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再見!フンドシ 夏本奇伯愛雅(シャフン・ジヘアイヤ)
一、土地を返せ
 国民党政府が蘭嶼を統治する以前、ヤミ族の土地が異民族によって破壊され占有されるということは根本的にはなかったことである。
 本来、ヤミ族は何の問題もなく自由に荒れ地を開墾し、輪作し、肥料を集めるという自分たち独自の土地管理システムを持っていた。ところが、在郷軍人会(中国語−退輔会)の退役兵達は、農場を造る目的で、村の共有地を三十数年の長きにわたって占有した。それらの本当の主人であるはずのヤミ族が、自分たちの土地を開墾する権利を奪われてしまったのである。奪われた村人は、山の傾斜地を耕作しなければならなくなった。しかし、山の傾斜地では耕作の輪作ができなかった。一年で耕地が崩れ落ちたのである。人々の生活は、日一日と苦しくなってきた。
 しかし、現在では、農場の経営者達は蘭嶼を離れ、農耕地はヤミ族に返還された。ヤミ族は自らの農作地を自由に使えるようになった。ところが、一体どのぐらいの土地が返還されたかは不明であるし、その土地を今後どう利用していくかも未定である。
 私は、政府がヤミ族の生計を第一に考えて、一日も早く全面返還することを願っている。そして、ヤミ族の人々の手でその土地を十二分に活用してもらいたいと願っている。その土地を農地以外の公共施設に転用するなどということはもってのほかである。もし、そうなれば、ヤミ族は断固抗議するだろう。
 「土地を返せ」、これが我々ヤミ族の最大の願いなのである。
 
二、「老人の魚」が消える
 無文字社会の生活はその文化の持つ規範に強く制限される。その制限の故に、多くの少数民族は文明の進歩から取り残されるのだ。ヤミ族もその一つである。
 ヤミ族は漁業を営む民族である。生活上のさまざまな規制はみな漁業にかかわるものである。海中の魚類、岩場のカニ類、海草、それぞれに食べ方が違う。ヤミ族は海中の生物の食べ方と分類について明確な区分がある。たとえば、「老人の魚」という分類がある。この種類の魚は本来、老人だけが食用を許された魚なのであるが、今、そうした規範が消えようとしている。
 ヤミ族は調理する時に他の調味料を使わず、魚を真水と海水で炊くので、どうしても魚のもとの味や匂いが残る。ヤミ族は魚の匂いにより、「老人の魚」、「悪い魚(男性しか食べられない魚 raet a among(ラウット ア アムン))」、「本当の魚(男女ともに食べられる魚 oyod a among」、「少年の魚」等に魚類を分類している。また、魚の肉の質による分類もある。
 「老人の魚」は年を取った人だけが食べる権利を持っている。六〇歳以上の人(祖父になった者及び祖父年令になった者)だけが原則的には食べることを許されている。しかし、食べたくないという人は食べなくてもよい。また、父親がいない若者ならば、食べてもよい「老人の魚」もある。これを「kakanen no minusboang(カカヌン ノ ミヌスボアン)」と呼び、「父親がいない男性が食べられる魚類である」ことを意味する。
 普通の「老人の魚」は、若い世代が食べる魚と一緒に煮炊きしてもよい。木皿、碗といった食器についても同じことである、ただ「acod(アコッル)」という「老人の魚」だけは厳密に取り扱われている。老人はこの魚を炊く時に、必ず、人がいない所で煮炊きしなければならない。例えば、涼台の下あるいは作業小屋などである。碗・木皿・タロイモの葉といった食器についても同じように規制がある。そもそも家族と一緒に同じ所で食事を取ることができない。本人は自ら手を出して木皿にあるタロイモ、サツマイモを取ることができなく、妻に取ってもらう。食事が済んでから、使われた食器は一定の所に置かなければならず、他人が決して使ってはならない。アコッルについての種々の規制は、若者にとっては一つの禁忌であり、絶対に違反してはならないことである。
 「老人魚」におけるこの規制は、今でも守られている。ヤミ族の文化を理解することができない人は、ヤミ族は、美味しくない魚を老人に食べさせている。これは親不孝な習慣だと誤解するが、事実は、そうではない。
 今、このような習慣は徐々に消失している。これは科学技術の進歩、食料の改善の影響と関連しているかもしれない。ヤミ族の若者は少しずつ伝統文化を改革しはじめている。「老人の魚」を食べる若者も現れはじめた。勿論、昔から父親がいない若者は亡くなった父の代りに「老人の魚」を食べていた。それ故、若者たちは「老人の魚」の規制が不合理で現代社会には無意味な習慣だと考え始めたのである。若い世代には、「老人の魚」という分類はもう必要なくなったのである。
 もっとも、この規制を守ろうとする若者達もいる。食欲のために伝統文化を破壊せず、伝統的な教育を維持し、家庭生活規範を忠実に守ろうとする者は、けっして皆無というのではない。しかし、少数派である。
 元来、魚を「老人の魚」、「少年の魚」、「悪い魚(raet a among)」、「本当の魚(oyod a among)」、「妊婦の魚」等と区分する必要はないはずである。このような文化規範は家庭を持っていない若者たちをわなにかけた。結局、親子の間に隔壁が生じた。これらの若者は家には老人がいるかどうかを問わず、本来食べてはならない「老人の魚」類を食べるようになってきた。親がこのことを見たら、子供に「貴方は親より年上ですか?どうして若者が食べてはならない「老人の魚」を食べたか。」と叱る。こうなれば、親が子供に対して不満を持ち、ゆくゆくは不愉快な気持ちが生じていく。親と子供との間の絆が段々と疎遠になってしまう。
 
中央に座る人物が筆者(夏本奇伯愛雅)
一八年前に撮影(皆川隆一撮影)
 
 一つの民族の文化は、自然環境の変化及び人工的作為によって、変容するものである。
 今、ヤミ族における文化規制は文明の導入及び環境の変化に伴って、段々と消失しつつある。
 ようするに、人類の文化は盆栽の中にある樹と同じである。一盆栽は切ることで人の観賞が得られる。五年に一度と一〇年に一度枝を切ることで形を変え、存在していく。文化はこのように時代にしたがって変化するのである。若者が「老人の魚」を食べることに反対するのは時代の変化に伴って生じる必然的な変容であると思う。しかし父母がまだ生きている間は、伝統的な規則に従い、不可食な魚を食べるべきではない。両親を傷つけることになるからである。年を取った人は子が「老人の魚」を食べているのを見たら、心の中できっと悲しい思いをするだろう。親は大きなショックを受ける。親が自ら「子供に十数年教えたことがむだになったか?また、私たちは親として一体何の役に立ったのであろうか」と問う。若者はどうして年取った人にこのような苦しみを味わわせるのか。どうして彼らに良い晩年を過ごさせないのか。若者はゆくゆく老人の魚を食べる機会を持つのに、どうして急いでこの時点で食べなければならないのか。ヤミ族の若者である私たちは、自らの手で祖先が創り上げた文化を破壊する罪人になるのだろうか。私たちはヤミ族の文化を保存する責任を持っている。皆お互いに文化を守っていけば、昔の人々の期待に背くことなく、素晴しいヤミ族の文化を保持していくことができるだろう。
 
三、再見、フンドシ
 フンドシはもともとわがヤミ族の特別なもので、男性専用のものである。これはヤミ族の男性の生活にとって大切なものである。特に、儀式を行う時に、フンドシはその優れた点が現われ、人に違う見方を持たせる。
 一〇才の頃、母は私のフンドシを用意してくれた。フンドシが織り上がると、吉日を選んで、はじめて身に付けるのである。母に手伝ってもらって身につけたその日のことはよく覚えている。その時、まだ小さいから恥ずかしいと思わなかった。フンドシをつけた時、母は私に「顔を太陽に出る方向に向けて」と言った。「どうして」と私は母に聞いた。母は「これは吉祥を象徴し、貴方はフンドシをつけたら最後、永遠に外すことはできない。」と言った。この話を聞いてから、私はうなづいて承知した。その日、両親は私のために小さな儀式を行った。儀式にタロイモと豚肉を用意した。儀式を行った時に、両親は豚肉を取って「阿那恩(私の別名である)はこのフンドシをつけて、ずっと年取るまで使う。また、元気な体になるように。」と祝いの呪文をかけてくれた。祝いの儀式を行う日は一日仕事をしてはいけなかった。一日中家で過ごす。これは折角の吉日が逃げないようにするためである。
 フンドシをつけた当日、同じ年の男の子はずっと私のそばにいた。彼らは私のフンドシに注目した。特に女の子は珍しくて、私の後を付いて回った。その時、私も自然と怪しい気持ちになり、いつもとは違う感覚を味わった。これが自分の人生の初舞台だなと思ったのである。今まで経験したことのない恐怖感と緊張感が心の中に湧いてきた。このような感じを両親には知らせなかった。しかし、後で聞くと、両親にも同じような体験があったという。
 ある日、陽射しが強い昼に、同じ年に友達と一緒に海辺へ泳ぎに行った。私はフンドシをつけたままに海に飛び込んだ。陸にあがって来た時に、ある友達は私に「ハッ、ハッ、ハッ、あんたはフンドシを脱がなかった」と笑った。他の連中もどっと笑った。私は笑声で恥かしくなり、どうすればいいかわからなくなった。それから、彼らはまた泳ぎに行き、私も後について行った。ある子が海中で私のフンドシを引っぱった。体のバランスを失って海中に転がった。フンドシは苧麻で作ったものであるから、水中につけると伸縮力が強くなる。体につけたフンドシはきつくなって、家に帰ってからすぐに濡れたフンドシを脱いで、文明的なズボンにはき換えた。
 ある日曜日、友達と一緒に魚を釣りにでかけた時、私はいつものフンドシをつけたまま行った。フンドシをつけたらとても快適で、また、体が軽くなったと感じた。年寄りはフンドシをつけた私を見て、別に怪しいこととは見なかった。ということは、彼らは、私が青少年時期に入ったことがわかっていたのである。日が経つと、今まで私のそばについて来た男の子は私がフンドシをつけることに見慣れて段々と私から離れていった。
 一七、八歳になった年に、母は私に成長した印に三本の青色線が入ったフンドシを作ってくれた。この時期になると、私がフンドシをつけていることをだれも怪しいと思わなかった。ただしフンドシについた線の本数を注意した人は何人かいた。三本の線の模様がついたフンドシは男性が第二の成長段階に入った目印であった。彼らは私がつけたフンドシを見て、私が青年になったことがわかった。そのあとの数年の間に、母は私のために数本のフンドシを作ってくれた。同時に、一般の布でフンドシを作ってくれたが、こちらには模様は付いてなかった。これは働く時或いは漁撈を行う時に使う。援助物資の衣服は沢山あったが、仕事の便利及び習慣から、毎日やはりフンドシをつけた。冬の寒い日は文明的な衣服を着る。これ以外は殆どフンドシをつけていた。一八才から二〇才すぎまでの間は、体格が成長する時期であるので、フンドシの幅と丈は次第に大きくなった。山地青年奉仕団における祝いのパーティに参加する場合は、毎回、必ずまずフンドシをつけて、その上に文明的なズボンを穿いた。家へ帰ると、また、文明的なズボンを脱いで、フンドシ一枚だけで山の仕事に出掛けたり、漁労に行った。フンドシはつねに身に着けていた。
 結婚して子供が生まれてから、ヤミ族に関する祝い、儀式に参加する時はフンドシを必ず穿いた。例えば、トビウオ祭りの日には、どんなに寒い天気でも、私は文明的なズボンを穿いたことがない。
 トビウオ招きの際のフンドシの思い出である。石を持ってにわとりの血をつける行事の時であった。あやまってにわとりの血が私のフンドシについた。父はこれを見て、「これは石についたにわとりの血か」と私に聞いた。「はい、そうです」と私は答えた。父は「そのフンドシを脱ぎなさい。祭の時には、不吉な運命を招かないように、このフンドシはけっしてつけないように」と言った。私はすぐにそのフンドシを脱いて、新しいフンドシをつけた。そして、私は、これに関する意味を知りたいために、父に「石についたにわとりの血がすこしフンドシについただけで、別にどって事はないでしょう」と聞いた。父は真剣に「トビウオを招くためのにわとりの血はただの血ではなく、福を招いたり運勢をあがなう聖なる供物なのだ。もし、この血が体についたら、予想ができない災難に出会ったり、ひどい場合は長く生きられない悪運に陥ったりする」と話してくれた。
 家の新築や、舟の進水の儀式、作業室、涼台における完成祝いには、親戚の者達も必ずこの美しいフンドシを締めて参加する。ヤミ文化の中で最も情趣豊かな習俗である。
 家に現代的な石けんがなかった頃の思い出である。母は石灰でフンドシを洗った。祝いの儀式に参加する毎に、フンドシについていた石灰が腰と足のももの所についていた。まわりの人々に大笑いされた。自分も恥しいと感じた。今は石けんがあり、人々に大笑いされることも、恥しいこともなくなってしまった。
 当時、フンドシは二種に区分されていた。一つのは上記のように儀式・祭りを行う時に用られるものである。もう一つは普段の仕事あるいは漁撈時に使うものである。この時に使うフンドシは布で作る、つけると比較的便利であるが、長期間使うと破れやすく、また切れやすくなる。ある日、海上で舟漕ぎ競争を行った時、全力で漕ぐあまり、つけたフンドシがやぶれたので、また結びつけて用いた。まわりの人々は大笑いした。夏になると、全身に汗が一杯出るのでフンドシは破れやすくなり、少し力を入れると、その上にまた汗がつき、フンドシはさらに破れやすくなった。
 
フンドシ姿の村人
(皆川隆一撮影)
 
 私は就職してから、フンドシを穿かなくなった。その理由は大したことではない。簡単に言うと、フンドシを身につけ、さらにその上に、現代風のズボンを穿くと、両者は体の上でうまくフィットしない感じがして耐えられなかったのである。ズボンが丁度フンドシのおびの所に当り、腰に何かが入っているように、変な異和感があった。それから、しだいに、フンドシをつけないで、パンツを穿くようになったのである。
 ある日、突然見知らぬ観光客が私の仕事場に入ってきて、私に、「貴方はフンドシをつけているか」と尋ねてきた。「あるよ、つけないわけがないよ」と私が言った。彼はまた「ヤミ族の若者たちは殆どフンドシをつけなくなったという話を聞いた。それは本当のことか。」と聞いてきた。私は「その話は本当だ。その理由は、彼らの仕事上に便利だからだ。」と、まじめに答えた。自分がフンドシをつけないのは、そのためだったからである。また、妻にはフンドシ用の織物をする時間もなかったのである。そうこうする中、私は、次第に、フンドシのことを忘れていっていた。しかし、心の中ではフンドシの美しさを忘れてはいない。けっして忘れるつもりはない。従って、「さよなら(再見)、フンドシ」と言い出したが、これはいつかまたフンドシにお目に掛りたいという意味の「さよなら(再見)」である。
・・・〈蘭嶼住民〉
 
原典−原住民民族誌 3 雅美族的古謠與文化(ヤミ族の古謠と文化)第三章文化的変遷より抜粋
作者−Siyapenn jipeaya 周宗經
出版社−常民文化出版社 一九九六年九月
翻譯者−徐韶
補訂−皆川隆一







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