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第6回 「黒船」が日本にもたらしたもの〜ペリーの白旗と白旗書簡の謎を解きながら〜
明海大学助教授 岩下哲典氏
 
司会 皆様、お待たせいたしました。「海・船セミナー2003」、本日は最後、6回目となりました。本日は明海大学助教授でいらっしゃいます岩下哲典先生に、「『黒船』が日本にもたらしたもの〜ペリーの白旗と白旗書簡の謎を解きながら〜」ということでお話をしていただきます。それでは岩下先生、よろしくお願いいたします。
 
岩下 皆様、こんにちは。ただいまご紹介にあずかりました岩下でございます。どうぞよろしくお願いいたします。それでは座って失礼させていただきます。
 本日のお話を申し上げる前に、レジュメの確認をさせていただこうと思います。レジュメは裏表になっていると思いますが、1枚目の裏が2になっています。それから3、次が4、5、6、7、8、9、10と私の論文をコピーさせていただきました。そして12が毎日新聞の白旗書簡の記事に関してのコピーで、13が長崎の地図です。14は右のほうがペリー来航時の江戸湾の地図で、『ペリー遠征記』からコピーしました。それから現代の浦賀、久里浜、観音崎ですが、適当な地図がなかったものですから旅行案内からコピーをしました。
 それからペリー来航予告情報の経路ということで15、それから16は予告情報の一覧と、いま映し出しております映像タイトルの一覧表です。87番までですが、実はここに訂正がございまして、恐縮ですがご訂正いただきたいと思います。昨日夜なべをして順番を入れ換えましたが、皆様のお持ちのレジュメから見ると、56の「江戸湾浦賀の眺望」と、その次の57、「西浦賀の燈明台を望む」と、58の「西浦賀の燈明台」の三つですが、この三つを丸く囲んでいただきまして、後ろのほうの68のあと、69の「江戸湾図」の前に入れていただければと思います。そうしますと、55のあと、59が56になります。すみませんが、よろしくお願いいたします。
 それではレジュメの「はじめに」に従いながら、お話をさせていただこうと思います。まずとりあえず自己紹介をさせていただきますが、自己紹介データというものを資料一につくっておきました。画面が変わりまして、これが私の勤務しております明海大学という大学でございます。前身は城西歯科大学で現在も埼玉県坂戸市に明海大学歯学部があります。ディズニーランドにためを張ったわけではありませんが、浦安に進出しまして外国語学部と経済学部が先にできまして、不動産学部が少し前にできました。皆様の中で、お子さんやお孫さんにぜひご紹介いただければと思います。そうすると、「誰の紹介で来たの」などということで、面接で私の名前を出していただくと、岩下はよくやっていると上の方々に喜ばれるかもしれないという、淡い期待を抱いているわけです。
 明海ということで、明るい海と書きまして、何となく海、船に関係があるのかなと思っていましたら、どうもこの建物のここが船のブリッジに似ていると最近思い始めてきました。ここの辺りが学長等のどの上の方々の部屋、それから会議をする部屋でございます。
 次ですが、これは浦安市の郷土博物館です。パンフレットがお手元にあると思いますが、これも少し船にかかわりのあることですので、ご紹介させていただきたいと思います。浦安はベか船の街ということで全国的に有名になりました。山本周五郎の『青べか物語』ですね。どういうわけか私は昔、「赤べか物語」だと思っていて笑われました。実は、この浦安の郷土博物館ができるときにいろいろとありまして、新しい市長が博物館は福祉施設に転用するという公約を掲げて当選してしまったものですから、この博物館ができるかできないか非常に微妙な状態でした。しかし、博物館のない町は味気ないという声もあり、つくろうということになり、でき上がっております。
 こちらの建物の、いま見えないこのところにべか船を浮かべておりまして、乗船体験などもできますので、ぜひいらっしゃっていただければと思います。また、山本周五郎直筆の『青べか物語』の自筆原稿を買いましたので、現在、10月13日まで、その原稿を初公開しております。ぜひ周五郎の筆の跡を見ていただければと思いまして、ご紹介しました。
 さて、私が最初に書いた本は、この『権力者と江戸のくすり』というものです。なぜ権力者とくすりが結びつくのかというのはこの本を見ていただければありがたいのですが、オーソドックスな歴史というよりは、くすりから江戸時代を見てみようという方向で研究をしてきました。こちらは最近のものですが、『江戸情報論』ということで、今度は情報から江戸を見てみようということです。
 これが今回の話のメインになる著作ですが、『幕末日本の情報活動−「開国」の情報史』ということで、情報から開国ということをもう一度点検してみようと思ったしだいです。それで第2回になるでしょうか、片桐先生がご講演されたと思いますが、この本によりまして、片桐先生から博士号をいただいたといった関係でございます。
 私の自己紹介はこれで終わりまして、そろそろ本題に入りたいと思います。今年はペリー来航150年ということで、何度か浦賀に行きまして、この夏も4日間ぐらい行っておりました。浦賀の街を歩いておりますと、これは2000年に浦賀中学のお子さんたちがつくったもののようです。もっとたくさん画像がありますが、このように街のところどころで150年をお祝いするような雰囲気になっておりました。そして少し前に横須賀の「海軍カレー」というものが話題になりましたが、いま「陸軍シチュー」などというものもできまして、さらに「開国の味、黒船シチュー」などということで、こくのある、まろやかなクリームシチューというものができました。
 また、鹿目茶舗でしょうか、ここでは「開国銘茶 上喜撰」というお茶を売っておりました。250グラム1000円なりです。この鹿目のご主人の話によりますと、上喜撰というお茶は、いまは流行りではないのでつくっているところがほとんどないけれど、当時の製法等で再現したとおっしゃっていましたので、買ってみたしだいです。こんな感じのものですが、実際に飲んでみました。実は早稲田大学のゼミ合宿で行ったときに、みんなで飲もうといって飲んだのですが、やはり結構目が覚めまして、明け方4時や5時まで起きている学生もいて、これは上喜撰のせいだなどと言っていたようです。
 このように開国をきっかけに、まちづくり、あるいは村興し、町興しのようなことが行われているわけです。黒船シチューの後ろにも由来記などが書いてありまして、本当にこの黒船シチューは、当時、ペリーの艦隊で食べられていたものを再現したのかどうかというと、読んでみてもそうではないらしいです。いま横須賀の人文博物館でペリー来航150年を記して展示会をやっておりますが、そこにペリー艦隊の人からもらったという、この鍋が展示されておりました。
 なんでも水を補給してあげたら鍋をもらったらしいのですが、おそらくここで、この鍋でシチューをつくっていたのではないかといった気持ちで食べてくださいということです。そんな感じの、少し強引かなという感じの黒船シチューらしいです。博物館の方も、展示品はシチュー鍋かどうかはわからないとおっしゃっていました。それにしても、これをきっかけにしていろいろなことをするということは一つのパワーになるのではないかと思います。ちなみに鹿目茶舗のお店はこんな感じです。
 さて、こんな風に浦賀を歩いてみたわけですが、実は浦賀に行ったのは、単にその程度の話ではありません。特にここに出ている吉田松陰が、実際にどこから黒船を見たのかということをどうしても知りたくて行きました。吉田松陰の話の前に、先ほど上喜撰が出てきましたが、「泰平のねむりをさます」の狂歌は後世の作ということを少しお話ししておこうかと思います。初公開などという大したものではありませんが、第1回で半藤先生に少しお話しいただきましたが、それについて、実はもちろん先生の話の前から私もそう思っておりまして、これは負け惜しみでも何でもありませんが、これがいったい何に載っているのかということを調べてみたわけです。
 「泰平のねむりをさますじやうきせん たつた四はいで夜も寝られず」という有名な、幕府を風刺する狂歌の出典は、いままで簡単に教科書などに挙げられていたので、本当に当時のものだろうと思われていましたが、実は確実な出典としては二つぐらいしかありません。その一つは昭和59年という比較的新しい年代に刊行された『江戸時代落書類聚』という本がございます。これは矢野松軒という男が、これはよくわからない男ですが、大正3年から4年にかけて収集した、江戸時代につくられたとされる落書を収録したものを、いまから19年前に刊行したというものです。つまり「泰平の」の狂歌は大正初年ごろまでしか遡れない。
 しかし念のために、『武江年表』という、よく知られた本を見てみました。これが半藤先生が紹介していた本です。正式には『増訂武江年表』といいまして、平凡社の東洋文庫に入っています。この嘉永6年6月3日の条を繰ってみますと、はたしてこの狂歌が収録されています。ところが『武江年表』のその直前の記述は、明らかに後世になって知り得た安政五ケ国条約、つまり安政5年の条約についてもいっている。嘉永6年6月3日の条なのに、そこに安政5年の記述も入り込んでいますから嘉永6年当時にこの狂歌が歌われていたという証拠にはまったくならないわけです。ただし、この『武江年表』がつくられた明治11年には、「泰平の」は確実に存在した。だから、「泰平の」という狂歌は明治11年までは遡れるということがはっきりします。
 ペリー来航当時歌われていた狂歌は、やはりリアルタイムで情報を収集していた江戸の情報屋であるところの藤岡屋由蔵の、『藤岡屋日記』(第5巻、三一書房)というものを点検しなければならないわけです。それでは、この「泰平の」はあるのでしょうか。「老若のねむりをさます上喜せん 茶うけの役にたらぬあめりか」、あるいは「毛唐人などと茶ニして上きせん たつた四はひで夜は寝られず」などという歌はありますが、「泰平の」という言葉を持った歌はありません。どう考えるべきなのでしょうか。
 「泰平の」というこの狂歌は、どうやら江戸時代を、黒船に腰を抜かすような武士たちが、惰眠をむさぼっていた泰平の世の中だったのだという、いかにも明治人の歴史認識を示す表現であろうと思います。つまり「泰平の」は、江戸をだめなものと思い込もうとした明治人によってアレンジされた狂歌なのではないでしょうか。すなわちペリー来航当時、この狂歌は歌われていなかった可能性が高いと私は思います。基本的には半藤先生の説を補強することになりますが、そういうことだろうと思います。
 それで先ほどの、『江戸時代落書類聚』を点検してみますと、この狂歌の一番最初に「泰平のねむりをさますじやうきせん」というものが出てきます。だから一番最初に出しているというので有名になってしまったわけですが、一番最初に出てくるのはどうもあやしいということにもなろうと思います。
 それでは当時の資料で黒船がもたらしたものということで、私は特に吉田松陰という人物を取り上げて、彼が黒船に対して何を思ったかということをお話ししてみたいと思います。それが一の「ペリー来航、そのとき吉田松陰は?!」ということですが、嘉永6年6月6日付道家竜助宛吉田松陰書翰を読むということです。資料は三になります。意外と読みやすい書翰ですので、とりあえず読みながらご説明させていただこうと思います。資料三、レジュメナンバーは2になります。







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