三、タロイモ水田と灌漑用水
多くの水田を維持するには灌漑用水が不可欠である。口碑伝承によれば、ヤミ族の人々は、四五〇年前頃から大規模な灌漑用水の築造に乗り出し、焼畑耕作への依存を低下させ、タロイモの水田耕作を生活の中心に据えるようになっていった。
sawaranと呼ばれる灌漑用水は、谷間を流れる渓流から取水し((1))、岩肌を削り、石垣を組んで造成され、長いものは一〇〇〇メートル以上にも及んでいる((2)(3))。紅頭村(Imorod)と漁人村(Iratay)の境を流れる川のJirako ayo(ジラコ アヨ)の場合、両岸のそれぞれに七、八本の灌漑用水が造成されていた。
この頃、蘭嶼のヤミ族にあっては、鉄の入手はバタン諸島との贈与交易と島に漂着した難破船からの略奪に限られ、灌漑用水の築造は主に石斧や木製の掘り棒を使って行われ、また焼畑農耕の合間をぬって作業が進められる為、父系親族集団を単位に数十人がかりで数世代を要したようである。
他方、川の周辺の平坦地が限られているので、水田は海岸の手前に開けた谷口に形成された扇状地の扇央(中央部)に主に造成されている((4)(5))。初めてこれを見た時、筆者は唖然としたことを覚えている。扇状地は、山間の渓流が平坦地に出る谷口にあって、流速が急激に低下するため砂礫が扇状に堆積して形成される。砂礫層は透水性が高いので、とりわけ扇央では水の多くが地中に潜って伏流となり、表面の川の水は乏しく「水無川」などとも呼ばれる。水漏れが甚だしいので一般に水田は造成できず、甲府盆地に見られるように乾燥に強い果樹や桑などの栽培にあてられる。
ところがヤミ族の人々は、水田の底部にsanosena tana(サノスン ア タナ)と呼ばれる黄白色の粘土質の土を入れて水漏れを抑え、また五〜一〇年すると行われる田起こしの際に、上の土をmavaeng a tana(マヴァウン)と呼ばれる肥沃な黒土で入れ替えて地力の回復をはかっている。このように他の場所の土を農地に移して耕作する工夫は沖縄にも見られ、「客土」と呼ばれている。沖縄では、かつて珊瑚礁であった石灰岩質の土地を畑にして作物を栽培するため客土を入れるのであるが、蘭嶼でも類似した営みが見られ、その由来はいまだ不明だが興味深い。
また、ヤミ族が民族的に深いつながりを持つバタン諸島では、地形上の制約もあって水田耕作は発達せず、ヤムイモ、タロイモ、サツマイモ、粟などの畑作が行われているが、ヤミ族の灌漑・水田築造の技術がいかなる由来をもつのかも究明が待たれる。
ここで蘭嶼における焼畑耕作と水田耕作を比較してみると、草原の焼畑は火入れ・造成は簡単だが、燃え残っている草の根を除去しながら進める開墾作業は手間がかかり、作物の植え付け後にたびたび雑草取りをしなければならない。熱帯地方では雑草の繁殖力が強く、その根も深く張っているので、雑草取りはたいへん労苦を要する作業で、その焼畑は地力が低下する前に雑草が除去しきれなくなって放棄され、新たな焼畑を造成することが多い(佐々木高明 一九六一)。
これに対して水田耕作は、灌漑用水と水田造成は大事業だが、その後は五〜一〇年ごとの田起こしに手間がかかるが、タロイモの植え付け・収穫作業、そしてなにより雑草がすぐ抜け、回数も少なく済むので雑草取りが楽である。灌漑・水田耕作は、単位面積当たりの収穫量が安定し優れているだけでなく、日常の農作業も楽なので父系親族集団の結束のもとで発達したようである。
(4)海岸の手前に開けたタロイモ水田
(5)扇状地の扇央に造成された水田
この灌漑用水の所有は、父系親族集団が分裂する際に細分化されてきたが、直系の系譜を継ぐ有力な親族集団は多くの用水を持ち、その後に枝分かれした新興の親族集団は少く、それに対応して個人所有の水田も有力親族集団に所属する者が多くを所有してきた。
ところが口碑伝承によれば約一五〇年前、蘭嶼に空前の飢饉(abcil)が襲い、有力な父系親族集団の多くが滅亡ないしは衰退してしまった。蘭嶼の水田は主に扇状地の扇央に造成されているので、いかに工夫しても水漏れを完全には防げず、年間を通し三〇〇〇ミリ以上の多雨による豊富な水の供給に支えられており、旱魃に対して脆弱である。有力親族集団は水田のタロイモ栽培の依存度が高く、干上がった水田から食糧が得られずに餓死を招き、これに対して新興・弱小親族集団は旱魃にも対応できる畑作に依存していたので生き残り、その後に弱体化した有力親族集団の水田を奪っていった。
現在は、商店で米を買ったほうが楽なので若者がほとんど農耕に従事せず、水田の多くが半ば放棄され、高齢者の手で細々とタロイモ耕作が維持されている。
・・・〈法政大学〉
[参考文献]
奥田或、岡田謙、野村陽一郎「紅頭嶼ヤミ族の農業」『大南洋文化と農業』太平洋協会編 河出書房 1941年
佐々木高明「焼畑におけるイモ栽培についての覚書」『人文』(京都大学教養部)第7集1961年
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