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第2回 「幕府は知っていた〜ペリーの来航情報〜」
青山学院大学名誉教授  片桐一男氏
 
司会 皆様、大変お待たせいたしました。ただいまより船の科学館「海・船セミナー2003」、第2回目といたしまして、本日は青山学院大学名誉教授でいらっしゃいます片桐一男先生にお話をしていただきます。レジュメにありますプロフィールを見ていただければわかるのですが、私は先ほど片桐先生とお話ししておりましたときに、オランダについていつごろから研究したのですかと聞きましたら、23歳か24歳ごろかなということでした。
 そのお話の中で、これは運命のいたずらといったものでしょうけれど、師事した先生が3人ほどお替わりになったそうです。それで若いころはオランダ学を学ぶときに非常に苦労されたということで、その若いときの力がいまになってようやく開花してきたということをおっしゃっていました。また、ここに書いてあるレジュメのプロフィールのほかに、片桐先生は、船の科学館を運営しております日本海事科学振興財団の評議委員もお務めになっております。
 今日は「阿蘭陀風説書」を中心に、「幕府は知っていた〜ペリーの来航情報〜」ということで、1時間半お話ししていただきます。
 
片桐 日本の進路が大きく変わったペリーの来航から150年ということで、この船の科学館も、「海・船セミナー」のシリーズを、今年はペリー来航にちなんでされたわけですが、その第2回目ということです。
 先週のお話は私も興味があり、来たかったのですが、ちょうど風邪をひきまして、伺っていないので、どういう具合に続くか心配な点もありますが、私は私でお話をさせていただこうと思います。今日いただいた題は、「幕府は知っていた〜ペリーの来航情報〜」ということですが、皆様方のお手元には簡単なレジュメを差し上げておきました。極力文字の資料を少なくして、絵画資料でわかりやすくしようとしましたが、字も小さいかもしれませんが、ご覧いただきたいと思います。
 ペリーの来た情報を、この題が示しているように、すでに知っていたということですが、最初からこういっていたのではわかりが悪いわけで、「どうして知っていたのか」というところが大事だと思います。そこで皆さん方がご存知の、いわゆる鎖国時代の対外関係はどんな具合だったか、そういう中でペリーの問題がどういう情報であったかということを考えてみなければいけないかなと思います。
 そこで見ていただきたいのですが、いま申しました江戸時代の鎖国時代、日本はどういう具合に海外と交流があったかということです。定期的に毎年、江戸時代の鎖国日本にやって来た船は、オランダ船と中国船、場所は長崎一港ということでした。そこで長崎はそういう意味で交流の舞台であったということは、鎖国が成立した寛永18年、1641年から218年間が長崎の港に光の当たった時代であったということです。その間において、オランダ船と中国船がどういう具合に入ってきたかということが大きく関わってまいります。
 そこで第1枚目の上のほうの図を見ていただきたいわけです。これは長崎の港の鳥瞰図です。長崎の港を斜め上から見た図です。手前は、ずっと左のほうに野母岬が累々と続いていまして、したがって長崎の港は非常に奥深い天然の良港です。真ん中へんにくの字型に張り出しているのが伊王島です。
 外国船、中国船とオランダ船はどういう具合に、どちらのほうから入ってくるかということですが、これが伊王島だとすると、野母岬のむこう水平線上に外国船の帆影が見えると、野母岬の先端や伊王島のこういうところに遠見番というものが準備してありまして、そこから望遠鏡で見ているわけです。夏が近づき船の来るころ、待機しています。それで帆影が見えると長崎奉行所に通報する。長崎奉行所は図の右手前のはずれで、この画面からは見えません。ちなみに出島はこのへんです。
 そうすると奉行の指示で、出島を見つけていただきたいのですが、字が小さくてわかりにくいかもしれませんが、出島のすぐ脇に大波戸と書いてありますが、ここが船着場です。ここから奉行所の船を仕立てて、来た船に対して検閲をしに出かけるというわけです。その検閲の船を検使船といいます。船には奉行所のお役人、それから外国の船を相手にしますから通訳、この場合はオランダ通詞、それから出島のオランダ人を2人連れて、そのほかに船を漕ぐ人などいろいろ連れていきますが、このような検使船団でまいります。
 とにかく水平線上に現れた船がどういう船かということは、遠い段階ではわからないわけです。日本としては、オランダ船と中国船なら貿易をするわけですから、入れる、むしろ来てもらいたい。それに対して、たとえばポルトガル船をはじめとする、かつての南蛮船には来てもらいたくないわけです。もらいたくないどころではない、絶対に入れられない。そこで、どう見分けるのか。ここが一番大事なわけです。これを誤ったら、いわゆる鎖国体制が維持できないということです。そこで検閲をするわけです。
 この検使船はどこまで出ていくかというと、上の図面の伊王島と、こちらのはずれの中間に小さな島があります。高鉾島といいますが、ここで、来た船、いっさいの来航船を止めて、そして検使船で行った検使の役人が、これを検閲するということです。これがうまくいくか、いかないかによって、いま申しましたように鎖国体制が維持できるかどうかが決まるということで、これはまさに水際作戦といっていいと思います。
 左下の図は上から見た図ですからおわかりいただけると思いますが、真ん中へんに小さな高鉾島というのが見えますね。それで下の、2隻のオランダ船がすでに港の中に入っている図、これはオランダからの図ですが、そのむこうのほうに小さな三角形の島がちょこんと見えます。九州の銘菓で「ひよ子」というおいしいお菓子がありますが、ちょうどそういうかたちをした島が下の図の真ん中に見えますね。これが高鉾島です。
 何べんも言いましたように、この島は小さな無人島で、これだけの画面で描くとすれば、比率からするとこんなに大きく描けるはずのない島です。それがどうしてこんなに大きく描かれてしまうかというと、やはり大事な場所であったから、つい誰が描いても、日本人が描いても、外国人が描いても、大きく描かれてしまうということです。ここで検閲をするということです。
 その検閲の様子を2枚のレジュメで見ていただきます。2枚目の左下の図ですが、これは立正大学の図書館が持っていらっしゃる図です。これを見ると、1枚目の上の図でいった検閲がすでに終わって、入ってきている図ですが、この検閲の仕方が何段階かチェックがあります。一つは、連れて行ったオランダ人に、来た船に対してオランダ語で呼びかけさせます。そして、来た船からの答えが本当にオランダ語で答えているかどうかというのを、日本のオランダ通詞、通訳が聞いていて、それで本当にオランダ語で答えていることがわかると、その次の段階にいきます。
 次の段階として、今度は旗を合わせるということです。本当にオランダの旗を立ててきているかどうか、旗合わせといいます。それもいいということになると、今度は来た船に四つの書類を、この検閲の高鉾島の段階で提出させるわけです。このことをオランダ人もよく知っていまして、この高鉾島のことをパーペンブルフというオランダ語の名前をつけています。「ブルフ」は山、「パーペン」は宣教師です。ここでどうも、かつてキリシタンの弾圧があったらしい。だから言ってみればなかなか異様な島です。私も気になってここのそばに行ってみましたが、遠くから見るとかわいらしい島ですが、近づくと異様な感じです。
 そこで四つの重要な書類を提出させるということです。その4種類の書類を密封したまま、すぐに提出させる。これも入港手続きの一つとして出させます。それを2枚目のレジュメの右上のほうに書いておきました。当然オランダ語です。もっとも異国船が来るかもしれないというので、先ほどの検使船には、あらかじめこういうことを提出させるという命令書を持っていっていますが、オランダ船に対してはオランダ語の書類で問いかける。それから異国船に対してはフランス語の書類をあらかじめつくっていて、問いかけさせる。当時はフランス語が国際用語でしたから、フランス語を使うということになっていました。
 もちろん日本人はフランス語はできませんから、オランダ商館長に頼んで、あらかじめつくっておいてもらったのです。今日はオランダ船が入ってきたときの場合で申します。いま言った4種類の重要秘密書類の第1番目は「Nieuws」といいます。2番目が「Facturen」、3番目が「Monsterrollen」、4番目が「Brieven」といいます。これを出島に持ってくる、取り上げるとすぐに出島に運びまして、それをお役人、カピタンの見ている前で通訳が翻訳するわけです。
 話を急ぎますが、それを翻訳したときに、オランダ通詞はこれを何と訳して言ったかというと、1番目の「Nieuws」のことを「阿蘭陀風説書」と言いました。そこに訳をつけておきました。それから2番目の「Facturen」というのが「積荷目録」です。それから3番目の「Monsterrollen」というのが「乗船人名簿」です。4番目の「Brieven」というのが、バタビアの総督とか、あるいはオランダ、アムステルダムの本社からの書簡類、手紙類というものが入っていた重要書類です。







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