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連載 ゆれるアジアの町並み保存・その(4)
宇高 雄志
マレーシア科学大学研究員、広島大学建築学科助手
 
 マレーシア。イスラームを国教にすえる多民族社会。マハティール首相の牽引する開発政策。その政治体系を「ソフトな権威主義」と評される、政治的リーダーシップ。アノワー・イブラヒム元副首相が投獄された「事件」も市民の記憶にも今だ生々しい。この国には、治安争乱などに対して予備的に収監できる「国内治安維持法」がある。このことについては、特に西側の人権団体や国内でも強い反対意見が出ていた。過去も、野党支持者や研究者が、治安を乱すとの理由で収監されてきたからだ。
 
マレーシア―イスラーム世界の優等生
 しかし、アメリカ同時多発テロ以降、人権団体を含め、だれもその存在を否定する人はいない。むしろ、この狂おしいほどのテロと暴力の溢れる中、国民は一般にマレーシアの治安が、維持できていることに、感謝さえしている。バリでのテロ組織との関係が疑われた市民も、いち早く、この社会から除去できた。「中立的なイスラーム国家」「イスラーム世界の優等生」。これがマレーシアヘの評価。頻発する近隣国家での暴力や殺戮を横目に、マレーシアに生まれて本当によかった、と。
 イスラームの社会的価値を中心に据えつつ、実質的な経済開発と国民生活の向上を進めてきた。石油産油国をのぞき、マレーシアのGNP(国民総生産)は、イスラーム諸国の中でもトップレベル。日々建設の進む高速道路。そこを走るバラエティーに富んだ、国産車、プロトン。首都には世界で一番背の高いツインタワーもある。遷都もあっという間に成し遂げた。また巨大で近代的な国際空港。
 マレーシアに到着した旅人は「どこが発展途上国か」とつぶやくだろう。また、イスラームに身構えて到着した人は、穏やかで愛らしい、マレー系=イスラーム教徒のひとびとと接して、気持ちがゆるむだろう。またマレーシアは多民族社会。中国系、マレー系、インド系。様々な文化、言語、宗教が混じりあい共存する。独立期の混乱をのぞき目立った民族間の衝突はない。世界の、いや同じアジアでも頻発するような苛烈な民族間の暴力や差別もない。
 イスラーム教徒の友人はこう言う。「空腹は怒りを。満腹は平穏を」。豊かさはすべての民にふりそそぐ。穏やかさと寛容、そして豊かさ。それが、私たちをつつむマレーシアのイスラーム。
 こうして国家開発が進む一方、いまマレーシアでは、2つの都市を世界遺産に登録させようと準備が始まっている。都市遺産の保存を通じて、世界に、また次の世代に伝えたいメッセージは、マレーシアの「民族の共存」。宗教間の寛容。それを世界に伝えること。イスラームと世界との、衝突は回避可能であること。マレーシアでの世界遺産登録準備作業はその意味でも世界からあついまなざしをもって見守られている。
 
発展の道しるべ:ペトロナスツインタワー
 
町並み保存の「語り」と選ばれる文化
 町並み保存にも、マレーシアの多民族社会、また政治情勢が非常にクリアに反映する。マレーシアの古物保存法は、この国の政策的な、文化や宗教のあつかいをよくあらわしている。特にモスクや、コロニアル建物をモニュメントとして既に指定している。修復予算も着実に伸びており、イスラームを表徴する、注目するべきモスクは外国人エキスパートの手を借りることなく、比較的に高い水準で修理修復が行われている。
 一方、世界遺産の登録準備作業では、ユネスコに指定範囲の核心地区(コア地区)と緩衝領域(バッファ地区)を「線引き」を示す必要がある。しかしこの線引き行為は難しい。線引きを通じて、文化や遺産を選別せねばいけないからだ。マラッカには、世界遺産のコアとなる中心市街地以外にも、ユーラシアン(アジア人とヨーロッパ人の混血)など、マイノリティーのコミュニティーの居住地が存在する。一方、市街地のほとんどは中国系が占めている。予算的側面や、政治的判断を含めて、そのすべてを保存地区に指定することはもちろん不可能だ。
 世界遺産登録では、いわゆる保存に向けたストーリーラインが重要である。遺産の保存を通じてマレーシアの文化の総体を語るのである。マラッカとペナンの場合は、世界遺産の登録を通じて「多様な文化で構成される社会、建造物、歴史のユニークさ」をアピールすることを目指している。
 しかし、そこで語られる多様さとはいったいなにか。また語られるべき文化や歴史とはなにか。世界遺産の登録範囲として規定される範囲=選ばれた遺産と、範囲外の遺産の間には、文化の差別化が生じる。単一の民族文化や、植民地支配を賞賛するように、コロニアル建物だけを取り上げるわけにはいかない。何を、なぜ残すのかが課題となる。また皮肉な事に、独立期の民族統一のドラマ=正史が、そこでの語りにはなかなか見えてこない。
 そもそも、今回の世界遺産登録は、500kmも離れた元・海峡植民地のマラッカとペナン両都市の同時登録が、エキスパートのアドバイスを通じて目指されている。そのアプローチをとっても、なぜもう一つの海峡植民地シンガポールが抜けているのか。そして、なぜ英領の植民地の支配体系=海峡植民地が、多民族社会のユニークさを語る源泉になっているのか。ここにきて、当地で忘れ去られて久しいコロニアリズムへの問いかけが再びおこりつつある。
 
ポリティクス―マラッカとペナン世界都市遺産を日指して
 海峡植民地では結びつけられる両都市も、優位政党および民族構成が異なり、保存に対する政治的受け止めが異なる。しばしば「チャイニーズ・ステート」と評され、華人政党のゲラカンが優勢なペナンと、比較的に連邦政府に近く政府与党が州政権をにぎるマラッカでは世界遺産に対するまなざしも異なる。また、歴史的市街地にシンガポールからの観光客を大量に受け入れるマラッカと、リゾート地以外のもう一つの観光地として中心市街地をみるペナンとでは、経済界の受け止めも異なる。
 中心市街地は中国系の人口が優勢だ。そのため、しばしば、町並み保存はその人口分布から「チャイニーズ・マター」として括られる。保存地区が野党優勢地区であれば、なおのことである。
 マレーシアの歴史的市街地の保全は、市民運動の成果として捉えられてきた。マレーシアのこれまでの町並み保存は、西欧社会におけるトラストの活動概念に影響を受けながら、地道なNGOの啓蒙活動や、絶妙なメディア戦略によって一定の市民権を得てきたといえる。しかし、そこでのトラストのかつ同戦略である、メディア戦略にたけロビイングする、圧力団体としての性格を、他の多くのアジア諸国と同様に、マレーシア社会はあつかいかねているようにもみえる。
 
コミュニティーとは誰のことか?
 歴史的町並みの保全において、コミュニティーは何より大切である。コミュニティーが力を持ち、そしてイニシアティブをとって、自らの歴史をまもり、そして共存する。マレーシアでも、多くのアクションが取られてきた。たとえば複数の都市でNGO団体のヘリテージトラストが設立された。そこでは、ミドルクラスの、英語を話す、高等教育を受けた、メディアに力のある、メンバーが市民の「啓蒙」を続けてきた。世界遺産登録に向けた世論の高まりも、かれらの取り組みの成果といってよい。
 しかしショップハウスにテナントとして暮らす、普通の市民は「コミュニティー」の一員として捉えられているのだろうか。残念ながら、市井の暮らしでは、彼らの住まう建物の美観や、まして保存など気にかける金銭的時間的な余裕はない。かろうじてその動きを察知した、少数の彼らは、かわいそうに、町並み保存事業の実施に伴う「補償金」の額をひたすら気にしている。
 近年、「市民参加のワークショップ」がたびたび開かれる。そこでの、留学帰りのコーディネーターの流暢な英語と進行の巧みさには、いつも感心させられる。しかし福建語やタミル語をのみを日ごろ愛する参加者に、何がどう伝わるのだろうか。コミュニティーとはいったい誰のことか。
 
老朽化し崩壊寸前の「歴史的」なショップハウス
 
世界遺産へむかって
−ストーリーをつむぐ。歴史をつなぐ
 昨年2002年にペナンで開催されたNGO(ペナンヘリテージトラスト)主催の国際会議「ペナン・ストーリー」は、外国人出席者も多く、盛大にとり行われた。世界から集まったインテリの語るペナンの歴史の深さに、もちろんペナン人はあらたな「発見」をすることになった。しかし、その語りにあらわれる、史実の断片は町並みや遺産と日々向き合って生きる(生きねばならない)「コミュニティー」への、これまでも幾多に繰り返されてきた、もう一つの投げかけにすぎなかった。
 我々は、町並み保存を通じて、手に余る、この多様さと今後どのようにむかい合えばいいのか。世界遺産で語るべき「文化的多様性と民族共存」へのパースペクティブは日々の暮らしの中で、どのように「描かれる」のだろうか。
 
華人廟−国家の民族の家族の歴史をうつしだす
 
 「ペナン・ストーリー」のフェアウエルパーティーは、市街地の同祖廟で、州首脳を招いて盛大に行われた。前庭の特設会場ではワインや料理がふるまわれた。しかし、その一見、きらびやかな宴は、多くの警官たちによって囲まれ、そしてまもられていた。
 ペナンやマラッカでは、いま、町並み保存について、市民のみならず、外国デベロッパーや投機家たちの熱い視線が注がれている。モスクの保存と敷地の再開発、コロニアル建物の保存と孫文博物館の開館、リトルインディアの観光開発と街路整備、廟コミュニティー地区の観光開発。そして最近ではシンガポール人所有者の歴史建物の無断解体。センシティブな話題には枚挙にいとまがない。
 いまや、アジアの町並み保存には、我が国で云う、地上げも絡む場合もある。マスコミもにぎやかだ。なぜだか存在の確認できない日本人「研究者」が新聞の論壇に登場し、国の保存政策を正面切って批判する。建物所有者や購入者が名指しで攻撃され、さらされる。案件のいくつかは、すでに機関のモニタのもとにあるともきく。そこには、しばしば、非力な筆者のでる幕さえない。その詳細の記述は、しかるべき時をまちたい。
 それでも、マレーシアの町並みの風景は、どこまでものびやかで美しい。いましばらく町並み保存を通じて、その空間の豊かさと、そして緊張の中に身をただよわせたいと思う。(会員)
 
―― 本文は、拙稿「世界遺産登録をめざすマレーシア:遺産はなにを「語る」のか?」(Japan Association of Malaysian Studies: 2002)を再編したものです。
 
報告書
平戸の町並み
−オランダ商館復元と合わせた町の活性化をめざして
 長崎県北部に位置し、周囲を海に囲まれた海路の要衝として発展した平戸市は、17世紀前半にはわが国はじめてのオランダ商館が置かれ、現在でも城下町の骨格を保ちながら武家屋敷、旧領主の松浦氏ゆかりの建築群、寺院や協会、町家群などが数多く残っています。
 本調査は、平成14年度の観光資源保護調査のひとつとして実施され、オランダ商館復元のみならず、これまでの建物調査の成果をまとめるとともに、町並みの保存活用に向けて提案したもの。
▼A4判110頁
▼頒布2000円+送料210円(会員1800円)
▼当財団事務局までお申込みください。
 
イベント
世界遺産への道
ながさきの教会群 東京展
 日本の西端に位置する長崎県内に残る自然景観と調和した独特な建築様式を持ち、素朴な庶民の生活・信仰とともに民衆の手作りで生まれた教会群の展示会・講演会が東京で開催されます。
□展示会
◆場所 NHKスタジオパークギャラリー(渋谷区神南)
▽日時 11月10(月)〜24日(月・祝)
▽時間10時〜18時(最終日は16時まで)
◆場所 カトリック麺町イグナチオ教会ヨセフホール(千代田区麺町)
▽日時 11月25(火)〜29日(土)
▽時間9時〜20時(最終日は16時まで)
□東京展講演会
◆場所 カトリック麺町イグナチオ教会ヨセフホール
▽日時 11月26日(水)
▽時間 18時〜20時
 
イベント
長浜鉄道文化館で星 晃写真展を開催
 星 晃氏は旧国鉄の副技師長として我が国を代表する151系こだま形電車をはじめ、多くの旅客車の設計を手掛けられました。
 今回、当財団が長浜で2棟目のヘリテイジセンター「北陸線電化記念館」を開館するにあたり、同氏が趣味活動の一部として記録に残したいと撮影した鉄道写真の中から北陸線を中心とした作品を「あの頃の北陸線を偲ぶ」と題し、写真展を企画しました。北陸線で日本最初の交流電化が始まった頃から、やがて杉津まわりの旧線が廃止され、北陸トンネル経由の新線が開通した頃の貴重な写真ばかりです。ぜひ、ご覧下さい。
▼入館料大人300円、小中学生100円 訪問される方は、事前に事務局まで。招待券を送ります。
 
●ご支援ありがとうございます●
新入会(6月1日〜30日)
個人会員
<東京都>田島 さか恵、大本 眞理子
鈴木 陽子、横山 隆介
<埼玉県>小林 信啓
<愛知県>清水 公人、
新井 輝久・難波ゆかり・美月
<大阪府>藤村 幸雄・武子
永久会員
<愛知県>西尾 栄一
 
寄付者(6月1日〜30日)
〔一般寄付〕
◎100,000円 株式会社 東横イン
◎10,000円 橋本 良男
◎5,000円 故 南 百城、松尾 庸介
〔トラストトレイン募金〕
◎7,000円 6/25運転日絵葉書募金
◎6,000円 小島 洋
◎4,200円 6/25運転日キーホルダー募金
◎4,070円 6/25運転日車内募金
◎3,000円 佐藤 良之
〔民家庭園募金〕
◎30,000円 蓮池 廣一
◎2,100円 駒井邸募金箱
           <敬称略>
 
●トラストトレイン運休のお知らせ●
 去る8月16・17日及び27日に大井川鉄道神尾駅構内で発生した大規模な土砂災害のため、現在トラストトレインの運転を運休しております。今年中の復旧は難しい状況とのことですので、運転再開が決まり次第、ご案内します。
 
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