四、国分直一[一九〇八− ]
考古学者の国分直一も昭和九年頃から紅頭嶼調査を始め、戦後も自然人類学の金関丈夫(一八九七−一九九三)らと中国政府に留用され、一九四七年七月、ともに蘭嶼を調査した。ヤユ村には海中に突き出したイガンという特徴的な三角形をした岩山がある。その絶壁の中腹をはるかに見やると、人骨が散乱しているのが見えた。ふつうの埋葬法とは違うのでよく聞いてみると、家族のない独り者は、死ぬときまると、生きているうちにイガンに捨てられる。こうしたアニトはもっとも邪悪なので、死体に触ることもできないからだ。ある日、金関丈夫、国分直一ともう一人、台湾大学の崔教授の三人で、毛布、綱、新聞紙を用紙し、道もないイガンをよじ登り、散乱している人骨を三人で拾い集め、苦心惨憺しながら下に降ろし、やっとのことで平地に降りて、人間の背丈よりも高い雑草をかき分けながらヤユ村近くまで来てふと目を上げると、全村の男という男がみな武装して、三人の前に立ちはだかっていた。折からの夕日に槍の穂先がきらきらと輝き、殺気をたたえた無数の凶暴な目が光っている。白いシャツを着ていたので、三人の山上での作業は、村からも手にとるように見えていたのだ。ヤユ村に入るどころではない。ほうほうのていで退散するしかなかったという。(金関丈夫『槍ぶすまに囲まれた話し」『南方文化誌』法政大学出版局一九七七年)
左が国分直一氏
国分直一は、その後もしばしば蘭嶼を訪ねている。ヤミについてのまとまった学術報告は少ないものの『太陽』四号(一九六三)に発表された「海の高砂族−バシー海峡の孤島 紅頭嶼」は、三木淳のすぐれた写真とあいまって、貴重な資料である。「トビウオよ!われわれの家族が、いつまでも繁栄するようにしてくれ」「人の悪口はいってはならぬ。いえば、トビウオがとれなくなる」「トビウオはまだ来ない。タブーを破って海にもぐる若者たち」「結婚したいが、女の子が足りない」「人には、たましいがあって、死ぬと天に上るという。ほんとうだろうか」など、見開きページにつけられたキャプションは、戦前・戦後のヤミ族の文化で、変化した部分と変わらずに残った文化とを、たくみに伝えている
五、その他の研究者たち
一九二九年、植物学の瀬川孝吉(一九〇六−一九九八)が紅頭嶼の港で移川・宮本・馬淵・鹿野らの一行とすれ違ったことはすでにふれた。瀬川による紅頭嶼調査は何回も行われ、戦後、一九八〇年代以降にも調査されているが、写真を主とした成果は、以前から台北の南天書局から出版される予定になっているものの、いまだに実現していないのはまことに残念である。
調査時の故瀬川孝吉氏
千々岩助太郎(一八九七〜一九九一)は一九三七年、一九四〇年の二回、戦後も一九六九年を皮切りに何度も紅頭嶼を訪れ、ヤミ族はじめ変貌激しい台湾原住民の古来の住居の貴重な写真を設計図や住居に関する原住民諸語の用語を残してくれた(千々岩助太郎『台湾高砂族の住家』丸善、一九六〇)。戦前一三歳前後の子どもだったシマガンを、戦後三二年振り、千々岩が一九六九年に訪ねたとき真っ先に訪ねたときのことである。はじめは分からなかったらしく、「だれかね、わすれたね」とすこぶる無愛想だったが、思い出したとたんにしがみつき、「分かった。先生は元気だね。私は四二歳になりました。孫もいます。こんどは何日くらいいますか、ヤミは五〇歳くらいまでしか生きないので、早く来て下さい」と言い、千々岩の滞在中、自分の仕事はそっちのけで案内も手伝いもしてくれたそうである。(『えとのす』1:27-31(一九七四))ヤミ族の純朴な人柄がしのばれるいい話だが、そのシマガン現在のシアプン・パンガヴァット)が私のヤミ語研究のアシスタントでもある。人生五〇年の時代も終わり、シャプン・パンガヴァットも七〇歳を超えて元気でいるのはめでたい。
社会学者・河村只雄(一八九三−一九四一)が紅頭嶼を訪れたのは昭和一二年(一九三七)四月のことだった。沖縄の民俗学的調査の方により興味があったらしく、台湾原住民族の方は調査期間も短い。成果の一部は『南方文化の探求』(創元社、一九三九)に収められているが、太平洋戦争勃発の前、昭和一六年一月に狭心症のため亡くなってしまった。享年四七。そのためもあったろうか、民族学界でもほとんど話題になることもなかった。最近、『続南方文化の探求』(一九四二)と合わせて復刻版が発売されたが(講談社学術文庫)、台湾原住民の部分は、口絵写真一枚を残して、残念ながらすべてカットされてしまった。たくさんの八ミリ映画や写真が残されているはずであるが、戦前の姿を伝える貴重な資料であるのに、未発表のままであるのは、ほんとうにもったいないことである。
もう一人、忘れられた研究者に外山卯三郎(一九〇三−一九八〇)がいる。京都大学美術美学史科出身の美術評論家で、武蔵野音楽大学や女子美術大学などで教鞭をとっていた。氏は原始芸術に興味を持ち、民族音楽の呂炳川をガイド役として、一九六九年三月に蘭嶼を訪ねたのであった。『ヤミ族の原始芸術』(芸術書房、一九七〇)というかなり分厚い本を出版しているが、どこまでが人の報告を要約した部分で、どこから自分の観察によるものか、その区別が判然としないのは惜しまれる。しかし同書に含まれている呂炳川(一九二九−一九八六)「ヤミ族の音楽」(pp.299-346)は非常にすぐれた研究で、ヤミ族の音楽についてこれ以上詳しい報告は、今に至るまでまだない。
・・・〈東京大学元教授〉
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