吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第14回
文学博士 榊原静山
鎌倉、室町時代の展望
―(一一九二〜一六〇三)―【その一】
戦乱続き、文化的には低調
源氏の頼朝が平家を滅ぼして鎌倉に幕府を開き、武家政治を開いてから、千三百三十三年に鎌倉幕府が滅び、次いで建武中興が成り、天皇親政になったが、それも束の間で足利の反逆で南北二朝の対立の時代になり、千三百九十二年に後小松天皇の即位で不幸な南北朝は解消したが、政治の実権は足利義満の手に帰して、ここに再び武家の手に戻り、それ以来千五百七十三年足利幕府が滅びるまでの間を室町時代という(もちろん千四百六十七年の応仁の乱以後は足利の勢力は衰え、諸国は群雄が割拠して戦いに明け暮れる、いわゆる戦国時代といわれる時代)。
つづいて織田信長、豊臣秀吉によって戦国の世を平定し、信長が安土城、秀吉が桃山の伏見城に拠って日本全土に号令をした三十年間を安土桃山時代と呼んでいるが、この時代は日本の歴史上最も乱れ、戦いの続いた時代で、人々は学問にかえりみる暇がなく、文化的に低調な時であった。けれども僧侶だけは幸せに世塵を離れて学問をすることができ、また世の無常をはかなんで優秀な人材が仏門に入ったりしたので、五山の禅僧には傑出した者が多く出たといわれている。
五山文学という名称までできているが、五山というのは鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄如寺の五つの禅宗の名刹をいう。五山文学が盛んになったのは室町時代であるので京都の五山、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の五禅寺、それに南禅寺を加えた、これらの寺々の僧侶の名詩が残されている。
武家政治と院政
この時代の一般的な動きをもう少し詳しく説明しておこう。
平家を滅ぼして一応源氏の天下になったが、頼朝は猜疑心が強く、一番勲功のあった実弟の義経までも殺そうとする心のせまい人物であったので、頼朝が死ぬとすぐその破綻があらわれはじめ、頼朝の長子の頼家が将軍になったが、頼朝の夫人北条政子は我が子の頼家には力がないとみて、自分の父の北条時政を執権として独断政治を行ないはじめ、時政は梶原景時、比企能員(ひきよしかず)(頼家の妻の父)等を次々と殺し、遂に頼家までも修善寺に幽閉し、頼家の弟の実朝を将軍にしたが、実朝は武人的でなく、京都の文化にあこがれて将軍の職は名ばかりで、歌や蹴鞠になど、風流の道に明け暮れていたが、鶴ヶ岡八幡宮の石段で暗殺されたので源氏の天下は三代で断絶し、北条時政も隠退して義時が執権になり、武家政治を行なおうとしたが京都においては後鳥羽上皇が幕府を倒して政権を院政に奪回しようとして北面の武士の他に西面の武士団を募り、これらの武士を中心に諸国の武士団に北条義時追討の命令を発令したが、逆に北条方から泰時、時房の軍が京都へ攻め入り、院側を壊滅させてしまう。泰時、時房等は京都に留まり、後鳥羽上皇を隠岐の島に、土御門上皇を土佐に、須徳上皇を佐渡に配流し、後掘川上皇を立てて政治の実権を握り、義時に代わって泰時が執権になり、つづいて経時、時頼と執権が代わり、時頼は鉢の木で有名になっている如く、各地の民情を視察したり、松下禅尼の節倹の教を守るなど、良い政治を行ない、鎌倉幕府の力が増し全国に勢力を及ぼし、ようやく武家政治を行ない得るようになるのであるが、その頃大陸では蒙古が立ち、アジアからヨーロッパヘかけて歴史上最大といわれる大帝国を作り、日本へも国書を送って服属することを要求した。
源実朝の暗殺
元寇
蒙古の来襲
朝廷ではその回答に苦しみ、鎌倉幕府に意見を求めた。鎌倉では千二百六十八年(文永五年)北条時宗を執権に立て、蒙古の要求をしりぞけ、蒙古の国書を拒絶して九州、四国、中国の防備を固めた。はたして千二百七十八年(文永十一年)には元と高麗の兵三万余が対馬や壱岐に来襲し、一部は博多湾まで来て上陸するが、暴風雨が起って蒙古軍は退却してしまった。これを文永の役という。
つづいて蒙古は翌年再び使者を送って来たが、時宗はこれを捕えて鎌倉の竜の口で斬殺してしまう。怒った蒙古は千二百八十一年(弘安四年)に十四万の大軍と四千四百隻の軍船をもって博多湾に来襲して来た。しかし彼らの上陸に先立って、またもや大暴風雨になり、敵船の大部分が沈没して我が国にとっては未曾有の国難を天運によって乗り切ることができたのである。
この時の様子を頼山陽は「蒙古来」と題して次のように詠じている。
“筑海(ちくかい)の颶気(ぐき)天(てん)に連って(つらなって)黒し(くらし) 海(うみ)を蔽うて(おおうて)来る(きたる)者(もの)は何(なん)の賊(ぞく)ぞ 蒙古(もうこ)来る(きたる) 北(きた)より来る(きたる) 東西(とうざい)次第(しだい)に呑食(どんしょく)を期す(きす) 趙家(ちょうか)の老寡婦(ろうかふ)を嚇し(おどし)得て(えて) 此(これ)を持して(じして)来り(きたり) 擬す(ぎす)男児(だんじ)の国(くに) 相模太郎胆甕(さがみたろうたんかめ)の如し(ごとし) 防海(ぼうかい)の将士(しょうし)人(ひと)各(おのおの)力む(つとむ) 蒙古(もうこ)来る(きたる) 吾(われ)は怖れず(おそれず) 吾(われ)は怖る(おそる)関東(かんとう)の令山(れいやま)の如き(ごとき)を 直ちに(ただちに)前み(すすみ)敵(てき)を斫って(きって)顧みる(かえりみる)を許さず(ゆるさず) 吾が(わが)檣(ほばしら)を倒し(たおし) 虜艦(りょかん)に登り(のぼり) 虜将(りょしょう)を檎(とりこ)にして 吾が(わが)軍(ぐん)喊す(かんす) 恨む(うらむ)可し(べし)東風(とうふう)一駆(いっく)大濤(だいとう)に付し(ふし) 羶血(せんけつ)をして尽く(ことごとく)日本刀(にっぽんとう)に膏らしめ(ちぬらしめ)ざりしを”
法然
親鸞
庶民的仏教の誕生
鎌倉時代は政治的にはそれほど大きな特色はないが、宗教の分野ではいろいろと新しい仏教が生まれている。
まずその先駆として法然(一一三三〜一二一二)が出て極楽浄土を欣求(ごんく)し、その手段として、“阿弥陀仏”の名を称えた功徳によって成仏するという、称名念仏を宗とする浄土宗を開いた。つづいてその弟子の親鷺(一一七三〜一二六二)が称名念仏よりも阿弥陀仏の救済を信ずることによって、極悪人でも成仏できるという、もっとも庶民的な浄土真宗を開き、自らも妻帯して山家の仏教から在家仏教におろし、次の一遍(一二三九〜一二八九)は遊行と念仏踊りによって法悦の境に入り、称名念仏を数多く唱え、他人の唱えた数まで廻向し合って成仏するという時宗を作り、在来の禅宗からは栄西(一一四一〜一二一五)が出て臨済宗を開いて京都に建仁寺を建て、道元(一二〇〇〜一二五三)は曹洞宗を開いて越前の永平寺にこもって門弟を教育している。
これらの新宗派に対して強く対抗意識を持った日蓮(一二二二〜一二八二)が出て他宗を激しく非難し、仏教の根本義は法華経にあるとして、この“妙法蓮華経”つまり法華の題目を唱えることによって成仏できる、と説いて辻説法から立ち上がり、東国の農民や武士達の信者を沢山つくり、“立正安国論”を著し、幕府に献じ、竜の口の奇跡だの、元寇の天運は日蓮の祈りから開けたなどという人もある。
幕府に建白する日蓮
道元
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