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舞台のモダニズム・・・田之倉稔
I 欧米の大衆文化の取り入れ
 欧米化をもって近代化という国是を掲げた明治政府は、いわゆる西洋の文化を移植することに官民をあげて取り組んだのであるが、そのなかには演劇、オペラ、バレエ、ショーなどのパフォーマンスは含まれなかった。しかし政府はヨーロッパのサーカスなどには特別の措置を講じていた。トルコから来日したフランスのサーカス団スリエは明治四年末以来東京を中心に興行を打っていた。もちろん正規の許可を受けていた。思うに団長のスリエがトルコの皇帝の庇護下にあったという事実から明治政府はサーカスを低俗な芸能とは見なさなかったようだ。そもそも日本にはまだ「サーカス」なるジャンルの芸能はなかった。その後に来日したチャリネ・サーカスなども外国ではさまざまな国の元首の来臨を受けている。日本では見世物が天覧の栄によくすることなどありえない。歌舞伎でさえ「天覧」を認められなかったのである。ヨーロッパでは国王や皇帝が劇場に足をはこぶことになんの問題もなかったし、ロイヤル・ボックスさえ用意されているといった事実はもう日本にも伝えられていた。
 サーカスの受容も欧化政策にそったものだった。サーカスは単なる芸能ではなく、ヨーロッパ文化のひとつとみなされていたのである。明治政府の中心にいた政治家や官僚たちは欧米のハード・パワーを移入しようと熱心ではあったが、文化というソフト・パワーの方は、「国益にあわず」という理由で、無視していた。しかし制度上の近代化が順調に進んでくると、文化の近代化も視界にいれなくてはならなくなった。サーカスをやむをえず受け入れる時代から欧米の大衆文化を積極的に取り入れようとする時代へと変わってきた。欧米の演劇情報は、政治家や民間人、あるいは外国巡業をおこなった演劇人の口を通じて、日本に流入してくる。それにつれて興行形態、レパートリー、劇場などの近代化が試みられてきた。そういう試みが集約されて、「帝国劇場」(いわゆる「帝劇」)の実現へと向かったわけである。
 
II 国家のプレスティージュ[観兵式と演劇]
 帝劇が開場したのは明治四四年三月であったが、それより六年前、帝国劇場株式会社の発起人総会が開かれた。東京にも欧米の貴紳を迎えるにふさわしい劇場が必要であるという認識が政界や財界の上層部に生まれてきた。開場にいたる過程と開場以後の動向や演目をもっぱら帝劇史編纂委員会の『帝劇の五十年』(昭和四一年東宝発行)に従って見ていくことにする。
 発起人には、西園寺公望、伊藤博文、林菫、渋沢栄一などの著名人が名を連ねていたが、会長には渋沢が選ばれた。一応財界主導となっているが、国策の一環だったと考えられる。さすがに国立劇場という発想はなかった、というよりやはり演劇・オペラに国家が直接関与することは望ましいとは思われなかった。そこで「帝国」の語が選ばれた。後にローシーというイタリア人が招聘されたとき、彼は当然「ロイヤル」を「国立」と受け取って、承諾したという。「帝国劇場」は一見「国立」と思わせるたくみなネーミングであった。欧米視察の経験のある有力な政治家は、国家は劇場を所有しなくてはならないことを認めたのであるが、演劇は民間のものという政策は崩さなかった。この政策は明治・大正どころか、昭和も三宅坂に国立劇場が建設されるまで続いた。いまだ国立大学に演劇を専門とする学部がないことを考えると、いまなお続いているといえる。
 
帝国劇場の美観
 
帝国劇場二階観覧席正面入口
 
帝国劇場の女案内
[いずれも江戸東京博物館蔵]
 
 しかしソフト・パワーも国家のプレスティージュを見せる重要な要素であることに明治政府は気がついた。「諸外国では国賓を待遇するに当たって、まずご覧に入れるのは観兵式と演劇である。(中略)。故に観兵式と演劇とは車の両輪の如く両々相まって大切なものであるのに、わが国にはこの車の一輪に相当する演劇、就中(なかんずく)劇場に適当なものがない―という、些か(いささか)ユーモラスな意見もあった。」そんな一節が『帝劇の五十年』にはあるが、「ユーモラス」とは編者の旗幟不鮮明な表現である。「観兵式と演劇」とは、国家経営の必須の条件である。古代ローマでは、これは「パンとサーカス」と呼ばれていた。「サーカス」に象徴されていた文化の重要な要素が演劇だった。古代ローマにあって、演劇は統治の要であったが、明治政府にあっては演劇は賤視の対象である芸能の一部だった。それに対して「観兵式」は国家一体となって学習すべきハード・パワーだった。
 とはいえ政府はソフト・パワーを整備する時期にきていることを認知していた。その地点にたち至ってみると、演劇を含む日本の芸能は近代以前の状態にあることがわかってきた。芸能を近代化しなくてはならないと考えた。しかし「芸能の近代化」とはなにか。政府にとって近代化とは他者の視線、それも欧米人の視線にほかならなかった。芸能を彼らの視線に耐えるものに仕立てなければならなかった。
 明治になって欧米から貴紳が来日する。あるいはお雇い外国人やビジネスマンが定住する。とうぜん日本の芸能は外国人の目にふれる。能・狂言は洗練された芸能であったが、大衆の愛好した芸能はかなりおおらかで、性的表現やそれにともなう行為は露骨だったようである。舞台には裸体も登場した。第一観客の服装も暑いときは半裸だったし、夏以外の季節でも粗末なものだったようである。これには外国人も眼をむいて、びっくりした。欧米では、オペラといえば、観客も着飾って、現れるし、サーカスでさえ、現代とちがって、観客はブルジョワだった。







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