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 ところが当時のアメリカの国全体の工業力が低いためと思うのですが、なかなか艦隊の整備が思うようにいかない。“サスケハナ”は1850年にできたのですが、できてすぐ極東に派遣され本国にはいなかったのですが、残りの“プリンストンII”、“アレゲニー”、“サン・ジャシントン”を率いて“ミシシッピ”と一緒に出ようと思ったら、どうにも故障ばかりでなかなか直らない。これではいつ出発できるかわからないということで、“サスケハナ”の同型船の“ポーハタン”という船がありますので、3隻の代わりに“ポーハタン”をぜひ艦隊に加えようという手はずを整え、いつまで待ってもどうしようもないということで“ミシシッピ”が単独で出かけていくわけです。
 蒸気艦だけでは艦隊が整わない。帆走艦も率いて行こうということで、これだけの帆走艦を率いて行くことを考えたわけですが、このうち“ヴァンダリア”と“マセドニアン”が本国にいて“プリマス”と“サラトガ”が東インド、極東にすでに行っている。帆走艦もなかなか整備が整わないということで、結論から先に言うと(1)が1次航に間に合って日本にやって来ました。(1)の船が4隻です。
 (2)が2次航で1854年、次の年にやってくるわけですが、これが9隻です。一般に日本程度の軍備の国を開国にこぎつけるのは簡単な艦隊で十分だということも考えられたのでしょうけれど、そうではなく、アメリカ海軍の総力を挙げて来たということだけご理解いただければありがたいと思います。艦隊を揃えるだけで大変な思いをしたということです。
 次にどういう航路でやってきたかという話です。4ページを開けてください。黒船来航の小冊子を差し上げると、“ミシシッピ”がなぜ1隻で来て、なぜ太平洋を渡ってこないかというご質問が多いのですが、なぜ1隻で来たかということをお話ししますと、先ほどお話ししたように本当は5隻ぐらいの蒸気艦を率いて来たかったのですが、さっぱり整備が整わないのです。実際にできるのを待っていたらいつになるかわからないということで、先に行って後で間に合えばいいだろうということで単独で出港したわけです。
 これが1852年11月24日、ペリー来航の前の年です。そういうことで1隻でやって来るわけです。太平洋を渡って来ないのは、何回もお聞きになっていると思いますが、太平洋上には石炭を補給するところがどこにもないということで、石炭補給港をたどってくると、どうしても大西洋を横断して喜望峰を回ってこなければいけない。それで喜望峰を回ってくるわけです。
 まず大西洋を横断してマディラ諸島という小さな島々にたどり着きます。次にセントヘレナ島に寄港する。レジュメに書いてあるマディラ、セントヘレナというところは、石炭と水、食糧を補給した港です。セントヘレナ島を通ってケープタウンへ行きます。セントヘレナ島というのはナポレオンが幽閉されたことで有名な島ですが、ペリーもセントヘレナ島に着いて、忙しい合間をぬってナポレオンの墓に詣でています。
 ケープタウンを出てモーリシャス島を通って、北上してイギリスの勢力圏内に入っていくわけです。ケープタウンとモーリシャス島に寄港したときにペリーは石炭が十分に得られないのではないかということを心配して、ケープタウンやモーリシャス島にそれぞれアメリカから補給用の石炭船を1隻ずつ先に待機させ石炭を補給させます。それだけ用意周到な男だったのです。
 コロンボやセイロン島、シンガポールあたりに行けば、イギリスの定期船が通っていますので、そこで石炭は十分に取れると思って行ったのですが、ゴールにたどり着いたら石炭は1トンたりともあげられないということをイギリス側から言われ、しょうがないのでゴールを支配している政庁から、ごくわずかな石炭をもらい、シンガポールに行きます。シンガポールもなかなか石炭を売ってくれなかったのですが、イギリスのP&Oラインに頼んで香港で返す約束で石炭を貸してもらっています。このように石炭の入手に非常に苦労して、やっと香港にたどり着いたということです。
 余談ですが、セイロンとゴールとシンガポール、香港、上海というところは、すでにイギリスの定期船が通っていました。イギリスの定期船というのは、イギリスの民間のP&Oラインという船会社が1845年にすでに香港までの航路を開いています。1850年には香港の航路を延長して、上海までの航路を開いています。航路は喜望峰、ケープタウンを回っていく航路ではなく、スエズを通って紅海を通ってゴールに行って、ゴールからシンガポール、香港という航路です。スエズ運河が開通するのは1869年です。1869年まで開通しないので、その間どうしたかというと、地中海を通ってエジプトのアレキサンドリアという大きな町がありますが、そこにたどり着いて、アレキサンドリアからスエズまでは陸上を通ります。1850年ごろは一部鉄道が通っていたので、鉄道と陸路を併用して、鉄道がないところは馬車で行きました。お客さんはアレキサンドリアで1度船を下りて、陸上を馬車と鉄道でスエズまでたどり着いて、そこからまた船に乗り継いで極東まで行くという航路を通りました。そういう航路が1850年にすでに上海まで通っていたということです。そのような航路の要所要所に非常に大量の石炭の貯蔵庫があるわけですが、それを売ってもらえると思ったら、先ほどお話ししたようになかなか売ってくれなくて非常に苦労したということです。
 香港に1853年4月7日に着きます。香港まで来てみると“サスケハナ”がいるはずなのですが、いない。帆走艦の“サラトガ”と“プリマス”だけが香港にいてペリーを迎えるわけなのですが、肝腎の“サスケハナ”が上海に行ってしまったということで、ペリーの日記などを見ると「俺の命令を無視して勝手に上海に行った」と言ってカンカンに怒ったことが残っています。
 当時、中国は清国と言いましたが、清国の内乱でアメリカの居留民が危ないというので、その保護のために上海に出かけたということで、仕方なしに“ミシシッピ”と“サラトガ”、“プリマス”を率いて上海に行き、そこで艦隊を整えて那覇に行きます。
 上海を4隻の船で出港して那覇に到着します。ペリーの日記によると、那覇で残りの艦隊の到着を待ち、その間に小笠原諸島の探検に行っています。何のために行ったかというのは、いままでお話も出ているのですが、もし江戸幕府との交渉がうまくいかなかったら、那覇と小笠原諸島を占領して、ここを石炭の補給地にしようと考えていました。そして“サスケハナ”と“サラトガ”の2隻で小笠原諸島を探検します。ぐるっと探検して、また那覇に帰ります。
 その間に、たぶん残りの艦隊が到着しているだろうという期待を込めて戻ってみると、蒸気艦や帆走艦はまったく来ていない。そこで仕方なしに冒頭に述べた4隻だけで日本に出かけることになりました。当初の13隻の計画が、たった4隻になったということで、ペリーは日記の中で非常に嘆いていますが、これもしょうがないということです。そういうことで7月8日に日本に現れます。
 1次航がそういうことで、それ以降のことが小冊子の16ページに書いてありますので、ごく簡単にあらましをご説明します。1853年の7月8日に現れ、約10日ばかり日本に滞在し、また香港に引き上げます。そして来春、国書の返答をもらいに来ると言って帰ります。「来年の春ごろ来る」と言ったのですが、フランスとロシアの動向が気になってしょうがないわけです。日記を読むとやきもきしています。ロシア、フランスに先を越されるのではないか。そればかりを心配しています。
 冬の日本近海は荒れるということを十分承知の上で1月14日に香港を出港して、嘉永7年(1854)1月16日、西暦だと1854年2月13日、このときは残りの艦隊を率いて、全部で9隻の艦隊を率いて日本にやってきたというわけです。これは後の話ですが、航路のあらましまで述べました。
 ではいよいよ“サスケハナ”の概要をお話ししたいと思います。レジュメでは先に“ミシシッピ”の概要をお話しすることになっていますが、今日の演題にも書いてあるように“サスケハナ”のほうが非常に詳しく書いてあります。“サスケハナ”の話を先にして、時間があったら“ミシシッピ”の話をします。
 ページは打っていないのですが、本文のページの7ページ以降、8ページを開けてください。そこにペリー艦隊のデータがあります。これは小冊子のほうにもこれと同じものが付いているので、どちらを見ていただいても結構ですが、これに基づいてご説明していきます。
 “サスケハナ”は1850年、ペリー来航の2年半ぐらい前、1850年12月24日、ちょうどクリスマスイブにフィラデルフィアの海軍工廠で建造されました。そこに艦種とありますが、木造の外車フリゲートです。黒船というとたいてい「船体が黒く塗ってあるので、鉄ではないのですか」と言う方がだいぶ多いのですが、実はこれは完全な木です。軍艦で木なのかという話ですが、これはアメリカだけの珍しいことではなく、当時イギリスも軍艦はほとんど木造でした。では、なぜ鉄ではなく木造なのか。
 1840年代のはじめに、イギリスも鉄船をずいぶんつくったのです。ところが大砲の弾をドーンと撃ってみると、意外なことに木は大砲を撃っても、粘り強いものですから、バーンと穴が開いても、かなりの部分がもとに戻ってしまうのです。船に乗っている大工がタンタンと板を打ち付けると完全に穴をふさぐことができる。木造船を沈めるのは大変なのです。記録を見ると、海戦で木造船の船体だけを沈めようと思うと2000発ぐらいの砲弾を打ち込まないと沈まないという記録があるくらい沈まないのです。
 その証拠の一つかもしれませんが、後に函館海戦で幕府と榎本艦隊が海戦をして決着をつけます。榎本艦隊に“回天”という木造艦があるのですが、そこに乗っていた海軍奉行が後に回想録を書いていて、百何発の砲弾を受けていたが何ともなかったとあります。普通だったら百何発も受けたら、すぐ沈んでしまうと思うのですがなかなか沈まない。そういうことで当時の軍艦は木造で造られたのです。
 当時の鉄製艦は厚い装甲板はなく船体は鉄だけですから、せいぜい何ミリという板厚ですが、砲弾でボコンと穴が空くと鉄板が飛び散って、乗っている人間に怪我をさせる。それから穴がギザギザになって、穴をふさぐのが容易ではないということで、イギリス海軍は大規模な実験を1845年ごろやるのですが、その結果、鉄製の軍艦は軍艦に向かないという烙印を押すわけです。そういうことでしばらく木造の軍艦がつくられました。ご承知のようにアメリカは大森林地帯ですから、木はいくらでもあるのです。
 後に鉄の上に厚い装甲板を当てて、大砲の弾が貫通しないような鉄製の装甲軍艦が1860年代の中ごろからできます。1861年に造られたイギリスの“ウォーリア”という船が最初ですが、そういった装甲艦ができるようになって初めて鉄製艦が復活します。それまでは全部木でした。1850年代ですから、木船が華やかでした。一方、逆に商船は1840年代の初めごろからほとんど鉄製が華やかで、木造船がだんだん押されてくる。もちろん木製のほうがはるかに多いのですが、鉄の蒸気船が建造されました。ちょっと考えると軍艦と商船は逆の立場になっています。







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