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'04剣詩舞の研究(四)
一般の部
石川健次郎
 
剣舞「凱旋」
詩舞「三樹の酒亭に遊ぶ」
剣舞
「凱旋(がいせん)」の研究
乃木希典(のぎまれすけ) 作
(前奏)
王師百万驕虜(おうしひゃくまんきょうりょ)を征す(せいす)
野戦攻城屍山(やせんこうじょうかばねやま)を作す(なす)
愧ず(はず)我何(われなん)の顔(かんばせ)あってか父老(ふろう)に看えん(まみえん)
凱歌(がいか)今日(こんにち)幾人(いくにん)か還る(かえる)
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 作者の乃木希典(一八四九〜一九一二)についてはよく知られている通りだが、この詩文に詠われている日露戦争当時の作者は第三軍司令長官として旅順総攻撃を指揮していた。この戦闘は大激戦で、我が国では五万五千人の将兵が死傷したが、旅順陥落後は奉天大会戦にのぞみ、明治三十九年一月に希典は凱旋した。ところで、乃木将軍自身もこの戦いで長男勝典、次男保典を戦死させたが、それだけに凱旋に際して部下を思う気持、とりわけ死傷した部下やその肉親に対する思いやりがしのばれる。なお補足だが希典は凱旋後、明治天皇に復命した折にも、戦死させた将兵についての責任を深く謝し「これみな臣が不敏の致すところ、願わくは臣に死を賜え」と号泣したと伝えられ、まさに乃木将軍の人となりを表わすものであった。将軍は明治天皇崩御の後、御大葬当日に夫人とともに殉死したが、その武人の気概はこの作品からも読みとることができる。
 
乃木将軍
 
 さて詩文の意味は『わが百万の皇軍は、おごれる大国ロシヤ軍を討つべく立上がった。しかし二〇三高地城塞の野戦は、敵の備えも堅くそのために我が軍の戦死者の屍(かばね)が山のようになってしまった。勝ったとは云えこのように犠牲者を多く出したことは残念で、更にそれらの将兵の老いた親達には申しわけなくて顔むけも出来ない心境である。今日帰国するに当って将兵達も一体幾人が勝ち戦(かちいくさ)の歌をうたいながら凱旋したであろうか』と云うものである。
 
〈構成・振付のポイント〉
 この作品は、前半で激しい戦いと、そこに戦死者が累々と山をなす生生しい戦場の様子を述べたのに対して、後半は乃木将軍の悲槍(ひそう)な心境が述べられている。そこでこの前後の表現に違和感が生じないように舞踊構成することが第一のポイントであり、もう一つは“凱旋”という言葉の持つ華やかなイメージとは裏腹に、ここでは多くの犠牲者の上に成り立った勝利の凱旋だけに、苦悩を背負った武人の姿を描く必要があるだろう。一例として剣技を主にした舞踊構成として、まず「起句」は活気盛んな攻めの技法から「承句」は攻めと守りの交互の展開。「転句」は残心を強調して虚無感をもたせる。「結句」は納刀の礼法に武人の面目と瞑想をこめると言った変化を作者の心の表現として置き替えてみよう。剣技の見せ場は当然前半になるが、それにも増して後半での作者の心を浮き彫りにしたい。
 
二〇三高地激戦の図
 
〈衣装・持ち道具〉
 凱旋といっても前述の如く祝いの華やいだ気分ではなく、作者の心は犠牲者への深い弔意が感じられるので、衣装は黒または白地の紋付きがふさわしい。扇も必要ならば地味なものか、又は白扇がよい。
 
詩舞
「三樹(さんじゅ)の酒亭(しゅてい)に遊ぶ(あそぶ)」の研究
菊池渓琴(きくちけいきん) 作
 
(前奏)
烟(けむり)濃やか(こまやか)に山淡く(やまあわく)して晴沙(せいさ)に映ず(えいず)
日落ちて(ひおちて)春楼細雨斜(しゅんろうさいうななめ)なり
朦朧(もうろう)たり三十六峰(さんじゅうろっぽう)の寺(てら)
箇箇(ここ)の鐘声(しょうせい)緩やか(ゆるやか)に花(はな)を出ず(いず)
(後奏)
 
〈詩文解釈〉
 この作品は幕末の漢詩人、菊池渓琴(一七九九〜一八八一)が詩を好む友人、摩島子毅と京都の三條河原に近い三本木の料亭で酒をくみ交わした折に作ったと伝えられるが、詩文には友人とのことは何もふれず、ただ春雨の煙る東山と、料亭の傍らを流れる鴨川の河原の風景などを述べている。
 詩文を通釈すると『靄(もや)が濃く立ちこめて東山の山々が淡彩に見え、一方河原の砂利が夕陽に映えて、そのコントラストが美しい。やがて日が暮れかかると細かな春雨が風に流れて、料亭から見える東山三十六峰の寺々は更にぼんやりと霞んで(かすんで)しまい、やがてその寺々で撞く入相(夕暮れ)の鐘が、霞んで見える花の間からゆったりと聞こえてくる』というもの。
 
〈構成振付のポイント〉
 古い京都の地図によると鴨川の河原は大変広く、現在河原町と呼ばれている辺りは文字通り河原で、特に四條を中心にこの河原では、田楽や猿楽、江戸時代になると有名な「阿国かぶき」が興行され、これらがやがて歌舞伎芝居へと発展した。一方ではこの広大な河原は埋め立てられて、そこに料亭などが作られたが、明治中頃までは鴨川の両岸にお茶屋(料亭)の床が作られ納涼の場となった。
 ところで三本木の酒亭は、都名所図会に見られる三條大橋の東結め辺りと思われるが、広い河原が眺められ、川魚料理や生洲(いけす)(図解参照)の料亭などが店を並べていた。一方目を転ずれば、大文字山から稲荷山の辺りまで、いわゆる東山三十六峰の峰々が入り組んで、その山裾には、南禅寺・長楽寺・知恩院・高台寺・清水寺・清閑寺・妙法院・東福寺など無数の寺々が望まれて、季節が春ともなれば寺々の境内には満開の桜が雲海の如くに眺められた。
 
「都名所図会」
上から三條大橋、生洲料亭、東山長楽寺
 
 
 
 さてこうした情況で作られた詩を、具体的に舞踊構成するポイントは幾通りもあろうが、次にその一例として演技者を作者(50代男性)の風格にして、詩文中心の情景描写を考えてみよう。前奏から起句は、東山を仰ぎながら登場、霞んだ山容を眺め、目を転じて河原の賑い、川の流れや砂洲の美しさを素手又は扇を活用して舞う。承句は、山裾特有の風雨の描写と、これを受けて扇を笠に見立てて料亭に走り込む。転句は座して酒を酌み(くみ)交わし、筆を取って詩作の雰囲気を見せるが、考えあぐねたところで入相の鐘を聞く。結句は遠近の鐘の音に誘われて(さそわれて)立ち上がり、窓の外を眺めると、風に吹かれた花びらが部屋に入って来る。退場は自然体でよい。
 また演者が女性で、作中人物も女性に置替える場合は、例えば承句の笠は傘に見立てたり、転句の酒席の気分は多少変えた方がよい。
 
〈衣装・持ち道具〉
 酒亭という前提だから堅苦しくない色や柄の着付と調和のとれた袴を選ぶ。演者に似合う事も大切だが、季節が春であることから、淡いグレー、ブルー、グリーン系などが良い。扇は霞模様などが無難である。







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