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'04剣詩舞の研究(八)
一般の部
石川健次郎
 
剣舞「和歌・わが胸の」
詩舞「和歌・天つ風」
剣舞
「和歌・わが胸(むね)の」の研究
平野国臣(ひらのくにおみ) 作
 
(前奏)
わが胸(むね)の燃ゆる(もゆる)思い(おもい)にくらぶれば
煙(けむり)はうすし桜島山(さくらじまやま)
わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば
煙はうすし桜島山
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 この和歌の作者平野町臣(一八二八〜一八六四)は福岡藩士平野吉三の次男で次郎と稱したこともあり、身分は低い足軽の出身であった。しかし情熱的な性格の国臣は、ペリー来航後長崎に勤務したことから尊王攘夷の志を抱き、妻子と別れて脱藩し、京都に出て勤王の薩摩藩士達と交わった。西郷吉之助(隆盛(たかもり))や僧月照とも親交があり、両人が入水自殺を計った時は、国臣もその舟に乗っていたと云う逸話がある(錦絵参照)。また寺田屋事件(文久二年)のときも彼は京都で弾圧され、翌三年には九州・久留米の真木和泉らと攘夷親政の運動に参加した。しかしこの活動は薩摩と会津などの公武合体派によるクーデターだったので不発に終った。
 国臣はさらに急進派の公卿・沢宣嘉(さわのぶよし)を担いで挙兵し、但馬の変を起したが、捕えられて京都の獄につながれ元治元年(一八六四)に斬罪に処せられた。三十七歳の生涯であった。
 
噴煙を上げる桜島
 
平野次郎国臣(左)と西郷・月照(右)の錦絵
 
 ところで国臣は若くして国学をまなび、特に和歌には優れた才能を示し、この和歌「わが胸の」ように、その情熱的な歌風は多くの人達に愛唱された。なおこの作品は作者が九州各地を訪れ、薩筑連合などを画策(かくさく)した折に、「鹿児島に入りて同志と語らいけるに事成らざれば」と注釈をつけて詠んだと云われている。さて和歌の意とするものは『尊皇討幕の熱烈な自分の思いに比較すれば、桜島で吹上げている噴煙などはうすいものである』と自分の情熱を詠い上げている。
 
〈構成振付のポイント〉
 この和歌の組立てを考えると、自分が尊皇討幕に注いだ情熱と、空高く噴煙をたなびかせる桜島の火山活動を比較し、前者の方が優勢であることを訴えるために、本来は雄大であるべき桜島の噴煙を“薄い”と過小評価の形をとっている。したがって歌詞を、そのままストレートに構成や振付になぞることは出来ないから、また今回は特に剣舞としての舞踊表現が重要なポイントになる関係から「詩文解釈」の項で述べたような作者の心情を優先して欲しい。
 またこの作品では部分的に詩舞的表現を混合させることで感情の起伏を見せるとよい。
 さてその一例として、演者の役柄は作者自身を想定して、前奏から前段の上の句は、帯刀のまま仕舞のような格調高いポーズで扇を指し構えして舞台を大きく転回して中央におさまると、下の句は扇を開き山の形や煙の形を、扇を主にして見せ場を作る。ここでは二枚扇の技法を活用してもよく、投扇を工夫して噴煙の情景を見せることもできる。
 さて後段は剣技中心の動きを取入れるが、前段の終りで扇の笠で顔を隠した演者は、扇を飛ばすと同時に抜刀して激しい戦いの技を見せる。下の句も再度攻撃的な剣技を見せるが、途中手負いになって倒れた型のまま、桜島の噴煙を見上げるポーズで終る。
 
〈衣装・持ち道具〉
 この作品はいずれにしても勤王の志士が主役であるから黒紋付に地味な袴がよい。演技者が女性の場合でも男性に準じ、刀以外の持ち道具として扇を使う場合は白扇でよい。
 
詩舞
「和歌・天つ風(あまつかぜ)」の研究
僧正遍昭(そうじょうへんじょう) 作
 
(前奏)
天つ風(あまつかぜ)雲(くも)のかよひ路(かよひじ)吹き(ふき)とぢよ
をとめの姿(すがた)しばしとどめむ
天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ
をとめの姿しばしとどめむ
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 作者の僧正遍昭(八一六〜八九〇)は平安時代の歌人で六歌仙の一人に数えられ、この歌は小倉百人一首で有名だが、そもそもは古今集、雑の部に「五節の舞姫を見てよめる・良岑宗貞(よしみえのむねさだ)」としてのせられている。従って作者が出家する前の作であることがわかる。そこで改めて作者について述べると、良岑宗貞は桓武天皇の皇子安世(やすよ)の子として誕生。始めは宮廷に仕え、左近衛少将から蔵人頭まで出世したが、寵を受けていた仁明天皇が八五〇年に亡くなられたので哀しみのあまり出家した。晩年僧正の位になる。
 さて和歌誕生の経緯は前述したように、作者が出家する以前に仕えた宮中行事の酒宴で見た「五節の舞」のことが主題になっていて、この舞姫は公卿(くげ)や国司の家庭の未婚の美女五名が選ばれ、その舞ぶりは恰も(あたかも)天上から舞い降りた天女が、再び天上へ舞い昇る様であったと云う。そこで作者は、その舞姫をいつ迄も帰したくない思いを歌に詠み込んでいて、通釈すると『天上を吹く風よ、雲の隙間(すきま)の通り道を風を吹かして塞いで(ふさいで)欲しい。と云うのはあの舞姫たちを、もうしばらく地上にとどめておきたいから。』となる。
 
五節の舞
 
伝説・五節の舞
 
 さてもう一つ、宮中に伝わる五節の舞の起源を述べよう。「昔天武天皇(六七〇年代)芳野の宮にましまして琴を引きたまいし時、峯より天女降りて、羽衣をひるがへし小女(おとめ)らしき舞を見せ、人々は恍惚として見とれた」。この伝説的五節の舞を、作者は現実のものとして宮中で見たのであろう。
 
〈構成振付のポイント〉
 詩舞としては幻想的であり、且つ雅(みやび)な舞が表現できる好都合なテーマである。但しその前に整理して置きたいことは作者の身分である。前項で述べたように作者は僧ではなく貴公子が相応しく、伝説上の天武天皇を登場願うとしても少壮がよい。どうしても僧を作者役にするならば40代以上で70代迄の遍昭でなければならないのだが、勿論写実にこだわらず、挿絵の様な若い遍昭であっても特に問題はない。
 次に構成の一例を述べると、前奏から前段の上の句にかけては、天女の舞にふさわしい薄絹のベールをまとって、舞台を大きく飛行する振りを優雅に舞い、そのベールは風を吹く形容も見せて渦巻き状に位置をとると、下の句では扇の見立てで琴や笙の演奏の型を見せる。後段上の句からは舞の振りが変って、一人でも群舞的な五人の連続動作を考えたい。それには扇を増やしたり、桧扇(ひおうぎ)を使うことも参考に振付けして、最後下の句では作者、宗貞が扇を笏(しゃく)に見立て、歌を書き記して天空に捧げ祈りの型を見せる。
 
僧正遍昭(肖像)
 
〈衣装・持ち道具〉
 舞姫を規定の衣装の中で、然も作者を兼ねることを考えて、挿し絵を参考にして欲しい。それにはベールの色や扇の形や色も優雅な白、黄、空、青、紫、朱などの配色に注意して欲しい。







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