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 オッフェンバック、ヨハン・シュトラウス、フランツ・レハールなどの優れた作曲家が活躍したことも、オペレッタが時代の花となる要因だった。明治の政治家や実業家が文化のモデルとしたヨーロッパは、演劇史的にいえば、オペレッタ興隆の時代にあった。王侯貴族は我が世の春を謳歌していた時代であった。ビスマルクのプロシアもハプスブルグ家のウィーンも大英帝国のロンドンもそうであった。帝国劇場の建設が企画されたのもそんなヨーロッパがモデルとしてあったからである。こうして「文化の近代化」の一環として「帝劇」が生まれる。一九一一年というと、第一次大戦前で、ヨーロッパがまだオペレッタに酔っている時代だった。
 
帝劇で初めて上演した創作歌劇「胡蝶の舞」。
中央が柴田環
[『演芸画報』明治四四年一一月号]
 
帝国劇場の辻番付
(根本草摺引他・大正二年一月)
[江戸東京博物館蔵]
 
 といって帝劇のこけら落とし(明治四四年三月一日)にオペレッタを上演する能力はなかった。『帝劇の五十年』によると(上演演目は原則として本書による)、「式三番、一幕、幹部俳優出演」という、伝統的な儀礼から開場は始まった。幹部俳優というのは、梅幸、幸四郎、宗十郎などの歌舞伎座や明治座からひきぬかれた歌舞伎の役者だった。彼らがその後の初興行でも「頼朝」「伊賀越」「羽衣」などの日本の古典を舞台にかけた。ただ帝劇とは、欧米風の近代的劇場である。その証しをみせなくてならない。そこで松居松葉作、喜劇「最愛の妻」や西洋舞踊「フラワーダンス」が演目に加えられた。「最愛の妻」は、どのようなスタイルの芝居か判然としないが、新派の俳優によるということから、現代風喜劇であることが推測できる。次の「フラワーダンス」は、女優たちによる新しい試みだったが、これは一九世紀後半からパリやロンドンで流行しはじめたミュージック・ホールのダンスを模したショーだったにちがいない。日本人にとっては「近代」の表徴であろうが、欧米人にとっては鑑賞に耐える代物ではなかったのではなかろうか。オペレッタはおろか、オペラは帝劇の俳優や歌手たちにはまだむりだった。
 しかるに帝劇は開場の年はやくも歌劇部を新設した。新設の理由は、柴田環、のちの三浦環が、独唱をしたところ予想外の成功をおさめたからであった。劇場を作った所期の目的であるオペラの上演への道を急いだ。数ヵ月後にはマスカーニのオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の上演にこぎつけている。といっても全曲ではなく、たまたま東京にいたイタリアのテノール歌手サルコリと柴田による二重唱を歌っただけであった(財団法人日本オペラ振興会編『日本のオペラ史』)。しかしこれが帝劇オペラの第一歩だった。早速創作オペラの試みとして、「胡蝶の舞」や「熊野(ゆや)」が舞台にかけられたが、こちらのほうは評判が悪かった。なにしろ帝劇の夢は、豪華なオペラを上演して、外国の王侯貴族を招待することであったから、日本の創作オペラが失敗することは意に介さなかった。現代でもそうだが、創作オペラは「グランド・オペラ」にはなりがたい。やはり帝劇はヨーロッパのオペラを移植することを主要な方針にすえた。それにはどうしても外国人指導者が必要だった。こうしてイタリア人のローシーが来日した。







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