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ニシン漁の船
〜ニシン漁に使用された漁船〜
 ニシン漁に使用された漁船は年代とともに変化をとげながらきた。古来アイヌの人たちは丸木船と丸木船に外板を付けたイタオマチップを使用してタモ網で漁をしていた。和人がニシン漁をおこなうようになると、刺し網が使われ、船はイタオマチップと同じ構造の磯船が使われた。その後江差松前地方のニシン漁が不漁となってから、和人地から蝦夷地の奥地へ出稼ぎするようになる。すると船も大型化していった。松前地から磯谷・歌棄辺りまでが元禄年間(〜1688)以前に追い鰊と称しての出稼ぎがはじまり、寛政5年(1793)までに石狩までの出稼ぎが解禁された。そして、雄冬岬以北への出稼ぎは天保11年(1840)に解禁され、奥地場所までがニシン漁に開放されたのである。
 天明4年(1784)の平秩東作のあらわした東遊記にはニシン漁に使用する船として大船、乗替、サンパ、ホッチ、磯舟の5種類をあげている。また、寛政4年(1792)に串原正峰の夷諺俗話には「図合船には六人乗り組み、夷船は三人にて乗り出す」とある。奥地場所への鰊出稼ぎ進出するにつれ、従来の刺し網漁から大網を使用するようになり、船の大型化が進んでいくことになった。そして、江戸後期には船の幅によって船の名称が決まっていた。
 
図3 北海道漁業志稿に表わされる三半船と保津船
 
三半船
 
 
保津船
 
磯船(いそぶね) 3尺まで(約91cmまで)
保津知船(ほっちせん) 4尺3寸まで(約1m30cmまで)
三半船(さんぱせん) 5尺3寸まで(約1m61cmまで)
乗替船(のりかえせん) 6尺まで(約1m83cmまで)
図合船(ずあいせん) 7尺まで(約2m12cmまで)
中遣船(なかやりせん) 8尺5寸まで(約2m58cmまで)
大中遣船(おおなかやりせん) 9尺5寸まで(約2m88cmまで)
 
 このうち漁船といわれるものは図合船までをいい、中遣船以上は主に物資の輸送や出稼ぎ漁場への往返に使用された。
 江戸時代末からは大規模な建網漁が盛んになっていく。この建網漁の効率をあげるために考え出された袋網(ふくろあみ)や枠網(わくあみ)の使用が建網に使用する漁船を変化させていくことになる。明治から大正にかけては三半船が建網漁の主役として使用された。しかし、建網漁が行成網(ゆきなりあみ)から角網(かくあみ)へと替わり1回の漁獲が多くなると船の底に枠網を吊すようになる。すると、みよしが船首に突き立っている三半船では枠網を吊すときみよしが邪魔になった。それでみよしの突き出していない三半船の小型の保津船が主役となり、昭和初年には三半船に替わって保津船がだんだん大型化して使用されるようになった。
 
網起こし作業をする起こし船
 
 明治から大正にかけては用途により三半船の枠船、起船、汲船が主役であったがこれらほとんど保津船に替わっていった。ただ海岸の状況によっては別な名称の船が使われた。砂浜や水深の浅い場所では船底の平らな船(ひらたぶね)等が使われた。
 
内港に帰った汲み船
 
 いろいろな名前の漁船名があるが、船の構造からいえば4種類に分類されるだけである。丸木造り、むだま造り、四枚はぎ、川崎造りである。丸木造りはいわゆる木を刳り抜いただけの丸木船であり、むだま造りとは丸木船の外側に外板を取り付けた構造をしている。大きさによって名称が違う。四枚はぎは敷き材を中央に下棚とで底板を造り、その上に上棚(測板)を立てて造る。川崎は沖合漁業に用いられ、帆走ができ、櫓で推進する。これら4種類に相当する漁船の名称は
丸木造り 丸木船
 
むだま造り あいぬ持符(もちっぷ)、磯船、持符、胴海船(どうかいせん)、
 
四枚はぎ 保津船、三半船、伝馬船(でんません)
 
川崎造り 越後、越前、津軽、庄内その他
 
 これらの中で刺し網に使用されたのは磯船、持符であり、戦後は改良川崎船も使われた。あとは鰊建網に使用され、大正以前は胴海船、船、伝馬船、三半船が使われ、そのなかでも三半船が主役であったが、昭和にはいるとそれに替わって保津船が主役となってニシン漁の終焉まで使われた。







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