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島の変化
 オーストロネシア系の古い文化を維持し発展させてきた孤高の島も、近代においては様々な外来文化の影響を受けることになる。
 日本の占領時代、一九二三年に紅頭村に蕃童教育所がおかれ、島民に日本語が教えられるようになった。戦後、日本人や日本語の堪能な台湾の研究者のインフォーマントになっているのは、ここで日本語を習った老人達である。島外からもたらされるモノが増加し、それは生活にも徐々に変化を与えるようになった。特に、金属は、農具や装身具に使われ、その影響は大きかったと思われる。変わったところでは、白い貝のボタンが好まれ、ヤミ族の装身具に取り入れられた。終戦近くには、高砂義勇隊への徴兵が行われ、数十人が台東で訓練を受けることになった。戦争と何の関係もないはずのこの平和な離島にも、アメリカの戦闘機が飛来し、その銃撃によって犠牲者もでている。この時期、ヤミ族は集落を離れ、山の岩陰での生活を余儀なくされたという。
 
キリスト教系の団体蘭恩が主催した
第七回ヤミ族歌謡コンクールのポスター
(2002年)
 
 このようなことはあっても、ヤミ族の生活の基本はあまり大きく変化しなかったようだ。しかし、戦後、特に一九六〇年頃からの変化は、劇的だった。一九五四年、蘭嶼でキリスト教の布教が始まる。一九五八年には、退役軍人の農園が作られ、台湾から送られてきた受刑者が強制労働に従事するようになった。一九六六年から、台湾政府は、鉄筋コンクリート造平屋建のいわゆる「国民住宅」をつくり、ヤミ族に供給し始めた。イヴァリヌ村とイララライ村の二つの集落を除いて、新たな住宅は、従来の集落の上に建設された。近代的な住居と引換に、伝統的な地下式住居とそれが生み出す集落景観は、ほとんど破壊されたのである。この頃から、学校教育を受けたヤミ族の若い世代は、島の文化を前近代の陋習(ろうしゅう)と考えるようになり、伝統を固持する老人との間に断絶が深まっていった。飛行場が整備され、一九七二年からは定期便が運航を開始する。珍しい島の習俗をみようと観光客が押し寄せ、ヤミ族の集落を訪れるようになった。特に若い世代のヤミ族は、自分達が見せ物になっていることに反発し、写真の撮影をめぐってのトラブルが頻発した。こうした経緯から、現在でも蘭嶼で島民や集落の写真を自由にとることは許されない行為とされているのである。
 こうした変化は、伝統と近代のぶつかりあうところでは、多かれ少なかれ起きていることであろう。しかし、蘭嶼では、もっと深刻な問題が生じた。一九八二年に、原子力発電所の核廃棄物を保存する施設がつくられたのである。島民がその意味とそれによって引き起こされる問題について知る前に、核廃棄物は、新しく作られた専用の港から次々と陸揚げされていったのである。核廃棄物のもたらす被害や環境への影響を、軽々しく論ずることはできない。確かなことは、今でも、その保管所は撤去されず、海岸沿いに島を一周する道路の近くに、城塞のような姿で残されていることだ。第二期工事は、島民の反対で中止された。しかし、問題はまだ解決されず、島民の闘いは現存も続いている。
 ヤミ族の伝統文化は、現在でも七〇才代以上の老人が伝承しているが、松明漁は途絶え、ヤミ族の歌を歌える人は少なくなった。タロイモ水田は、老人達だけで維持されているので、年々減少し、オニガヤの茂る休耕田が増えている。かつてのように、沢山のタロイモを集めて、船を覆い尽くしてミヴァライをすることは困難な状況だ。キリスト教はヤミ族固有の信仰と融合するかたちで普及し、伝統的な儀礼や世界観も変質している。若い世代では、ヤミ語を十分話せない人も増えている。国民住宅は、コンクリートの質に問題があり、常に潮風に吹かれていることもあって、鉄筋の腐蝕が進み、建て替えが必要になった。政府は、今度は補助金をだして、ヤミ族に自由な設計で再建するように促したため、この数年、各村で空前の建築ブームが起きている。地下式住居は過去のものとなり、二階建、三階建の住宅が次々と建てられている。
 
伝統集落に隣接する現代の集落
 右下の白い建物は、伝統集落内に建てられた副屋(マカラン)鉄筋コンクリート造だが、高さは低く押さえられている。
 左下は、伝統的なマカランの屋根。茅葺はなくなり、このようなアスファルトフェルトが使われている。(イヴァリヌ村 2000年)
 
 こうした近代化、グローバル化が進む一方で、政府の補助金の効果もあって、変質しながらもミヴァライやミバチが行われている。ヤミ族出身の研究者や作家もあらわれるようになり、本が出版されている。ヤミ族の伝統歌謡コンテストも行われるようになった。自らの文化の伝統を守ろうとする気運は着実に高まっているのである。
・・・〈学習院女子大学教授〉
 
 台東から小さなプロペラ機で三〇分ほどであろうか。熱帯雨林に覆われた面積約四八平方キロの火山の島が、雅美(ヤミ)族二八〇〇人の暮らす蘭嶼(らんしょ)である。この島は清朝・日本時代には紅頭嶼(こうとうしょ)と呼ばれていた。蘭嶼の名はこの島がかつて胡蝶蘭の自生する島であったが故の命名であるが、紅頭嶼の名の由来はよくわかっていない。一説によれば、ポンソ・ノ・タオというヤミ語に当て漢字したものだと言う。ポンソは島、ノは名詞を繋ぐ働き、タオは人の謂いである。ポンソ・ノ・タオとは、タオの島、人の島、つまり、われわれが蘭嶼と呼んでいる島のことである。雅美(ヤミ)族は公式名称なのであるが、原住民族としてのアイデンティティーを模索する中、この「タオ」こそが自民族名称だとする人も目立つようになってきた。漢字では達悟(タオ)と書く。
 現在、この島には六集落ある。漁人社(ヤミ語地名イラタイ)、紅頭社(イモロッド)、野銀社(イヴァリヌ)、東清社(イラヌミルク)、朗島社(イララライ)、椰油社(ヤユ)の各集落である。集落の周りにはタロイモ水田が広がっている。タロイモその他根菜類を栽培し、島を洗う黒潮の流れに、豊かな海の幸を漁り(すなどり)する。季節によってはバナナや龍眼・椰子などに舌鼓し、時にはビンロウ噛みを楽しむ。これが、伝統的なヤミ族の生活であった。
 彼らの一年は大きく三期に分けられる。太陽暦の二月から六月に当たる時期がアムン・ノ・リヨンと呼ばれるトビウオ漁期、七月から一一月にかけてがティティカ、一二月から二月にかけてがアミヤンと呼ばれる時期である。アムン・ノ・リヨン期は、天の神からトビウオの贈り物が届けられる季節である。島びとの生活は、トビウオ漁中心の禁欲的な生活になる。人々はポンソに近づいたトビウオを脅かさぬよう息をひそめ、深い沈黙(しじま)を守らねばならないのである。魚住悦子氏によって翻訳されたシャマン・ラポガン作「黒い胸びれ」(『台湾原住民文学選2 故郷に生きる』2003.3.20 草風館刊)には、そうしたトビウオに対するヤミ族の思い入れや、漁期の禁欲的な暮らしぶりが少年の目を通して語られている。
 ティティカは、「〜の後」、「〜の次」といった意味である。「トビウオ漁の後の季節」といった意味になろうか。この期の一番目、太陽暦の七月頃をピアヴワンと言う。美しい月・良い月といった意味である。主屋前庭に設けられた竹竿には何百匹ものトビウオが吊されている。数ヵ月分の糧を前に誰もがほくそ笑む美しい月、禁欲的なタブーから解き放たれた喜び溢れる月なのである。電気やテレビと無縁であった三〇年も前には、この時期老若男女が月明り星明りに集うて、歌い合い、踊り合ったものだという。
 ヤミ社会は世襲的な頭目や祭司を戴くことの無い平和な社会だと言われる(慶應義塾大学地域研究センター刊『CASニューズレターNo.119 YAMI文化特集号』2003.8 所収、劉斌雄「平和を指向する文化としてのYAMI学確立へ」参照)が、人々の間に全く競争事が無い社会というのではない。一生の間に誰がどれだけ盛大な祝い事(ミヴァライ)を開催したかは島びとこぞっての関心事である。家の新・改築、彫刻船の建造の際には、島中から客人を招いて有らん限りの大盤振舞いをする。平和な社会の熾烈な威信獲得競争である。お相伴は客人たちだけではない。村中の者が分け隔て無くそのお流れに与るのである。ティティカ期には、人生最大のイヴェントが繰り広げられるのである。(大嶋智子「大型彫刻船落成儀礼」参照)。
 アミヤンは朔風、あるいは、朔風の吹きつける季節を指す語である。亜熱帯とは言え、この時期は雨の日が多く、さらに、北からの季節風が吹く肌寒い季節である。衣類に不自由した時代、野山へ仕事に出た年寄りが冷え切って行き倒れる事もあったという。海の民族とは言え、季節風の吹きつける、波高い日に漁に出ることはない。この季節には男も女も海山へ出かけることなく村内に屯すことが多くなる。だから、アミヤン(北の同音異義として、居る・有るの意味がある。)というのだと解説してくれる老婆もいた。かつてのヤミ族にとってアミヤンは飢えと寒さの季節だったのである。しかし、また、来たるべきアムン・ノ・リヨンに向けて男達は密かな期待に胸膨らませる季節でもある。北風の中、松明漁の鬼茅を準備し、漁具の手入れに余念がない。以上がヤミ族の伝統的生活暦である。
 しかし、謎がある。ヤミ族の暦も一年が一二カ月からなる朔望暦なのだが、実は一年の始まりが何月になるのかよくわからない。一日の変り目は、かつての我々同様に日没時である。しかし、年の変り目が不鮮明なのである。ポンソの文化についての疑問の一つである。
 ポンソの島かげを洗うのは黒潮の流れだけではなかった。時代の波も怒濤の如くうち寄せている。月の満ち欠けで日付を探り太陽の位置で時間を計るよりは、カレンダーや時計の方が便利なはずである。放射能廃棄物の貯蔵所が設けられ、港が築かれ、飛行場が開かれた。島を巡る道路も、発電所も、病院も完成した。島びとの生活は間違いなく豊かになった。黒潮の流れは天の神の贈り物を届け、時代の波は文明の利便さをもたらした。が、神はどの文化の神も吝嗇である。無償の贈り物などするはずがない。贈り物の見返りとして、天の神は島びとに敬虔な信仰と規範に則った生活を要求した。島びとはその要求に従順であった。島びとのこの選択はけっして間違ってはいなかった。要求を受け入れたからこそ、トビウオの他に、数百年の平和を手に入れたのである。今、文明の利便さは何を見返りとして要求するのだろうか。今度もまた島びとはそれに素直につき従うのだろうか。従った末に、何を手に入れるのだろうか。これもまたポンソの疑問の一つである。
・・・〈慶應義塾高等学校教諭〉
 
夜間行われるトビウオの松明漁
(撮影−三木淳)
 

 註(1)近年、島の言葉で「人間」を示す「タオ(tao)」が本来の自称であるとして、民族名を「タオ(達悟)族」に変更しようという動きがあり、実際に広く使われるようになってきた。しかし、本特集では、混乱をさけるため、旧来の「ヤミ族」を用いた。鳥居龍蔵の記録した「ヤミ」という名称は、「北風の吹いてくる方向に住んでいる人たち」といった意味で、バタン諸島との関連が考えられる。この語は、ヤミ族の間で一般的に使われているわけではないが、ヤミ族が伝承してきたいくつかの古謡のなかで使われている。
 ヤミ語の表記については、土田滋等により正書法が考案され、それがヤミ語の聖書にも使われ、島民の間にも普及している。本特集の各論文でもそれを用いている。ほぼローマ字読みに近いが、dがそり舌音でIに近く聞こえること、zがふるえ音のrであること、hが喉の奥で発音する口蓋垂音で、明瞭には聞こえない音であることなどに注意が必要である。
 註(2)シマランコンは、一九八〇年代に蘭嶼に長期滞在していた写真家である。老人のヤミ語がわからず、ただ毎日挨拶だけしてたので、この名前がつけられた(マランコンは、目上の男性に対する挨拶、シは人名の前につく冠詞)。この写真家にはもうひとつ別の名前がつけられているが、それは、シカミナンコンである(カミナンコンは、目上の女性に対する挨拶)。







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