 それで大砲の数ですが、これに関しては蒸気船は20門余りであると書いてありますが、実際に“サスケハナ”は9門というふうになっています。“ミシシッピ”は10門で、それから“プリマス”、“サラトガ”に関してはともに22門ということです。蒸気船に関してはよく見えなかったのではないか。約2倍に書いてしまっています。帆船に関しては、22門が26門と書いていますから、これについては誤差はマイナス4ですから、それほど数え間違いはない。どうも蒸気船に関しては過大評価をしてしまったのかなという気はいたします。
 さて、本文に戻りますと、「陸を離るヽこと十町以内の処に繋舶し、船の間相距ること五町程なり」。十町ですから、約1.8キロメートル先に繋留していた。船の間は9メートル程度であるというようなことを書いています。これはそのときそのときでいろいろ違いがあるのでしょうが、約1.5キロ沖合いにいたというようなことがいわれていますので、これもそれほど悪い値ではないと思います。
 松陰にとって問題は、「然るに此方の台場、筒数も甚寡く、徒に切歯耳」というところです。わがほうの台場は筒数もはなはだ少なく、いたずらに歯ぎしりしているだけであるということです。「且聞く、賊船の方申分には、明後日昼九ッ時迄に願筋の事無之候得ば船砲打出し申由、申出たる段相違無之」。かつ聞くには、これは浦賀奉行所の人間から聞いたのだろうと思いますが、賊船の連中が言うことには、明後日の昼九つ時までにわれわれの要求をのまなければ、船の大砲を撃ち出すことになる、そのように言っていることに相違ないらしいということです。
 ここでまた松陰は割注を施しまして、船に関する情報を書き止めています。「<船は北アメリカ国に相違無之、願筋は昨年より風聞の通りなるべし。然れどもかの国書は御奉行御船へ乗られ候へば出し可申、無左候へば江戸へ直に持参るべく申すよし。願筋の外のことにしては日本より舟やりても一向に舟に乗せ不申候。朝夕賊船中にて打砲いたし、禁ずれども不聴>。船は北アメリカ国のものに相違がないだろう。彼らの要求は、昨年から噂になっているとおりではないだろうかと言っています。片桐先生がこの講座で、ペリー来航の予告情報のことをお話しなさったと思いますが、ここからすると吉田松陰も、前年ごろから噂は聞いていたようです。
 その噂のルートはどういうものかというと、レジュメの15を見ていただきたいのですが、これは私がつくりましたオリジナルな表です。ここにつけ加えておきました。要するにペリー来航予告情報というのは、その出所は上の段の真ん中にあります在長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウス、またあとで出てきますが、この人が長崎奉行、牧志摩守にいくつか情報を伝達して、それを長崎奉行が老中に伝達しました。そして老中、阿部伊勢守は、次の次の段にあります江戸湾防備四家、会津、彦根、忍、川越と、それから浦賀奉行と、それから長崎を防備する鍋島、黒田の二つの家、それから事実上、琉球を支配している島津氏、彼らに情報を伝達しています。
 吉田松陰に漏れる可能性があるとすれば、浦賀奉行経由です。なぜかというと、ここに与力と書くのを忘れてしまったのですが、当然、与力、同心というものがいまして、その与力の一人に小笠原甫三郎という男がおりました。括弧して手書きしてあるものですが、この人間は実は浦賀に出張している与力で、もともとは佐久間象山の知人で、江戸に住んでいました。松陰は、おそらくこのルートから象山を介してアメリカの船が浦賀に通商要求でやってくるということを聞いていたと思われます。これは決定的な証拠はまだありませんが、このような状況証拠から、「願筋は昨年より風聞の通りなるべし」というふうに書いたのだろうと思います。合衆国大統領フィルモアの親書を国書と称するわけですが、ペリーは国書を将軍に渡したいと日本に要求しますが、御奉行が船に乗ってこなければ出さない、もしそうしなければ、われわれは江戸に直に持って行って渡すと思えという要求を浦賀奉行所に突きつける。その願筋以外のことでは、日本からやっても船には乗せない。朝夕、賊船中にて大砲を撃つ。禁ずれども聞かないということで、賊船という言葉からもわかるように、吉田松陰としてはくやしい思いをしているわけです。
 本文に戻ります。「佐久間並塾生等其外好事の輩多く相会し、議論紛々に御座候。浜田生近沢も参り居候事」。もちろん佐久間象山は先に着いていました。それからその塾生、そのほかこういうことが好きな人間が集まって、議論が紛々な状態である。浜田、つまり現在の島根県で生まれた近沢啓蔵という男です。吉田松陰はやはり佐久間象山の塾で知り合ったわけですが、彼も来ているということをこの手紙の中でも書いています。
 彼らが会ったところはどこかというと、現在の東浦賀のある一角に、こういうプレートが立っています。「吉田松陰、佐久間象山相会するのところ(徳田屋跡)」というものです。この場所はどこかというと、14の現代の地図に落としておきましたので、ぜひご覧ください。吉田松陰が黒船を見分したのは、かもめ団地というところの上の×の印のこの山です。
 そこからさらに左のほうに少し行きますと愛宕丸と書いてありますが、地図で「愛」の字の近くにある郵便局のそばです。ここに旧徳田屋跡というので、今ここに映っていますが、ここで松陰たちが悲憤慷慨しながら、ああだ、こうだとやり合った場所です。現在、個人のお宅になっておりまして、撮るのがはばかられたところもありますが、皆さんにお見せするために、意を決して撮りました。







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