■二十余種の太鼓■
好童王子の話からもわかるように、韓国における太鼓の歴史はかなり古くまで遡る。特に中国と境を接していた高句麗で太鼓の歴史は長いようだ。もちろんここでいう太鼓が今日のそれとどこまで類似していたかは定かではない。安岳古墳の壁画には奏楽図に鼓が、行列図に擔鼓がみえるが、この古墳は四世紀頃のものである。
新羅では三絃三竹音楽に、拍とともに太鼓が用いられていた。十世紀以後の高麗時代には唐楽と雅楽の伝来に伴い、杖鼓・教坊鼓・晋鼓など多くの太鼓が伝わり、宮中音楽の演奏に用いられた。
うち晋鼓は高麗・睿宗の時代に中国から輸入され、宮中の祭礼に用いられ始めた。四本の柱を立てて横木を置き、架子を組んで太鼓をその上に掛ける。音楽の始まりと終わりに打たれるほか、演奏中は拍子をとる目的で、ときに強く、またときには小さく打たれもした。教坊鼓は特に教坊で使われたことからこのように命名されたようであるが、後には掌楽院を称して教坊司と言うこともあった。 (注(2))
以後、今日まで伝わる太鼓は二十余種を数えるが、なかでもよく用いられるのが三絃六角の演奏に使われる座鼓、行進音楽に使われる龍鼓、プクチュム(太鼓を打ちながら舞う踊り)に使われる教坊鼓、仏教儀式に用いられる法鼓、旅芸人や雑歌の歌い手が歌いながら打つ小鼓、パンソリの拍子をとるのに使われるパンソリ太鼓、農楽で使われる農楽太鼓、農民たちが作業をしながら打つモッパン鼓などがある。
韓国の太鼓には、松の切れ端を寄せ集めて鼓胴をつくり両面に牛の皮を張ったものが多い。宮中音楽に用いられるものは大体、釘を打って皮を留めてあるが、民間のものは革ひもでくくり付けたものが多い。そして、宮中音楽では片手あるいは両手にバチを持って打つのが一般的であるが、民間音楽では右面はバチで打ち、左面は掌で打つことが多い。このような演奏方法は、太鼓の音楽的機能の違いによるものといえよう。すなわち、民間音楽では太鼓からより多様な音を引き出す必要があったのである。
民謡を歌いながら杖鼓踊りを踊る村の女性たち(済州島・城邑) |
■法鼓・梵鐘・木魚・雲版■
韓国の太鼓のなかで、中国や日本のものとは異なる特有なものを挙げるなら、法鼓と杖鼓がそれであろう。もちろんこれらの太鼓も中国の影響をまったく受けていないわけではないが、韓国に伝わった後にいっそう発展し、民間でもより広く用いられていたからである。
まず、法鼓とは仏教儀式に用いられる楽器である。弘鼓ともいい、単に太鼓ともいう。梵鐘 (注(3))・木魚・雲版とともに梵鐘閣 (注(4))の四物と称される。
これら四種は役割がそれぞれに異なる。梵鐘は地獄衆生のために打ち、木を材料とする魚形の木魚は水中衆生のために、そして鉄を材料として雲形につくられた雲版は虚空衆生のためのものである。それに対し法鼓は、世間畜生の済度を祈願するために打たれる。それだけに太鼓は地獄でも虚空でも水中でもない、いまを生きる人々と密接に関係している。
法鼓はよく乾燥した木で太鼓の胴体をつくり、両面には牛の皮を使う。このとき、両面にそれぞれ雌牛と牡牛の皮を使ってこそよい音が出るといわれる。大きいものでは直径二メートル以上、小さいものは三〇センチ前後の小さなものに至るまで、実に多様である。いわゆる打楽器としての太鼓ではあるが、仏教儀式に用いられるため法鼓と呼ばれている。基本的には、大小とりまぜて何かことがあったときそれを大衆に知らせる、一種の合図として用いられた。儀式では梵唄の拍子に合わせて打たれ、梵鐘閣に懸けられた太鼓は朝夕の礼仏の際に打たれた。
仏教儀式舞踊のひとつ法鼓踊りはプクチュムの一種であるが、梵唄が声によって仏殿に供養を捧げるものであるとするなら、この踊りは、身ぶりによって供養を捧げる作法の代表的なものである。礼仏時をはじめ、霊山斎・常住勸公斎・十王各拝斎・生前預修斎・水陸斎などの儀式の合間に踊られる。
百中ノリ(旧暦七月一五日に催される民俗遊技)で太鼓踊りを演じる河寶鏡翁(慶尚南道・密陽) |
ソンソリ山打令で小鼓を打ちながら山打令を演じる人間国宝 |
法鼓踊りの妙味は、太鼓を打つ際の荘厳でありながらも雄大さを感じさせる長杉の裾の揺れにある。仏教的には法悦に踊躍歓喜するという意味をもつ。そのためほかのどの踊りより、動作が大きく活気に溢れている。
一方、民間の歳時風俗に、年初に僧侶が民間に降りて来て、法鼓を打ちながら仏を唱え勧善するというものがある。『東国歳時記』によれば「僧侶が、金や米などを寄付する施主者に仏と良い因縁を結びなされと勧告するという内容の募縁文をひろげて太鼓を打ちながら念仏を唱えると、人々はわれ先に駆け付けて金を投じた」という。 (注(5))
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