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'03剣詩舞の研究(十)
群舞
石川健次郎
 
剣舞「無題(落花紛々)和歌入」
詩舞「獄中感有り」
剣舞(群舞)
「無題(むだい)(落花紛々(らっかふんぷん))」の研究
村上仏山(むらかみぶつざん) 作
 
(前奏19秒)
落花紛紛(らっかふんぷん)雪紛紛(ゆきふんぷん)
雪(ゆき)を踏み(ふみ)花(はな)を蹴って(けって)伏兵(ふくへい)起る(おこる)
白昼(はくちゅう)斬り(きり)取る(とる)大臣(だいじん)の頭(こうべ)
置く(ああ)時事(じじ)知る(しる)可き(べき)耳(のみ)
うきことはいや積る(つもる)とも剣(つるぎ)太刀(たち)
仇なす(あだなす)人(ひと)を払ひ(はらひ)清め(きよめ)む(佐野竹之助)
落花紛紛(らっかふんぷん)雪紛紛(ゆきふんぷん)
或は(あるいは)恐(おそる)天下(てんか)の多事(たじ)此に(ここに)兆さん(きざさん)ことを
(後奏18秒)
 
〈詩文解釈〉
 作者の村山仏山(一八一〇〜一八七九)は幕末明治の漢詩人で、十五歳のときに筑前に遊学。亀井昭陽に学び、また京都では当時の名流と交わり名を上げたが、二十六歳で郷里豊前に帰り塾を開いて多くの子弟を養成した。仏山は白楽天と蘇東坡に傾倒したが、彼の作品で「壇の浦を過ぐ」はよく知られている。
 また、和歌「うきことの」の作者佐野竹之助は桜田門外に井伊大老を襲撃した一人で、この歌は出発にのぞんで同志に与えた訣別の書に記されていた。
 さてこの作品は、万延元年三月三日に、安政の大獄の首謀者・井伊直弼大老を江戸城桜田門外で、水戸浪士たちが暗殺した状況を、後の時代に作者村上仏山が心に感じた思いを述べたもので、今回は和歌を併用したが、その大意は次の様である。『降りしきる雪の中を、江戸城に登城しようと井伊大老は約六十人の供ぞろえを整えて桜田門に近づいた。そのとき雪を踏みしめ、落花を蹴って十八名の水戸浪士たちが行列に襲いかかって、警護の供武者と斬り合いになり、やがて白昼の桜田門外で大老の首を斬って立ち去った。この様な事件がこの時期に起ったことは、誠に異変としか云いようがない。
 (とは云っても水戸の浪士達にすれば、井伊大老によって水戸藩主の斉昭が藩邸に幽閉されたり、安政の大獄によって同志の多くが捕えられ処刑されたことなどが積もりにつもって、遂に剣太刀を持って、仇なす首謀者を成敗する事にした)以上挿入和歌。
 この歳三月三日、節句の日は桜の散る頃なのに遅い大雪が降るなど異変続きで、路上の雪を花と血潮で赤く染めた。このことは或いは天下にこれから多くの事件が起こることの、前触れではなかろうか』と述べている。
 
桜田門外の変(錦絵)
 
〈構成振付のポイント〉
 この漢詩「無題」は、桜田門外の変を詠んだものであることはわかるが、詩文解釈の項で述べた様なことは、詩文自体にふれてないので、構成振付に当っては、なるべく具体的な動きも取り上げることにしたい。また演舞者は、井伊大老グループ、水戸浪士グループなどの具体的な役割りと、また後半では抽象的な表現でまとめてみたい。
 一例として、前奏から一句目にかけては、江戸城に向かう井伊大老一行が、雪の降る中を粛々と進む様子を表わし、二句目からは、水戸浪士達に役替りして、三名がそれぞれに不穏な動きを見せ、一斉に抜刀して大老に斬りかかる様子を見せる。三句目は、水戸浪士側の一方的な攻撃にするか、又は両者の戦いにするかはどちらも可能だが、四句目は浪士が三つ巴になって大老を血祭りに上げた振りから、二人が左右に控え、残った一人が和歌の前半を扇で抽象振りを舞い、後半は二人が抜刀して加わる。五句目は三人とも白扇(二枚扇も可)によって花吹雪とか世の乱れを象徴する舞を見せ、六句目は扇を納め、五句目とは対稱的に刀による乱世の象徴を演じて終る。
 
〈衣装・持ち道具〉
 演舞者が特定の役柄に固定されることがない構成だから、衣装は全員黒紋付で袴を着用する。錦絵によると水戸浪士達は鉢巻をしているが、実際の演舞では役変りがあるので強制はしない。扇は白又は銀無地がよい。
 
詩舞(群舞)
「獄中感有り(ごくちゅうかんあり)」の研究
西郷南洲(さいごうなんしゅう) 作
 
(前奏19秒)
朝(あした)に恩遇(おんぐう)を蒙り(こうむり)夕(ゆうべ)に焚坑(ふんこう)せらる
人世(じんせい)の浮沈(ふちん)晦明(かいめい)に似たり(にたり)
縦い(たとい)光(ひかり)を回らさざる(めぐらさざる)も葵(あおい)は日(ひ)に向う(むこう)
若し(もし)運開く(ひらく)無き(なき)も意(い)は誠(まこと)を推す(おす)
洛陽(らくよう)の知己(ちき)皆(みな)鬼(き)と為り(なり)
南嶼(なんしょ)の俘囚(ふしゅう)独り(ひとり)生(せい)を窃む(ぬすむ)
生死(せいし)何ぞ(なんぞ)疑わん(うたがわん)天(てん)の付与(ふよ)なるを
願くは(ねがわくは)魂魄(こんぱく)を留めて(とどめて)皇城(こうじょう)を護らん(まもらん)
(後奏16秒)
 
〈詩文解釈〉
 私達が持つ西郷南洲(一八二七〜一八七七)のイメージは、江戸城明け渡しや、明治新政府での活躍、そして西南の役の城山で敗れ、自刃したことなどを思い起こすが、この作品は彼の50年の生涯の中でも、35歳の頃を述べたものである。
 西郷南洲は20歳を過ぎた頃から、藩主島津斉彬に認められ、藩政に深くかかわるようになった。その後斉彬に従って江戸に出たが、当時(安政4年)将軍継嗣問題が起こり、西郷は斉彬の意を受けて一橋慶喜の擁立に奔走した。しかし井伊直弼が大老になり“安政の大獄”でこれらにかかわった多くの者が弾圧された。この時西郷は、熱烈な勤皇僧、月照を伴って江戸を逃がれ帰国したが、藩でも幕府をおそれて受け入れなかったために、二人は錦江湾に身を投じた。しかしこのとき西郷だけは生き残ったので、藩はこのことを隠すために彼の身がらを奄美大島に移した。
 その後、文久2年(一八六二)藩主島津久光の上洛に随行を許され、先発して下関で待つよう命じられたが、彼は京都の不穏な形勢を察知して命令を待たずに上京してしまった。これが藩主久光の怒りを買い、再び徳之島に流され(後に沖永良部島に移された)ここで罪人としての厳しい仕置を受けた。
 しかし西郷南洲は、こうした境遇の中でも勤皇の志は失うことなく勉学を深め、「死生は天の賦与」の思想を会得した。
 このような彼の人生観が、この詩には深くきざまれているが、直接的な詩文の意味は次のようである。『人の生涯には、或るときは身にあまる手厚い扱いを受けることもあるが、反対に中国の故事に云う焚書抗儒の如く酷い仕打ちを受けることもある。こうした浮き沈みは、なんともままならぬもので、一日の中でも暗い夜もあれば明るい昼もめぐってくるようなものであろう。しかし向日葵(ひまわり)の花は、たとえ太陽が照らない時でも、必ず太陽に向いて花を開くように、自分が運わるく、この島の牢で生涯を送ったとしても、この忠誠心は変ることはない。今回京都では多くの同志が大獄の難に殉じたが、自分だけは南の島に囚われの身となって生き長らえている。然し、もともと人間の生死は天が与えたものだから何んとも致し難く、もし自分が死んでも、我が魂はこの世にとどまって皇室をお守りしようと心に誓っている』と云うもの。
 
〈構成振付のポイント〉
 詩文は抽象的な表現ではあるが、前項で述べたように、その背景には作者西郷南洲の生活記録が十分に描かれている。しかし群舞作品としてこのドラマを具体的に表現することは大変無理があるので、そこでこの詩の大意である尊皇の心を前面に押し出した三句目と八句目をポイントにして、作者の不屈の精神と行動力を群舞構成に仕立てた方がよい。更に注意すべきことは、詩文が一人称的な内容で展開しているため、振付けの主題が分散して混乱しないような配慮が必要であろう。
 構成プランの一例としては、前奏から一句目にかけて、上手から格調のある三人の主従を登場させ、同時に下手から捕われ者と捕手を登場させ中央で交差しながら横一列になり扇による揃い振りを二句目に、三句目は体形を変えて、一対四で向日葵(ひまわり)の見立て振りで忠誠心を表わし、四句目は三句目の変形(バリエーション)で振付けを拡大する。五句目は一転して、同志が安政の大獄で倒れる様子を工夫し、六句目はそれを弔う西郷と分身の抽象振りでアクセントをつける。七句目は激しい怒りを爆発させて、扇の見立ての刀や空手風の格闘技の振りを見せ、八句目は一転して扇の揃い振りで、格調高く尊皇の気概を見せる。
 
西郷南洲が牢生活を送った沖永良部島の南洲神社
 
〈衣装・持ち道具〉
 作品の内容は作者西郷さん一人である。従って五人とも同じ黒又は地味な色紋付で統一したい。扇は雲型模様など上品なもの又は無地がよい。







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