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第4章 「専守防衛」政策の問題点
1. 「専守防衛」見直し論の出現と擁護論
きっかけは北朝鮮核武装への危機感
 こうした状況下で、「専守防衛」見直し論が政治家の間でも出始めた。軍事知識や識見に欠けているにもかかわらず、大東亜戦争当時の帝国陸海軍の下級将校としての経験のみで安全保障問題を論議する議員が引退し、国際常識豊かな若手議員が増えたからといえる。見直し論が現れたのは、北朝鮮のミサイルが我が国に向けて発射されようとしている時に、どう対応するかということがきっかけだった。読売新聞など一部メディアが、政府としては弾道ミサイル「ノドン」の攻撃が切迫していても国民に警告を出すだけであり、着弾後も北朝鮮の日本への侵略意思が明確になるまで、自衛隊には防衛出動ではなく災害救助出動を命じるだけの方針と伝えられた。これに疑問を感じる政治家が現れ、折からの有事関連3法案の国会審議の中で「専守防衛」への批判が出始めた。以下に、「専守防衛」見直しに関連した政治家の発言を時系列的に紹介する。28
 その口火を切ったのが、鴻池祥肇・防災担当相(当時)である。同相は2003年(平成15年)3月10日の参議院決算委員会で、北朝鮮が日本に弾道ミサイルを発射した場合の対応を聞かれ、一旦、「東京が火の海になる前に相手をたたきたいと思っている」と述べたが、委員が騒ぎ出したので、その直後に「そんなことはできない」と慌てて打ち消したという。29同相はその翌日の11日の記者会見で、専守防衛の見直しについて論議すべきと主張した。30もっとも、この時は政界にほとんどインパクトを与えなかった。
 この専守防衛見直し論に世間の注目を集めさせたのは、野党、民主党の論客で「次の内閣の安全保障相」(当時)の前原誠司氏の衆議院安全保障委員会(3月27日)での質問である。同氏は「(ミサイル攻撃について)やられそうになった時、相手の基地をたたくことは憲法上、認められている」として、「そういう能力を持つことは検討すべきではないか」と、政府の見解を質した。防衛政策面で政府与党の政策の欠陥を衝いた、“政策論争”というに値する質問である。これに対し、石破防衛庁長官は「今は相手への打撃力を全面的に米国に委ねている。日本が全部やることはできるはずもない」と前置きしながらも、「検討に値する」と答弁した。だがこの直後、小泉首相は「専守防衛に徹する」と否定している。もっとも、安倍官房副長官(当時)は3月30日のフジテレビで、石破茂答弁について「専守防衛の範囲はどこまでなのかという議論は当然されてしかるべきだ」と肯定している。
 
前原氏の折角の提言を生かせず
 石破長官は同じ27日の参議院予算委員会でも、敵地攻撃能力保有について「専守防衛を侵すものではない」と答弁した。これは(1)保有に憲法解釈の変更は必要ない、(2)日本を攻撃するミサイル基地などを目標に精密爆撃する限定的な攻撃力保有は専守防衛の国是に反しない−との判断を踏まえものである。
 なお、小泉首相は3月28日の参議院予算委員会で、自衛隊に敵地攻撃力を持たすべきだとの意見に対する感想を求められて、「議論は承知しているが、政府としてはそういう考えはない」と強調し、「必要最小限の専守防衛に徹する。日米安保体制を堅持することで日本の安全を確保してゆく」と述べた。55年体制下では、民社党などから防衛問題について建設的な意見が出されても、政府与党当局者にはそれに迂闊に乗ることは罠にはまりかねないとの感覚が強く、それを生かせなかった。今回の場合も、折角の野党質問を生かす政治センスが小泉首相には欠けているようだ。このためもあって、「専守防衛」見直し論は一時期沈静化した。
 これが再び脚光を浴びたのは、額賀福志郎・自民党副幹事長(当時)<元防衛庁長官・現政務調査会長>の発言である。同氏は2003年(平成15年)4月29日に米国・ワシントンで開かれたシンクタンク『ヘリテージ財団』の討論会で講演し、「従来の専守防衛は相手が仕掛ける前に何の対処もできず、国民が犠牲になる」として、「侵略戦争を行わないという前提で自国の防衛と国際的不正義に対処できる新たな専守防衛の概念を整理すべきだ」と述べた。ただ、同氏は「専守防衛」を全面的に否定したわけではなく、「専守防衛を維持しつつ、北朝鮮の核ミサイルなどの脅威の実態に即して、防衛態勢や法体系をつくるべき」と主張した。31
 その後、安倍官房副長官は5月12日、「読売国際会議」での講演で、「専守防衛は今後とも変わりはないが、兵器がどんどん進歩して戦術・戦略が変わっていく中で、今までの専守防衛の範囲でいいのかということも、当然考えていかなければならない」と、「専守防衛」策の見直しの必要性を改めて強調した。32もっとも、小泉首相は5月21日の参議院武力攻撃事態対処特別委員会で、依然として有事関連3法案に絡んで「専守防衛そのものの法案だ」と答弁している。同首相は6月7日、来日中の盧武鉉大統領との会談でも、「(有事関連3法成立で)専守防衛という日本の方針には何ら変わりはない」と言明している。
 その後、「専守防衛」見直し論で政界に大きなインパクトを与えたのは、超党派の『新世紀の安全保障体制を確立する若手議員の会』が、6月24日の総会で決定し発表した「国の安全保障に関する緊急声明」の中で、「専守防衛」見直しを政府に要求したことである。この緊急声明では「時代に応じた『専守防衛』の考え方を再構築するために、これまでの国会答弁でも容認されているように、我が国に対する攻撃が切迫している場合等、必要最小限の『敵基地攻撃能力』を保有できるようにすること」を政府に強く要望している。33
 
堅持論の本音はどこに
 一方、「専守防衛」堅持論も少なくない。野中広務・元自民党幹事長は7月25日、日本テレビで、イラクへの自衛隊派遣について「戦後60年間培ってきた専守防衛という柱を破り、過去の暗い日本に陥れていく危険性がある」と述べ、改めて「専守防衛」堅持論を述べている。過去の戦争体験によって「羮に懲りて膾を吹く」ようになった政治家の代表といえよう。34
 長年にわたって非武装論を支持してきた左翼のイデオローグ、坂本義和・東大名誉教授は、5月15日の参議院憲法調査会で、参考人として「改憲の必要はないが、9条2項を改めるのなら、行使する戦力は、専守防衛の目的と能力に限られることを明文で規定すべきだ」と述べている。35この発言によって、同教授がこれまでの非武装の主張を放棄し、「専守防衛」主義者に変節したと見るべきでない。「専守防衛」を口実に、事実上、非武装に近い歯止め枠をはめようとする下心があるのだろう。
 国際政治学者の衛藤瀋吉教授、山本吉宣教授は共著『総合安保と未来の選択』の中で、今後とも「専守防衛の基本路線を断固継続すべき」と強調している。安全保障で関する大著であるにもかかわらず、専守防衛が軍事上成り立つか否か等の、堅持論の論拠については全く触れていない。36
 日本周辺諸国にも、日本の「専守防衛」策堅持を要求する国が少なくない。中国外務省の章啓月報道副局長は、4月17日の有事関連3法案の国会提出について「日本は実際の行動で、専守防衛と軍事大国にならないという方針を堅持して欲しい」と要望を出している。37韓国の尹永寛・外交通商相は7月4日、訪問中の矢野哲朗・外務副大臣との会談で、有事関連3法について「平和憲法や専守防衛の原則のもと、透明に進められることを期待する」と述べている。38朱建栄・東洋学園大学教授も「専守防衛は日本の財産」と堅持論を展開している。39中国、韓国のいずれも、日本に「専守防衛」策の堅持を薦めても、自国でこれを採用しようとはしない。また、中国人である朱教授も、自国政府に「積極防衛」という名のアグレッシブな防衛政策の変更や先制攻撃策の採用をとりやめ、日本のように「専守防衛」策を採用するよう勧告することはない。「専守防衛」策が不適切な政策であることを承知しているがゆえに、日本の「専守防衛」策の堅持は自国の国益に合致すると考えているからである。
 
2. 戦史における“専守防衛”
強いられた専守防衛
 そこで次に戦史において“専守防衛”なるもの、あるいは現在日本で使っているような意味での「専守防衛」策が採用された前例があるか否かを検証したい。戦史が専門の外山三郎・防衛大学教授は「歴史に学ぶ専守防衛の可能性」で、「専守防衛」について「この言葉は過去に用いられたことはなく言葉だけが先行」していると指摘しながらも、過去の世界戦史で「専守防衛」が成立った事例として、ペルシャ戦争、元寇の役、アルマダ戦争の3つを挙げている。40同教授は、何故か1940年(昭和15年)の第二次世界大戦緒戦の独仏戦争、特にマジノ・ラインの戦に触れていないが、これも“専守防衛”を検証する際に欠かせない事例である。
 ペルシャ戦争は、紀元前492年から480年にかけてペルシャ帝国がアテネを始めとするギリシャ諸都市を三度攻撃した戦いである。いずれもペルシャの敗北に終わっている。元寇の役は、元帝国が支配下にあった朝鮮、漢民族とともに1927年(文永11年)と1281年(弘安4年)の二度、日本を侵略しようとした戦いである。我が国では文永の役、弘安の役と呼ばれているが、二度とも元軍は日本側の善戦に加えるに台風の被害などもあって敗退している。アルマダ戦争は、1588年にスペインが英国に攻め込もうとした戦いで、これも失敗している。いずれも侵略側が侵攻作戦に失敗したところから、外山教授は“専守防衛”の成功例として挙げているわけだ。
 外山教授はこの3事例の特徴として、(1)戦争は巨大国の一方的な侵略によって惹起された、(2)侵略者は海を隔てた超大国で、圧倒的な陸海の兵力を用いた、(3)防者は侵略を確認したうえで防戦を開始し、自国の陸上及び周辺海域で戦って撃退したが、決定的勝利は海戦によって得られた、(4)防者は追撃を行わなかった、(5)戦争は侵略者が侵略を断念したことによって終結した−との5点を列挙している。だから、現代でも国家の最高指導者が勝利を信じて動じることなく、国民が国土戦場化に耐えること。海軍力の整備と陸での陣地構築に力を入れ、一歩進んだ戦略の採用と戦略を支える武器と練度があるなどの条件が満たされていれば、充分に「専守防衛」が可能としている。
 
防衛の成功原因は専守防衛でなかった
 しかし、外山教授の立論には幾多の疑問がある。第1に、最高指導者の勝利への不動の信念など、同教授が挙げている条件は「専守防衛」だけに必要なものではない。いずれの時代、いずれの国家にとっても、防衛上、不可欠な要因である。第2に、同教授が挙げている3事例で、防衛側は政策として意図的に「専守防衛」策を採用したのではなく、やむなく「守勢」に追い込まれたにすぎない。それどころか、ギリシャ、英国のいずれも、覇権確保の機会を狙っていたのである。また両国は、作戦術、戦術レベルでは攻勢作戦を採用している点も見落とすべきではない。
 第3に、ペルシャ戦争、アルマダ戦争のいずれも、勝利国と敗北国との新旧覇権国家の交代時期にあったという点も見落としてはならない。もちろん、戦後はこの趨勢に拍車がかかったといえる。東はインダス河から西はエーゲ海に及ぶオリエント世界を統一したペルシャ大帝国も、ペルシャ戦争当時にはその全盛時を過ぎていたのに対し、逆にアテネを中心とする古代ギリシャ諸都市国家は勃興しつつあるという時期だった。また、スペインはいち早く海洋に乗り出し植民地確保に成功し、「陽の沈む時なき帝国」といわれた時期があった。だが、戦争当時は斜陽傾向が強まっており、英国海軍に敗れた「無敵艦隊」も実態は旧式装備の鈍重な艦隊だった。戦後、「陽の沈む時なき帝国」の看板は、勝者の英国に用いられるようになるのである。ちなみに、当時のスペイン艦隊に「インビンシブル(無敵)」という形容詞を付けて呼んだのは英国側であり、スペイン自身は「ラ・フェリチシマ・アルマダ(最幸艦隊)」と称していた。
 第4に、ペルシャ戦争、アルマダ戦争はいずれも、必ずしもペルシャやスペインが侵略国であり、ギリシャや英国が被侵略国とはいえない点にも留意する必要がある。ペルシャ戦争は、紀元前500年にペルシャの支配下にあったイオニアの12の都市国家が叛乱を起こしたのに対し、アテネがイオニア側に味方して援軍を出したのが発端だった。また、1567年当時、スペインの領土だったオランダがスペインに反旗を翻して独立を宣言したが、オランダと同じ新教国だった英国が援軍を派遣したこと。そのうえ、英国の海賊がエリザベス女王公認でスペイン商船を襲撃し、金品を略奪するなどの行為をしたことなどが、アルマダ戦争の一因である。現在でも「侵略」の定義は定まっていないが、コンセンサスが確立しているのは「挑発なき攻撃(unprovoked offense)」という点である。両戦争の発端はペルシャ、スペインの攻撃だが、それに先だってギリシャ諸都市国家、英国側に「明白な挑発」があったといえる。
 
専守防衛の失敗例−マジノ・ライン
 第5に、ペルシャ戦争、元寇の役の場合は、暴風雨という自然現象が防衛側の勝利に大きく寄与しているという点も見逃せない要因だ。ペルシャ戦争では、ペルシャ海軍は第一次遠征の際、カルキディケ半島のアトス岬で暴風に見舞われ300隻の軍船が沈没し、2万人以上の死者が出たと伝えられている。文永、弘安の役の際の暴風雨が元軍に大きな打撃を与えたこともよく知られている通りだ。だが、“神風”が何時も吹くとは限らないから、これらの戦争をもって「専守防衛」の成功例とするには慎重でなければならない。
 第6に、3事例のいずれも勝者側に独自の勝因が、敗者側に独自の敗因があり、それを抜きにして、一定の結論を引き出すことは間違いのもとである。例えば、ペルシャ戦争、アルマダ戦争のいずれの場合も、勝者側が勝利を決定づけた海戦で、敗者側の大艦隊を狭隘な海域に誘い込み、小型秀速の艦艇で鈍重な艦艇を撃破するのに成功している。また、両戦争ともに政軍関係上で、政治が過剰に軍事作戦に介入するという誤りを犯している。これらの諸点が勝敗に大きな影響を与えている点を念頭に置くと、勝因を「専守防衛」に求めるのは無理がある。
 反面、フランスのマジノ・ラインは、見方によっては“専守防衛”の典型的な失敗例だといえる。ドゴールなどフランスの一部軍人は、機甲部隊の前には専守防衛のマジノ・ラインは役に立たないこと、またこれに対抗するには攻撃兵力として同じ機甲部隊を強化するしかないと訴えたが、当時の政治家や軍首脳は耳を貸さなかった。1940年(昭和15年)5月10日にベルギー、オランダに侵入したドイツ軍は、14日にはセダン付近で難攻不落と見られたマジノ要塞を簡単に突破し、6月10日にはパリに入城している。近接航空支援を受けた機甲師団による電撃作戦を“専守防衛”は支えきれなかったのである。
 このように見てくると、歴史上、「専守防衛」の事例はなきに等しいのに反し、逆に失敗ともとれる事例は存在する。このため、歴史上から専守防衛策の有効性を立証することはできない。
 

28 特記したもの以外は主要各新聞。
29 2003年(平成15年)3月11日付『毎日新聞』朝刊。
30 3月12日付『毎日新聞』朝刊。
31 5月1日付『読売新聞』朝刊、4月29日ワシントン発「時事通信」。
32 5月13日付『読売新聞』朝刊。
34 2003年(平成15年)7月26日付『産経新聞』。
35 2003年(平成15年)5月15日付『読売新聞』朝刊。
36 p.598、講談社。
37 2003年(平成15年)4月17日付『毎日新聞』朝刊。
38 2003年(平成15年)7月5日付『朝日新聞』朝刊。
39 2003年(平成15年)6月24日付『読売新聞』朝刊、「論陣・論客」。
40 『経済往来』1980年(昭和55年)8月号、pp.146〜155.経済往来社。







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