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3. 近未来の日本社会ビジョンから見たときの初等教育の問題点
(1)未来への希望と夢を語れぬ教育が横行していること
 村上龍氏の小説『希望の国のエクソダス』の中に、“この国には何でもある。だが希望だけがない”というリーダーの有名なセリフが登場する。いま、わが国では、多くの人がこの言葉に納得し、日本は閉塞状況の真っ只中にあると感じているらしい。
 初等教育の現場でも同様である。画一的な偏差値教育に埋没し、疲れ果てた現場教師から、児童が受け取る暗黙のメッセージは未来への希望ではなく、そこはかとなく漂う無気力や怠惰、倦怠感ではないのだろうか。
 少なくとも、子供たちに「君たちは、いい時代に生まれあわせて幸せだ。ようやく、自分の夢に向かって挑戦できる当たり前の時代が到来した。どこの有名大学に入るかで、18歳にして人生が決まってしまう馬鹿げた時代は終わった。さあ、先生と一緒に未来の夢を語ろう」と生徒に語りかけ、鼓舞する先生はおそらく皆無に近いだろう。
 国を挙げての関心事が、景気の回復でしかない国では、長引く不景気のもとで閉塞感が充満し、希望の存在余地もないのかもしれない。だとしても、ホープレスの国では、夢や希望をもち続けることには希少価値があり、周りから注目されることだけは間違いない。勇気をもって挑戦すれば、夢が実現する可能性も高まるだろう。そう生徒を励まし、鼓舞するのが教師の役割というものだろう。
 子供は未来から送られてきた希望の使者のようなものであり、目を輝かせて夢や希望を語る存在である。それが、同質的な偏差値教育の中で押しつぶされていくのが日本の初等・中等教育のメカニズムになっている。
 人は、未来に絶望すれば生きていけない存在である。生の根源である「夢見る力」を生徒から奪い取ってしまう初等教育とは一体何なのだろう。
 
(2)考える力=脳力を身につけさせることを疎かにしてきたこと
 『なぜイタリア人は幸せなのか』を書いた山下史路さんは、息子を現地の学校に通わせた体験から、イタリアの教育事情に詳しい。この本の中で、彼女はイタリアの義務教育の目標は、社会についての判断力、批判力、選択力を養うことであるという。また、教育に関するあるシンポジウムで、パネラーの木村孟さんは、「英国の教育では、学力がつかないのではないかと心配になるくらい徹底的に考えさせる。この蓄積が後になって効いてくる」といっている。
 要するに、初等・中等教育の段階では圧倒的に知識量にまさる教育水準を維持してきたわが国が、高等教育の段階で欧米に遅れをとるようになるのも、この点に秘密があるといっていいだろう。
 このように、わが国の戦後教育は、芹沢俊介氏が指摘するように、子供たちを集団として同じ場所に集め、一定時間内で一斉に何かを教えようという体制である。もっとも、この体制は、明治以降変わらぬものであったらしく、あの武藤山治も「画一主義の教育ほどみじめなものはない。依頼心、卑屈心、形式偏重、常識欠乏、皆その所産である」と述べている。
 より極端にいえば、近代の教育システムは本質的に工業社会と国民国家を支えるものであり、「義務教育のための学校は、国力増強のため、子供たちを国民としての思考・行動パターンの鋳型に流し込むために生まれた」(金城学院大学森下信也教授)ということになる。要するに、自分の頭で徹底的に考え抜く力=脳力を養う教育がこの国では極めて希薄だったのである。
 脳力という言葉は、明治の天才植物学者であり、民族学者であった南方熊楠が創ったものだといわれている。大英博物館での自学自習によって博覧強記となった彼が敢えて脳力の重要性を強調していることに学ばねばならないだろう。
 「子供は好奇心のかたまりで、考えるのが大好きな存在だ。やりたいことを自発的にやることで、考える力を身につけていく」(中村桂子氏)という特性を無視して、知識の一方的な受容を強制し、脳力を鍛えることを疎かにしたツケが、知本主義社会へのスムーズな移行を妨げており、日本経済の長期停滞の主要因になっている。
 
(3)不毛な教育論争が、教育システムの抜本的改革を妨げていること
 ここ数年の典型的な教育論争のテーマは、ゆとり教育と学力問題である。多くの識者から多様な意見が提出されているが、いつまでたっても議論は収歛せず、むしろ、混迷が深まっているようである。その原因の一つは、どの論者も自らが望ましいと思う社会像を提起し、それとの関係で学力やゆとり教育のあり方を論じていないことである。
 大方に共通する議論の進め方は、どんな時代になっても、普遍的に求められる不可欠な学力の存在を前提にしていることである。その上で、従来、当然できたことができなくなっている現実(=学力の低下)に対して不満をぶつけ、警鐘を打ち鳴らしている。
 もともと、ゆとり教育は、決められたことを効率的に沢山詰め込む画一的な教育では21世紀に通用しないということでスタートした。生きる力や考える力を養う教育へと転換しようとしたのである。この方向転換は、日本の教育史上かってないものであったといってよい。
 本来、このような教育政策のパラダイムシフトは、教育システムそのものの抜本的な変革を伴うはずである。しかし、現実には従来の偏差値教育中心のシステムのもとで、竹に木を接ぐ拙速のスタイルでゆとり教育をスタートさせたために、学校現場は大混乱に陥った。
 とりわけ、文科省の学習指導要項によって各科目とも三割にも及ぶ大幅な学習内容の削減が行われ、そのことが国際比較で見ても学力の急激な低下を招いたとの非難が一斉に起きることになってきた。特に、理工系の大学関係者から強い批判が展開された。
 この指摘に怯えた親の中には、学校で不足している内容を塾で補うため、初等教育の段階から子供を塾に通わせ、中高一貫校の私学へ子供を通わせる傾向が強まっている。そのため、子供を塾や私学に通わせる余裕のない階層から、ゆとり教育は階層間格差を拡大し、落ちこぼれを助長するシステムであり、エリート教育のための手間と金を浮かす仕組みだという被害妄想に近い非難も出てきている。
 いずれにせよ、これらは、本来、ゆとり教育が狙ってきた本質から外れた議論であり、中途半端な形で実行に移されたゆとり教育によって、却って、従来の知識詰め込み型の偏差値教育が強化され、有名進学校への受験戦争が激化するという矛盾が起きている。
 たしかに、現在、多くの科目において学力低下が起きているのは事実であろう。だとしても、従来のような詰め込み教育を復活させても、それは問題解決にならないだろう。というのは、近未来の日本社会に求められる望ましい学力は、徹底的に考えぬく力=脳力であるからだ。現在、低下が深刻な学力は考える力であり、学習する意欲なのである。
 
(4)文科省の統制による学校中心主義の機能不全化
 1870年(明治3年)に日本に近代的な学校制度が導入されて以来、文科省はその中核組織として一手に教育政策を牛耳ってきた。それは、100年たった1970年代に1人当たりGNPが1万ドルに到達し、欧米先進諸国にキャッチアップするという国民的な課題が達成されるまでは有効に機能した。
 しかし、現在、学校教育の現場では、不登校の増大、学習意欲や学力の大幅な低下、高卒・大卒の就職率の低下とフリーターの増大など、多くの問題が山積しているのが実情である。これらの現象は、文科省の統制下にある学校システム中心の教育体制が機能不全に陥ったことを如実に示している。
 このような状況を克服していくためには、既存の学校システム内部の努力だけでは限界がある。事例で取り上げたシュタイナーシューレやアットマーク・インターハイスクールなど、現在公教育機関として認知されていない組織を含め、多様な問題解決へのアプローチが求められている。現在、教育特区構想のもとで、株式会社の教育機関を始め、多くの新たな試みが提案されている。政府は、全ての提案を採用し、壮大なる社会的実験に取り組むべきであろう。
 文科省主導型学校中心主義は、今後、ますますその限界を露にしていくだろう。それは主として、次の三つのメガトレンドによって加速されていくだろう。まず、第一は、本格的な知本主義社会の到来と人生80年の高齢化社会の現実によって、生涯学習のウェイトが高まってきたことである。
 もはや、大学卒業時までに獲得した知識と能力で、残りの長い人生を過ごすことは不可能である。少子化の進展によって、将来の年金もあてにできないとなれば、元気なうちはできるだけ、社会と係わって働く必要も出てくるだろう。
 そうなれば、自ら意欲をもって勉強し続け、絶えず陳腐化する能力を鍛え直すことが求められるようになる。これをサポートする体制は、いまのところ、既存の学校システムの能力を超えている。制度の抜本的な再編が問われているのである。
 第二は、インターネット化が進展していることである。アメリカのボストンにあるマサチューセッツ工科大学(MIT)は、7年かけて全ての学科の科目のカリキュラムの内容をインターネット上に公開すると宣言し、着々と実行に移している。もはや、知の拠点は大学を中心とする学校だけに存在するのではなく、インターネットが知を学ぶ一大拠点になりつつある。既存の学校システムの陳腐化が急速に進展しているのである。
 第三は、本来、子供を育てる責任をもつ家庭や地域の役割を再認識し、過剰に学校へ期待し続けてきたこれまでの幻想を打ち破ることである。そうでなければ、不登校問題一つとっても、解決することは困難だろう。
 極端なことをいえば、家庭が全責任をもって子供の教育の全てを夫婦で行ったり、家庭教師をつけて行うことも認められるべきである。子供の教育に関し、家庭はそれぐらい大きな責任と権利を有している。
 とはいえ、現実には、日本の家庭は核家族化しており、厳しい経済情勢のもとで大方の父親は家庭のことにかまけている余裕がないというのも事実である。そのような現状の隘路を的確に認識した上で、地域の中で家庭と学校、その他の組織との役割分担を、もう一度再構築するべきである。
 現在、文科省の諮問によって、「小中高の教育や行財政の仕組みはどうあるべきか」という議論が中央教育審議会で行われている。しかし、前述までの教育を巡る問題状況を考えると、答申すべきだったのは、21世紀における文科省の存在意義と役割そのものだったような気がする。
 せっかく、ゆとり教育のような政策大転換を必要とする方向を打ち出しても、それがうまく機能しなかった背景には、複雑な事情を抱える個々の現場に対し、中央で画一的にものごとを決め、全国一律の対応を押しつけていくこれまでの手法が限界に達したことを示している。いま、文科省の脱構築が求められている。







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