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第5回 ペリーの黒船“サスケハナ”とは
日本海事史学会会員 元綱数道氏
 
司会 皆様お待たせいたしました。本日は、船の科学館「海・船セミナー2003」の5回目です。お暑い中ご参加いただきまして、誠にありがとうございます。本日は日本海事史学会会員の元綱数道先生にお話をしていただきます。「ペリーの黒船“サスケハナ”とは」ということで、本日は、ペリー艦隊の“サスケハナ”を中心に、先生にお話をしていただきます。それでは元綱先生、よろしくお願いいたします。
 
元綱 皆さん、こんにちは。お暑いところお集まりいただきましてありがとうございます。いまご紹介にあずかりました元綱でございます。いままで諸先生方から黒船に関する歴史的な話や意義をいろいろ話していただいたのですが、今日はレジュメにお配りしたように、船そのものの話を1時間半ばかりさせていただこうと思います。黒船に関する小冊子をお持ちの方もあると思うのですが、今日はレジュメをお配りしましたので、そのレジュメに従い、足りないところは小冊子によってお話を進めていきたいと思っています。
 最初にレジュメの1ページです。これはいままで何回もお話があったと思いますが、ペリー艦隊が嘉永6年6月3日、西暦で言うと1853年7月8日、7月のはじめのころですが、そのときに浦賀に現れたのが4隻の船で、このうち“サスケハナ”、“ミシシッピ”の2隻が蒸気艦で、“プリマス”、“サラトガ”が帆船でした。“サスケハナ”が“サラトガ”を引っぱり、“ミシシッピ”が“プリマス”を引っぱって現れたわけです。帆船では自由に動けないので“サスケハナ”と“ミシシッピ”の蒸気艦がそれぞれ帆船を引っぱって、浦賀の沖に現れたのです。
 レジュメに木造外車のフリゲートとか木造帆船のスループと書いてありますが、このフリゲートやスループというのは軍艦の種類です。これがどういう軍艦なのかというのは小冊子に詳しく書いてありますので、後で参照していただければよろしいのですが、軍艦の大きさの順から言うと、一番大きい軍艦に相当する戦列艦というのがあります。戦列艦の次に位するのがフリゲートで、その下がスループです。いずれも軍艦の大きさや種類を表すものです。それから排水量が書いてありますが、排水量はご存じのように船の重さです。
 排水量というのは要するに喫水線以下の海水を排除する量で、皆さんご存じのアルキメデスの原理で、これが船の重さに等しいということで、こういう言葉を使うわけです。
 次に見慣れない言葉が出ていますが、“サスケハナ”が2450bmトンと書いてあります。それから“ミシシッピ”が1692bmトンです。このbmトンとは何だということですが、これはその当時、19世紀の中ごろまで非常によく使われたトン数の種類です。レジュメの7ページを開けてください。第9項にbmトンの定義とあります。1773年、18世紀の末近くにイギリスで制定されたトン数です。bmトンというのはレジュメに書いてある式で成り立っています。長さは船の要目に出ている長さとちょっと違い、特殊な定義なので後ほど説明するような長さの数字をそのまま投入してもbmトンの数字にはなりません。
 時間の関係もありますので詳しい説明は省略しますが、要するにこの式で表されるトン数です。いま現在はまったく使われていない数字なのですが、この小冊子や今日の話はbmトンでさせていただきたいと思います。bmはビルダーズ・メジャーメントの略で、ビルダーズは建造者、メジャーメントは計測です。2450や1692という数字ですが、いままで歴史の本や教科書に“サスケハナ”のトン数や“ミシシッピ”のトン数はこの数字が書かれています。たいていの本には、これが排水量だと書かれていますが、実は排水量ではなくbmトンであるということをご承知おき願いたいと思います。
 この小冊子でご説明したいことが一つあります。35ページを開けてください。お持ちでない方は、後で見ていただければ結構です。35ページの右端に「ペリー艦隊の停泊地を検証する」というのが書いてあります。右下の端に小さい字で書いてあって、天眼鏡で見ないとよくわからないのですが、これはペリー艦隊が浦賀沖のどこに泊まったかを船の科学館で非常に苦心して、一生懸命研究されてわかった数字が書いてあります。上から“サラトガ”、“サスケハナ”、“ミシシッピ”、“プリマス”の順に停泊していたということがわかります。これは先ほどお話ししたように、“サスケハナ”と“サラトガ”が1セットで来て、“ミシシッピ”と“プリマス”が1セットで来たということなので、そのセットごとに停泊していたことがわかります。
 浦賀の沖の2キロ程度に停泊したということですが、2キロというのは大砲の射程距離の範囲にとどまったということで、いつでも大砲を発射して脅かすことができるような位置にとどまったことがわかります。1カ所訂正していただきたいのですが、“プリマス”の船名が“プリマウス”と書いてありますが、いろいろ読み方もあるでしょうが、一般に“プリマス”と呼ばれているようなので、この本文は“プリマウス”となっていますが、“プリマス”と読み替えて読んでいただければありがたいと思います。
 どんな船が現れたかというのは、レジュメの3ページの上半分に精密側面イラストがあります。左から順に“サスケハナ”と“ミシシッピ”、帆走スループの“サラトガ”と“プリマス”で、大きさから言うと蒸気艦のほうがはるかに大きいことがわかります。
 ちょっと見ていただくと喫水線以下が緑色になっていますが、これはペンキではなく、木造船の場合フナクイムシなどの虫がつくのですが、それを防止するために銅板を貼るわけです。その銅の板が海水に長い間浸っていると、お寺の銅版の屋根が緑青を葺いて緑色になるように、船の場合も緑色になります。たぶん建造してからだいぶ経っているので緑色であったろうと想像して、この絵では緑に描いてあります。全部緑色だったという記録はないのですが、想像で描かせてもらいました。
 それから当時の人が驚いたのが大きさです。レジュメの4ページを開けてください。当時、日本で一番大きな船は一般に千石船です。千石船と言うとご承知の方もあるかもしれませんが、実際に大きい船は1800石積みぐらいの船もあったのですが、一番ポピュラーなのは1000石積みということで、千石船と“サスケハナ”を同じスケールで描いてみましたが、これぐらい違います。長さで言うと約3分の1ぐらいで、排水トン数で言うと20分の1ぐらいです。
 千石というのは重さにして150トンなので、150トンのコメが積めるのですが、船自体の重さがありますので、排水量はたぶん200トン近いのではないか。先ほど話したように“サスケハナ”の排水量が3800トンぐらいですから、20倍近いということで、当時の日本では考えられない大きさの船であったということがわかります。
 小冊子には書いてあるのですが、1846年にビッドルというアメリカの提督が“コロンバス”という船を率いて浦賀の沖に入港しています。そのときの船がbmトンで2480トンぐらいなので“サスケハナ”よりちょっと小さいぐらいで、ほとんど変わらなかったのではないかと思います。従ってこれだけの大きな黒船を見るのは多分浦賀の役人は初めてではないと思うのですが、驚いたのは蒸気船の機動力であったと思います。大きさだけでなく風に頼らないで自由自在に走る船が初めて出現したことにびっくりしたのだと思います。
 次に「それではペリーがどういう編成計画で日本にやってきたのか」という話をしたいと思います。レジュメの2ページにペリー艦隊の編成計画がずらずらと書いてありますが、その前にアメリカの海軍は、どういうふうに蒸気艦をつくってきたかという話を先にしたほうがわかりやすいと思います。いままでペリーが現れる前にアメリカで建造された蒸気艦のリストを全部調べました。小冊子には横書きでずっと書いてありますが、縦書きにこれだけ抜き出したほうがわかりやすいのでそうしました。
 一番最初に“デモロゴス”という変な名前の船があるのですが、これは世界で最初の蒸気軍艦です。設計したのはフルトンという方です。フルトンは世界最初の商用船で有名な“クラーモント”という船を設計したことでも有名ですが、その人が1815年完成の“デモロゴス”という蒸気艦をつくりました。フルトンは完成前に亡くなってしまったので、完成してから、この船にフルトンを記念して“フルトン”という名前が付けられました。
 どんな船かというとレジュメの5ページの上にフルトンの“デモロゴス”の絵が描いてあります。1812年からアメリカとイギリスは戦争していたのですが、アメリカの港を全部、イギリスの軍艦が封鎖しました。こういう蒸気艦を使って封鎖を突破し、イギリスの軍艦をやっつけてやろうという目的でつくったわけです。
 一番上が船の断面図ですが、この船は双胴船で、真ん中に水車がついていて、左右にボイラーと蒸気機関が付いています。また中甲板に大砲が20門ばかり載っています。一番下が側面図です。この船はむしろ浮き砲台と言ったほうがいいのではないかと思いますが、こういう船をつくったのです。これが世界最初の軍艦ということで非常に有名です。アメリカは、世界最初の軍艦をつくったのですが、それ以降、あまり蒸気艦の建造に熱心ではなく、やっと2番目にできたのが“フルトンII”で1837年です。“フルトンII”の絵はレジュメには付けなかったのですが、本文の26ページを見ていただくと、“フルトンII”の側面図が出ています。そのようにちょっと変わった船で、2本煙突の外車船ということで、排水量は1000トンばかりの船なのですが、1837年にできています。これはアメリカとしては2隻目の蒸気艦なのですが、いま話の中心になっているペリーがこの船の艦長をしていました。
 ペリーは後に「蒸気艦の父」とアメリカで呼ばれるぐらい、非常に熱心に蒸気艦の建造に取り組んでいました。この船の艦長をやって、ワシントンに出かけていって、海軍省のお偉方や大統領や議員にも蒸気艦の宣伝をしてました。その効果もあって、その次に出てきたのは、今回の話題の主人公の“ミシシッピ”と“ミズーリ”という2隻の船です。これが1841年と42年にできるわけです。“ミシシッピ”はかなり最後まで残ったのですが、“ミズーリ”は同型船なのですが、1843年の処女航海のときに地中海の入口のジブラルタルに出かけたとき、停泊中に本船の乗組員の不注意で焼失してしまいました。
 せっかくつくった新鋭船の半分がなくなり、次の年にかけて“ユニオン”、“ミシガン”、“プリンストン”という船をつくります。いずれも1000トンないし1000トン以下の船なのですが、ここで注目すべき船は7番目にある“プリンストン”で、これが世界で最初にプロペラで推進した船です。一般にプロペラで推進した軍艦の最初と言うと、イギリスで建造された“ラトラー”という船のほうが有名なのですが、わずか3カ月ぐらいの差で“プリンストン”のほうが先にできたということです。
 いずれもすぐ廃艦になったり、解体され、わずか5、6年の寿命だったわけです。余談になりますが、“ユニオン”や“ウォーターウィッチ”、“アレゲニー”は水平車方式で、本文にも書きましたが、妙な推進方法の船です。これはあまり一般には知られていないのでわかりにくいかと本文を書いた後で思って、急遽今日別に用意しました。レジュメの6ページを開けてください。水平車とは何かというと、上に書いてあるように外車を水平にしたような水平車が二つあります。
 下に船の側面図がありますが、これは軍艦ではなくアメリカのコーストガード、沿岸警備隊の“スペンサー”という船です。この水平車はアメリカの海軍ハンターという人が発明したものですが、軍艦のほかにコーストガードにも宣伝して採用してもらった装置です。水平の水車みたいなものが下にある横の小さい小窓から羽根の先がちょこっと顔を出すといった装置で、それがグルグル回りながら小窓から先に少し出た羽根で水をかいて前へ進むというアイデアです。
 いまから考えたらスクリュープロペラにかなうわけはないと思うのですが、アメリカ海軍は非常に熱心にこれに取り組んで、5、6年これと付き合っていて、あげくのはてにこれはスクリュープロペラにかなわないということでギブアップしてしまう結果になりました。9番目にペリーの艦隊編成におおいに関係する“アレゲニー”という船が1847年につくられています。これが1020トンで、これも水平車ですが、これは後にそういったいきさつで水平車は推進効率上どうしてもスクリューにかなわないということで、ペリーが来るころにはスクリュープロペラ方式に改造された後なのです。
 話が戻りますが“ミシシッピ”は後にペリー提督が乗るのですが、メキシコ戦争が1846年に起こり、そのときにペリーが“ミシシッピ”以下艦隊を率いて活躍します。このとき初めて蒸気艦が戦闘に参加するのですが、蒸気艦が風がなくても自由に動くという効果が認められ、もっと蒸気艦を増強しようということでアメリカ議会は1847年に蒸気艦の建造を承認しました。これが10番以降“サスケハナ”、“サラナック”、“サン・ジャシント”、“ポーハタン”の4隻で、いずれも1850年から52年に新たに建造されます。
 このほかに“プリンストンII”もペリーが計画した船に入っているのですが、15番目の“ウォーターウィッチ”は沿岸用の小さな船なのですが、これも含めるとペリーが来るまでに15隻の蒸気艦が建造されました。そのうち8番目までの船はいずれもペリーが艦隊を率いて来る頃には全部廃艦になったり解体されてなくなってしまっているので、ペリーが艦隊を編成しようと思ったときには5、6隻ぐらいしか蒸気艦はなかったのです。
 次に本題の編成計画の話に入ります。レジュメの2ページですが、いままでのセミナーで何度も話に出ているかもしれませんが、ペリーは帆船を率いて日本に来たのでは、なかなか日本の扉開けることはできないので、ぜひ蒸気艦の艦隊を強化して日本に来ようということで、1隻でも多くの蒸気艦を率いて日本に来ることを計画したわけです。現存のアメリカ海軍が持っている蒸気艦を全部日本に持って来るわけにもいかないので、先ほどお話しした11番目にある“サラナック”という2000トンばかりの船と13番目の“ポーハタン”の2隻だけを本国に残し、あとは全部を率いて日本まで来ようという計画を立てました。“ミシシッピ”、“サスケハナ”、“プリンストンII”、“アレゲニー”、“サン・ジャシントン”の5隻を率いて日本に派遣する必要があると考えたわけです。







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