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図2 ニシン建網の構造
 
ニシン角網敷設図
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ニシン行成網敷設図
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 留萌でも明治20年1月1日留萌郡留萌村・三泊村・礼受村漁業組合を設立し、留萌戸長役場内に事務所を設置した。当時の組合員数は162人、建網業者(鮭、鱒定置を含む)36人、刺網業者36人、その他92人であった。建網数は鰊建網63統(但し行成網)、鮭建網12統(角網6統、行成網6統)、鱒建網6統(行成網)であり、刺網は615放であった。江戸時代からの旧場所請負人であった栖原家が鰊建網20統、鮭建網9統、鱒建網4統の計33統を所有しており、今だ留萌地方では大漁業家としての地位を保っていた。また、鰊建網6統を経営する岩田金蔵は美国積丹の旧請負人であり、7統を経営する五十嵐綱治は元留萌の栖原の帳場を勤めた人間であり、栖原からの独立により漁業経営をなしたものである。また、鰊建網3統、鮭建網2統、鱒建網2統を経営する佐賀庄四郎は、明治前に二八取として松前唐津内澤町の藤左衛門の名儀でルゝモッペ場所へ出稼していた佐賀平之丞の留萌(カクダイ)支配人である。このように数ヶ統を経営する有力者は自己資本により経営をなしていた。他のほとんどが1ヶ統経営の建網業者であり、これらの有力漁業者または、小樽の商業資本および少しづつ芽生えてきた地元商業資本の仕込を受けていたと考えられる。
 明治20年当時の留萌での建網1統経営にかかる経費を留萌漁業沿革史から見てみると、新規に建網を設備するためには、角網で2,850円59銭1厘、行成網で2,297円72銭6厘の経費がかかる。また、従来の網を継続して使用する場合は角網で1,164円7銭9厘、行成網で746円の経費がかかる。この他、角網では1統につき30名、行成網で20人の漁夫が必要となり、1人の平均給料は26円であった。漁夫の使用期間は2月20日より6月30日までであった。
 
ニシンを満載し港へ帰る汲み船
 
 この時期に鰊漁法の大きな改良として行成網から角網への大変更がおこった。鰊角網は明治18年に後志国積丹郡斎藤彦三郎により発明され、明治23年使用の許可を得てから急速に鰊漁に普及した。角網は本来鮭漁に用いられ、慶應年間から使用されたといわれる。留萌においても旧請負人の栖原角兵衛の鮭漁場で明治13年頃に使用したのが始まりと言われる。栖原では明治12、3年頃積丹古平辺で角網を建てるものがあるとのことを聞いて、増毛、留萌より1名を派遣し、それを習わせたという。実際には留萌では明治24年から栖原漁場で角網を使用した。
 
屋形をかけた枠船
 
 鰊行成網と角網の違いは、身網が垣網に対し、行成網では平行に建てられるのに対し、直角に建てられるのが違いである。つまり、起こし船、枠船の位置が行成網では海岸及び波に対して平行になる。ところが、角網では海岸と波に直角になり、船が横波を受けて転覆する恐れが少なくなる。また、行成網に対して鰊魚群が身網の中に入りにくい欠点があるが、一旦身網の中に魚群が入ると出られないという長所があった。つまり、群来する魚群が少なくなれば、角網の方が漁獲が確実となるのである。このようなことから角網が着実に普及していった。明治29年には北海道鰊建網4,997統中1,974統が角網となったのである。
 留萌でも栖原漁場での角網の成功により、明治26年には礼受(カクダイ)佐賀家漁場でこれまで12統の行成網の漁場を経営していたが、東第16号を角網変更願いに対し、変更許可を受けた。明治29年には3統の角網、明治31年には4統、明治34年には6統、明治36年7統と漸次角網を増加していった。
 全道の角網と行成網の比率が逆転するのは明治30年頃のことである。全道鰊建網総数6,157統のところ角網は3,017統に及んだ。留萌は若干角網への転換が遅れたことになる。大正3年には総数3,159統の内行成網は約70統余りに減少している。
 
砂浜での刺網漁
 
 刺網については、留萌では明治20年に36名の刺網業者しか漁業をしていなかったのであるが、それ以降刺網に従事する業者が増え、明治39年には567人を数えた。明治20年には300放しかなかった漁網も、明治27年には7,500放となった。これに対し漁業組合では、あまりの増加に現在数で制限する決議を行ったが、刺網業者の猛反対に会い、明治30年には1,000放を本年限り許可し、8,500放となった。しかし、明治36年北海道庁は細漁民救済のため、無制限に刺網を許したため、本州より多くの漁民が入り込み、37年には15,200放、39年には26,200放、40年には32,500放と増加の一途を辿った。しかし、明治41、42年が不漁年となり、刺網業者の倒産が相次ぎ、41年には21,000放、42年には26,000放と減少した。そこで道庁は43年より新規の許可を認めないこととした。この結果明治45年には12,197放となった。
 漁網の材質については最初は麻を用いていたが、明治35年頃より綿糸を使用し始め、大正の初年にはほとんどが綿糸網となった。
 また、漁業制度の面では、北海道庁は明治28年、あまりに定置漁業出願者が増えたことから、鰊及び鮭鱒の建網漁業に対して、既設の漁場間の距離、及び出願漁場と隣接する漁場間の距離を制限して無謀な建網の増設を制限した。明治30年には北海道漁業取締規則を制定し、定置隣接漁場との距離を定め、隣接漁場の距離に応じて角網の間数を制限し、行成網を角網に変更する際の制限を地方別に定めた。明治34年には北海道鰊保護規則を定め、新規の鰊建網漁業を許可しない方針を打ち出した。翌明治35年には北海道漁業取締規則を新たに公布し、翌36年には今までの漁業関係規則を統一し、北海道漁業取締規則を改正した。特に鰊定置漁業に関しては詳細に規定を設けて制限を強化した。







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