第1章 「専守防衛」の語義
軍事用語でなく政治上の妥協の産物
防衛庁は「専守防衛」について「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限度にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のため必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいう」と説明している。5この説明は1981年(昭和56年)当時の大村穣治・防衛庁長官の国会答弁以降、「専守防衛」の公式見解とされている。6「専守防衛」という言葉は、1954年(昭和29年)の自衛隊発足直後から首相、外務大臣、防衛庁長官の国会答弁で、自衛隊は海外派兵や侵略目的のものでなく、「専ら防衛を目的としたもの」であることを強調するために用いられていた。大村長官の答弁までは、例えば田中角栄首相(当時)のように、「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行う」と、現在の公式説明より一層限定的な説明がされたこともある。7「専守防衛」なる用語は軍事戦略上の専門用語と受け取っている向きもあるが、誤解である。宝珠山昇・元防衛施設庁長官は「専守防衛は過去の歴史を反省し、自制した防衛戦略だ」と強調している。8しかし、後で検証するように、この言葉は防衛戦略という次元の高いものではなく、政治的妥協の産物である。日本だけで使われている、ないしは日本でしか通用しない、“政治用語”というべきものである。
もっとも、軍事分野で「passive defense」という用語・概念があり、これが日本では戦前から「専守防御(禦)」「守勢防御(禦)」との訳語が付けられていた。9しかし、この「passive defense」は消極的な防御という意味であり、地上攻撃や航空攻撃への非強力的な対応措置をいう。具体的には、掩蔽、遮蔽などによる防御や武器・弾薬集積処の分散などによる防御措置を指している、戦術(tactics)レベルの概念である。例えば、航空攻撃に対する防空面での「active defense」は、防空戦闘機や高射砲、地対空ミサイルなどによる邀撃措置を指すが、「passive defense」はシェルターや岩盤をくり抜いた待避壕などによる対応措置を指す。いずれにしろ、我が国で使われている「専守防衛」のように、国家の基本的安全保障政策、防衛政策上の概念ではない。
「専守防衛」は一種の安全保障政策ないしは防衛政策であるが、諸外国と違って軍事戦略(防衛戦略)、軍事ドクトリンとは無縁の“言葉”である。ちなみに、「防衛学会」(現在「国際安全保障学会」に改称)編著で出版された『国防用語辞典』所載の1,809の用語中にも取り上げられていない。10防衛庁が『防衛白書』の英訳版“DEFENSE OF JAPAN”を作成する際に、訳語に頭を悩ましたのも当然といえる。英語に該当する用語が皆無だったからだ。そこで結局、“Exclusively Defense-Oriented Policy”と説明的な表現を用いざるを得なかった。
軍事上、「戦略守勢(防勢)」という言葉が「戦略攻勢」との対比で用いられることはある。田中角栄首相(当時)は国会で、「戦略守勢」について「専守防衛と同様な意味のもの」と答弁している。11これは田中首相独自の判断ではなく、当時の政府・内閣法制局・防衛庁の公式見解といえる。これは極めて政治性を持った言葉を、無理に軍事的概念に結びつけようとしたと言え、牽強付会である。
戦略守勢の本義
一般の「守勢」が自己の軍事能力の劣勢のためにやむを得ず採用する戦術なのに反して、「戦略守勢」は大所高所から意図的に採用する軍事戦略である。ソ連の『基本軍事用語辞典』では、この戦略守勢について「軍隊が奇襲を受けた時ないしは特定の作戦戦域における武力抗争の過程で、敵が兵力、兵器面で優位にある時に、戦略目標を達成するために用いられる交戦状態の一種」と定義している。そしてこの戦略守勢は「敵の攻勢に反撃する目的で、意図的にまたは必然的に計画される」と説明。その具体的目的として、(1)戦争の初期段階での陸海空経由の侵攻を防ぐ、(2)交戦状態の過程での進撃を阻む、(3)所定の交戦戦域ないしは他の交戦戦域で戦略攻勢に移るための条件を作り出す−の3点を挙げている。12妥当な説明である。
「戦略守勢」という用語は概して戦いの局面で使われることが多いが、平和時における防衛体制を特徴付ける表現として使われることもある。我が国とソ連とのノモンハン戦は、日本政府・軍当局の不拡大方針を受けて戦略守勢を採用した典型的な例である。我が軍の被害が大きかった理由の一つは、戦略守勢を採用し兵力増強を控えたからである。当時既に英米両国との関係が悪化しており、政府・軍当局はソ連と良好な関係を維持したいという事情を優先させたこと、またチャイナの蒋介石政権との事変(incident)の最中であることも考慮し、戦略守勢を採用したのである。
一方、平和時における防衛体制としては、第二次世界大戦前、フランスがナチス・ドイツの国防軍の機甲化に対抗して独仏国境に構築した要塞「マジノ・ライン」は、戦略守勢の所産だといってよい。要塞とは鉄とコンクリートで固めた恒久陣地であり、対戦車障害、対戦車砲陣地、機銃陣地、要塞砲などを幾重にも張り巡らしてある。ドゴール大佐(第二次大戦後の大統領)らはドイツ同様に機甲兵力など攻撃的能力の保有で対抗すべきと主張した。だが、第一次大戦の英雄、ペタン元帥や社会党の指導者、レオン・ブルム首相などが、この主張を退けて要塞を構築した。
ただ注意すべきは、当時のフランスの軍事政策、軍事戦略ないしは軍事ドクトリンが、全面的に「戦略守勢」を採用していたわけではない点である。第一次世界大戦後、しばらくの間は、ベルサイユ条約によってドイツが軍備制限を課せられ、革命によって帝政ロシアが崩壊したため、フランスは欧州一・世界一の軍事大国にのし上がっていた。このため、フランスは欧州の支配的国家と自他共に認める存在であり、国家全体の軍事戦略としては決して守りに徹するというものではなかった。
ドイツ戦を念頭に置いた戦略だけに限定しても、ペタン元帥など要塞建設策を推進した軍首脳はマジノ・ラインで国家防衛が完全と考えていたわけではない。第二次大戦前、フランスの政治家や一般国民の間に「マジノ信仰(マジノ・サイコロジー)」と呼ばれるものがあったのは事実だが、戦略守勢はドイツ正面だけに採用されたものである。ペタン元帥などの構想は、独仏国境は自然の障壁が少なく守備が困難なので要塞をつくって比較的少数の兵力で守り、ベルギー国境にフランス軍を集中してドイツの侵攻を防ぐというものだった。また、マジノ・ラインは、ドイツのライン河中流地域に対する“攻勢移転”のための発進基地とすることも構築の狙いの一つだった。
専守防衛は侵略行動のカムフラージュ?
多くの場合、「戦略守勢」は「戦略攻勢」とともに、戦いの局面において用いられる概念である。つまり、特定の戦域に兵力を集中するために、換言すれば「戦略攻勢」をとるために、他の戦域では意図的に守勢をとる場合に「戦略守勢」と称せられる。例えば、「東部戦線で戦略攻勢をとるために、西部戦線では戦略守勢をとる」という具合である。あるいは、攻勢の準備が整うまでの時間稼ぎのために「戦略守勢」をとることもある。つまり、攻勢をかけるためには兵力、武器弾薬が不足していたり、あるいは補給体制が十分でなかった場合、それらが充足されるまで一時的に「戦略守勢」をとる。これは戦略(strategy)のレベルだけでなく、作戦術(operational art)、戦術(tactics)レベルの守勢、攻勢概念についても同様なことがいえる。
また、要塞による防備は戦略守勢の典型と見られがちだが、戦いの局面によっては攻勢をとることもある点に注意すべきである。日露戦争中のロシア軍の旅順要塞兵力も、局面によっては我が軍に攻勢を仕掛けたこともある。逆に、戦略攻勢を採用していても、意図に反して敵が強靱で局地的には守勢に立たされることもある。いずれにしろ、「戦略攻勢」「戦略守勢」の両概念は、国家の軍事戦略として矛盾するものではなく、両者はむしろ共存するケースが多いのである。従って、我が国でいう「専守防衛」と軍事概念である「戦略守勢」は、同じではないだけでなく全く関係もない。
ちなみに、ソ連はこの「専守防衛」について、日本政府の公式説明と大きく違った受け取り方をしていた。国防省・科学アカデミー・軍事史研究所が1985年(昭和60年)にまとめた報告書『日本の軍事力』13の該当記述は、その典型である。同報告書では、先ず「80年代初めになって日本では、自衛隊の戦闘行動に関する『専守防衛』と呼ばれる新しい考え方が一般的になった」と前置き。この「専守防衛」の中で説かれている「最小限の防衛力」という考え方は、「積極的な防衛行動によって敵に先制攻撃を加えるという原則に基づいており、その中には、あらゆる種類の軍事力を行使して、外部からの援助を受けなくても、日本領土への攻撃準備を整えた敵に対し、打撃を加えることも含まれている」と見ている。そのうえで、「『専守防衛』を成功裏に実施するための最も重要な要素は、・・・偵察による情報収集の近代的システムに基づいて、軍事・政治情勢を慎重に検討して、敵にいつ先制攻撃を加えるのが最も適当かを判断することだとされている」と指摘。結論として、「専守防衛」策は「日本の戦略家にとって、将来の侵略行動をカムフラージュするためにのみ必要」だと解説している。
我々日本人にとって見ると曲解に思えるが、日本以外の国における軍事常識に基づけば攻勢と守勢は上述のように反する概念ではないので、このような見方が生まれたといえる。あるいはソ連軍事学では、「防衛」には積極防衛と消極防衛の概念があり、積極防衛には先制攻撃の概念が含まれていること、また侵略国の多くが「防衛」という言葉で自国の領土拡大の野心を隠蔽することが多いところから、自国の考え方の延長線上で「専守防衛」を理解したともいえる。
5 平成15年版『日本の防衛』(防衛白書)。
6 1981年(昭和56年)3月19日、参院予算委員会。
7 1972年(昭和47年)10月31日、衆院本会議。
8 2003年(平成15年)6月24日付『読売新聞』朝刊。「論陣・論客」。なお、同氏は「専守防衛」の誕生について、「敗戦の虚脱状態の中にあって、国内には反戦や反軍感情が根強く、非武装中立のような空想的な防衛論も横行し、諸外国は日本の軍国主義復活を厳しく警戒している中で生まれた。日本は受動的かつ守勢的な戦略姿勢を示すしかなかった」とも述べている。もっとも、社会党の非武装中立や共産党の非同盟中立などが“政策”として生まれたのは敗戦直後ではなく、明確な形をとったのは独立後である。
9 T・H・クレスゥエル、平岡閏三、難波丁三『A Dictionary of Military Terms 英日・日英』(開拓社、1942年[昭和17年])、西村大四郎『防衛時事英語辞典』(原書房、1971年[昭和46年])。
10 『国防用語辞典』朝雲新聞社、1980年(昭和55年)。この他、米国(“U.S. Department of Defense Dictionary of Military and Associated Terms”,2003)、ソ連(БИБАИОТЕКА ОФИЦЕРА,"СЛОВАРЬ ОСНОВНЫХ ВОЕННЫХ ТЕРМИНОВ",ВОЕННОЕ ИЗДАТЕЛЬСТВО МИНИСТЕРСТВА ОБОРОНЫ 1965 <『基本軍事用語辞典』>(“Dictionary of Basic Military Terms”, Translated by the DGIS Multilingual Section Translation Bureau Secretary of State Department)、中国(『軍事成語大辞典』長征出版社、1996年)など主要国の代表的軍事用語辞典にも該当用語はない。
11 前記、田中首相答弁。
12 前記ソ連『基本軍事用語辞典』。p.211.
13 『世界週報』(編集部訳・1986年[昭和61年]3月11日号)、時事通信社、p46.
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