10月11日(土) 地域伝統芸能公演・地域伝統芸能とまちづくり 11:00〜14:30
司会 吉川 精一(フリーアナウンサー)
玉田 陽子(フリーアナウンサー)
2日目の地域伝統芸能公演は、勇壮な太鼓の因島村上水軍陣太鼓(いんのしまむらかみすいぐんじんだいこ)で始まった。因島に伝わる村上水軍の兵法書に記された鼓譜を掘り起こし再現したもので、戦いの時や凱旋の時を表現して大小の太鼓を笛の音とともに若者が巧みに打ち分ける。舞台とアリーナ一杯に繰り広げられるリズミカルな演奏におおきな拍手が湧いていた。続いては、広島県の民謡(みんよう)・民踊(みんぶ)が12曲続けて紹介された。県内各地に伝わり継承されているものを地元の広島県郷士民謡・踊協会が掘り起こしたもので、唄と踊りによる民謡の披露であった。地元でもあまり知られていないものも多かったようで、改めて多くの地元民謡を認識したようであった。続いて、12歳の子供4人が独特の衣装に身を包み、太鼓を32通りに打ち分けるという、福田(ふくだ)の獅子舞(ししまい)の登場。単調なリズムの中にも微妙な打ち分けがあり、可愛らしい演技のなかにも練習の苦労が伝わってくるようで、観客もじっと見惚れていた。続いては、一転して舞台上で寸劇が始まった。甲山(こうざん)だんじり仁輪加(にわか)で、実際はだんじり(山車)を停め、路上に引き綱で円を描き舞台とするそうだが、今回は舞台上での寸劇。水戸黄門が演じられ、最後は、お供の助さん格さんと広島を絡めた、核がない(格さんがいない)とのオチに会場は爆笑で、珍しい伝統芸能を楽しんでいた。続いては、福井県の越前万歳(えちぜんまんざい)。1400年余の伝統をもつ祝福芸で、3人ないし5人による軽妙な踊りと会話が軽快なリズムにあわせて演じられた。正月のような雰囲気が会場を包み、また、越前万歳が盛んであったころの時代を想起させるような演技に大きな拍手が湧いていた。2日目の地域伝統芸能公演の最後は、京都府和知町の和知人形浄瑠璃(わちにんぎょうじょうるり)。現存する素人の人形浄瑠璃としては珍しく、一人で人形を操るのが特徴とされる。広い舞台一杯に演目のセットが設えられ、保存会の方々による巧みな人形に扱いとその美しさに、観客は普段見なれない人形浄瑠璃のすばらしさを覚えたようで拍手喝采であった。引き続いてアトラクションに移り、落語家笑福亭仁昇氏による上方落語が披露された。さらに今回のフェスティバルの基調講演に移り、「古典に現代の息吹を〜文化が育み、まちが育む〜」をテーマに、落語家笑福亭仁鶴氏による講演が行われた。
[アトラクション]
笑福亭仁昇 上方落語「長頭廻し ちょうずまわし」
笑福亭仁鶴の弟子である笑福亭仁昇が、上方落語「長頭廻し」を披露した。関西からの旅の客が他の地域の旅館で「ちょうずをまわして」と頼んだ。「洗面の用意をしてください」という意味である。ところが、その地域の人には意味がわからない。「長い頭を呼んでこい」と言っているのだろうと、長い頭の人を呼び頭をぐるぐる回させた。間違っていると知った旅館の主は意味を知ろうと関西に出かけ、宿泊する。泊まった翌朝、「ちょうずをまわせ」と言うと、洗面器、お湯、塩、歯磨き粉がでてきた。さてこれは?と全部入れて飲んでみたという落ちがつく。地域独自の言葉や文化の交流の様をあらわした温かくおもしろい話を、日本の代表的古典芸能である落語というかたちで披露してもらった。会場では笑いがおこり、また巧みな話芸に聞き入る姿が見られた。
[基調講演]
笑福亭仁鶴「古典に現代の息吹を」〜文化が育み、まちが育む〜(一部掲載)
昭和12年1月28日生まれ。高校卒業後、何気なく立ち寄った小道具屋で、初代春団治のレコードに触れ「こんな面白いものが、この世にあったんかいな」と落語に取り付かれ、独学で落語の練習を開始する。素人参加番組に出演、才能が認められ、昭和36年、その番組の審査員の一人であった六代目笑福亭松鶴への弟子入りを認められた。昭和59年には師匠である松鶴と13日間連続の親子会「松鶴・仁鶴極め付き十三夜」を開催。以後、それまでの「軽さ」から抜け出て、「思いやり」「温もり」を深めた「大人の笑いと話芸」で、師・故松鶴の芸風を受け継ぎ、上方落語の中心的存在となる。また、笑福亭一門のリーダーとして、若手の育成にも積極的に取組んでいる。
只今紹介にあずかりました、笑福亭仁鶴師匠でございます。もう近頃はどちらに行きましても、「師匠や」「師匠や」言われましてね。先程も楽屋で師匠言わはるから何ですか?言うたら、「そこにあるスリッパ取って下さい」・・・師匠や胡椒や解らへん。さっぱりわやや。
ほんでまた舞台に上がったら、広いなあ〜。なんか迷子になりそうやな。あの辺に交番署が欲しいぐらいで。こんな広い所でやるのも久しぶりでございますけど、明日、明後日が体育の日ということで、こういう催し物は、日本の古典芸能のフェスティバルというようなことで、結構な催し物でございます。
私、1月の28日の朝6時に生まれましたんや。1月、2月、3月、4月の1月。朝6時生まれや。生まれしな寒かったわ。今でもはっきり覚えてるけどね、あんまり寒いさかい“ぱっち”履いて出たろかいなと思ったんやけれど、噂聞いたら近所の子供さんみな裸で出てはる言うさかい、裸で出て来ましたけど、えらい難産でね私は。
難産待っててちょうだいね〜ちゅうくらいの。あ、おわかりいただけたなぁ。だいぶん古いな、今日のお客さんは。暗がりで見えへんけども。待っててちょうだいねなんて御存じやっちゅうことは、だいぶんやなあ・・・。相当やな、これは。
だいたい聞いたら母親5時間くらいがんばってくれたんや。その間に私の顔がもみくちゃになってたらしいけどな。
生まれた時には取り返しの付かんような状態。取り上げた産婆さんも、思わず落としたっていうんやから、桃太郎のおばあさんみたいになってしもうた。
こんなんどないしましょか、まあしばらくここ置いときましょか言われて、現在に至っているわけでございますけど。
私はね、大阪で生まれて大阪を離れた事がないのんですけど、大阪のどう言う所で生まれたかと言うとですね、ロングハウスで生まれたんや・・・日本語で言うたら長屋やけどね。むこう三軒両隣りや。
♪とんとんとんからりんと 隣組み
格子を開ければ 顔なじみ
回してちょうだい 回覧板
教えられたり 教えたり
まあ、こういう古い唄は他所で唄っても解ってもらえないと思って。見渡した所、今日がチャンスやと思うたんでございます。
♪緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メェーメェー子やぎが 鳴いてます
かーぜーが そーよそよー丘の上
白いお窓は オイラの家さ
やっぱり唄ってよかった。思うたとおりやった。本日お集りの御夫人方は、国防婦人会の方々でございます。これから満州に行って参ります。銃後の守りをお願いしたいと思います。そんな時代に私が垂乳根の体内より生まれたんでございます。
子供の時分には近所の人からボンボン、ボンボン言うて、可愛がられてた子とよく遊んでた自分でございますけれども。私がボンボンと言われてたわけやないねん、言われてた子と遊んでたんや。遊ぶくらい遊ばせてもらいたいわ。
この頃は、少子化言うてね、1.4人とか1.3とか言われてますけど、まあ、戦時中の統計を見ますとね、子供さんの数が一世帯あたり5人いましたんや。
うちは3人多いんです。8人兄弟。こんな形ばっかり8つありましたんです。何が可笑しいんです。人の顔見て笑って。人の顔見て笑ってな、家に帰って婿さんの顔見て気を失っとればいい。
8人兄弟言うさかいね、もう過保護てな言葉はありませんわ。保護なんてしてられへんのやもの。子供8人に相変わらず母親1人やからね。そやから捨て育ちいうて、ほったらかしやったで。産んでやったんやさかい、あとは水でも飲んで大きなれ。なんか縁日の盆栽みたいに思われてね。
友達と喧嘩してね。ここら擦り傷作って泣いて帰って来ても、母親洗濯しながらびっくりもしなかったわ。「泣きなさんな。少しくらいの事で泣きなさんな。赤チンでも塗っといたらよろしいわ」何でも赤チンや。ちょっと色変わってヨーチン(黄チン)や。あれで青チンでもあったらどないなるんやと思うけど。
そんな時分やからね。子供さんが今みたいに清潔やなかったね、子供は汚かった皆。ほったらかしやもん。面倒を見てもらえないんやから。親も忙しいし、子供も多いしね。だから今の子供さんみたいに清潔ではありませんでしたわな。
お母さんがちり紙で鼻かみなさいいうて、学生服のポケットに入れてくれても、ポケットのゴミで役に立たない。せやから、それが役にたたんからどこでかむか言うたら、学生服のここでかんだんや。
そやからもうね、やっぱりこの食べるものでも有りません時代ですから、うちのおばあさんなんかいよいよ食べるものが無い言うて、ひまわり畑に行って夏、ひまわりの種をとって来てフライパン入れてね、粗塩かけてね。煎って食べてました。
あんな脂臭いもの無かったわ。うちのおばあさんひまわりの種食べ過ぎて、近頃首が横にこないなっとりますわ。ひまわりの後遺症やと思うけれども。父親なんか、近頃座敷を飛んで走ってますわ。「なんでそないなんねん」「終戦当時イナゴ食い過ぎてなぁ」言うて。
そんな時分で、食べ物も有りませんでしたなあ。よくサツマイモばっかり食べてましたやろ。サツマイモを太鼓に切ってもらったやつをね、3つくらい、昔のフライパンに入れてお母さんが焼いてくれるねん。七輪の上でね。
ほんで、アルミかアルマイトかなんかの鍋の蓋してね。ほんで、それを12人の家族がずーっと取り囲んで見てるわけや。おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、子供8人ずーっと見てんねん。
睨んでんねんで、芋を。早く焼けないかなーって思って。皆空腹やから、じーっと全員が睨んでんねん。24の瞳やこれなあ・・・。
皆が早いところ焼けないかなあ、と思って射すような眼差しがあるからね。お母さんアルマイトの蓋を取っては芋を突くんよ。まだ焼けてないかなあーと思って。
また蓋してみると、またこっちから見てるからまた急いてるからまた突く。また蓋して、こっちから睨んでるから、また開けてまた・・・
お芋さんが焼けた時分には、穴だらけになってね、近所の奥さんが来て、「お宅レンコン焼いてはりますのかいな」言われて。「いやー実はこれお芋ですねん」言うて。もう食べ物が不足していた時分ですわな。
サッカリンとかズルチンとかありましたやろ。お砂糖の変わりに、何か煮炊きする時に、小さい小指の爪のまだ半分くらいの小さい錠剤を、まだ半分に割って、大きな鍋に不思議に甘くなるやつね。
子供やから甘いものがほしいから、学校から帰って来たらその水屋に入れてある瓶やけど、ちっさい瓶。それ盗もうと思うんやけれど、なかなか家が留守になれへん。大家族やし家狭いし。
誰かどっかにいてるんやけど、うまい事盗んで、5粒くらい盗んでね。もとに戻してね。ほんで家の裏の広場でなめるんや。
もう3つも舐めてたら、クラクラクラクラしてくる。薬やからね、あれ、人工甘味料やから今で言う。10年前位のテレビで言うてました。サッカリンちゅうのは副作用があったんやって。今頃言うてどないすんねんな。私、毎日舐めてたのに。その副作用の塊がこれやないかいなと思って心配してるんですけど。そのくらい食べ物が不足してた時分にですな、もう今やそうや無くなりましたけれどもね。
当時食い逃げと言う犯罪がありましたね。もうお腹空いてお金が無いのも忘れて、食堂の前に立ったら、陳列棚にカレーライスとか天丼とかもうどんぶりもんやとかおいしいものがいっぱいある。ついふらふらと店に入ってしまって、天丼注文してしまって、一生懸命ガツガツガツガツ食べ終わってふっとお金ないのに気が付いて。どうしようもないから、そうっと店を出て行くっていう。食い逃げっていうてね。当時毎日三面記事に、二件や三件載ってましたわな。
入り口に座ってるやつがだいぶん怪しいねん。「おやっさん」「へぇ。」「今入り口に座ってた人相の悪い男、つーっと立って表に出てったけども、勘定済んだのか?」「え?出て行きましたか、まだもうてしまへん」「あほやな、ぼやぼやしてるさかいや、俺が行って捕まえてきたるわ」
そいつも帰ってこんかったっていう話し。そいつの方がたち悪かったっていうんですけど。
そんな時代やから、皆、当時太ってたらなんやしらん闇物資でも扱こうてんのかと疑われたくらい、人間が皆、痩せてました時分ですからな。
そやから寒くなってきましても、いまみたいに暖房器具がありませんので、火鉢っちゅうもんは、1つあってみなが当ってるとこはぬくいけど1メートルも離れたら、冷たいですからな。
そやから、よく鍋物をして寒くなってきたら温かいものを食べてお腹の底から暖めて、ほんでお布団入って湯たんぽ抱いて寝てしまうって。
鍋物しました。今鯨食べなくなったけど、昔はよう鯨食べましたね。鯨の照焼き。鯨のカツ。鯨鍋。ねえ、鯨は少し匂いがしますから片栗で包んで鍋に入れて、水菜入れて鯨のハリハリ言うたら大阪の名物ですよ。
おやつも鯨でしたわ。さいころに切ったやつを煮てくれたのが、5つくらい水屋にしまってある。昼過ぎ学校から帰ってきたら、お母さん忙しいから返事もしてくれへん。自分で水屋を開けて鯨のおやつを食べるんやけどね、これが普通の鯨やないねん。あの筋鯨って言うやつで、堅いの、堅く無いのって車のタイヤ噛んでるようなもんや。
十秒も噛んでたら顎だるくなってくんねん。噛むのあきらめて口ん中でオネオネオネオネしてても、柔らかくならんから、出してきて元に戻しますねん。次の日学校から帰ってきてまた同じ所開けて、同じもの出してきて、オネオネオネオネオネオネ・・・5つの鯨で10日くらいもちましたからね。
そやから、牛肉のすき焼きいうたら、そりゃもう超高級食材やから、しょっちゅうというわけにはいかん。3月に1ぺんか年に4へんくらいやね。
特別の日やな。朝、子供が学校に行くのに、お母さんが見送りに来てわざわざ言えてくれたくらい。「はやく帰ってきなさいよ。今夜うちは牛肉のすーきーやーきーですよー。」子供に言うてんのか、町内にいうてんのか分からないんやけど。子供もオウム返しで「おかあちゃん今夜うちは牛肉のすーきーやーきーかー」いうて、歌会始めみたいになってやね。
学校に行っても先生のゆうてることなんか、頭に入れへん。頭の中すき焼きの事ばっか。肉がジュージュージュージュー、帳面に今夜家はすき焼きや。先生が見に来て、うらやましい・・・なんてね。
先生もフラフラで授業してましたんやで。道草も食わんと帰ってくる。
お父さんも仕事そこそこに帰ってくる。12〜3人の家族がすき焼きの鍋を取り囲んでるやなんて、和やかな中にも緊張感がありました。
ニコニコ笑いながら食べてますけど、目だけは、肉離さへんで。横むいてほっとしたらあらへんのや。見つけたら自分のは自分で手前に引き寄せないかん。この作業を怠ると、家の中で餓死するんやからね。高等技術がいるんよ。
ねぎの中に包み込んでもってきたり、焼き豆腐の横をひきずって持ってきたり。ある程度溜りますとこれが敵方に発見されんようにせんといかん。せやから肉の前に壁をこしらえます。壁の材料が糸こんにゃくであったり、東京ねぎであったり、豆腐であったりするわけです。
せやから肉の前に万里の長城みたいなのが出来上がる。いよいよ肉の塊に箸をつけようかなーと思ったら、母親も心得たもんや、鍋くるーっと回しまして。
空を切った箸で、太もも刺したことがありますけれども。
それが今や飽食の時代やなんて。大変な様変わりでございます。
もう何にいたしましても。豊かになりました。そんな当時と比べたらね。豊かになって、だんだん年配になって健康で一番過ごさなと思いますけどね。健康というのは、何にも勝る財産ですから。私もこの頃ね、いくら早く寝てもね、早く目が覚めるようになってしもうたんです。寝る力も無くなってきたんかねぇ。すぐに目が覚めるんよ。
先程もね。なんかぼんやりする事が有るんです。たまに。3日に1日くらい。ぼーんやりする事がある。ここはどこ、わたしは誰・・・その拍手はなんやねんな
今日は、最期に1つね、大阪のお方がね、こんな面白い言葉を残しんはったので、御紹介を致したいと思いますのでございますがね、浪速処世訓というのがありまして。ちょっと伊達メガネはめるわ。オシャレメガネかけるわ。浪速処世訓 面白いですよ。
歳をとったら 出しゃばらず
人の陰口 愚痴言わず
他人の事を 褒めなはれ
聞かれりゃ 教えてあげるけど
知ってる事でも しらんふり
いつでもあほで いるこっちゃ
勝ったらあかん 負けなはれ
いずれお世話に なる身なら
若い者には 花もたせ
一歩下がって 感謝して
どんなときでも へえおおきに
それが円満の こつですわ
お金の欲を すてなはれ
なんぼ銭金あったとて
あの世にもって 行けまへん。
ええ人やったと 言われる様
生きてるうちに ばらまいて
山程徳をつみなはれ
ここまではふつうや。つぎが面白いねん。
というのは おもてむき
死ぬまで銭を 離さずに
人にケチやと 言われても
お金があるから 大事にし
みんなべんちゃら いうてくれる
内緒やけれども ほんまだっせ
と、こないになっとりますのでございます。
なんにいたしましても、今日はこういうすばらしい催し物にお招きいただきまして、皆さんのお元気な姿を拝見、言うたかて暗くて何も見えませんけどね。前のステージの時に横から拝見させていただきまして、お元気でなによりでございます。これからもひとつね、明るくお過ごしをいただきたいと思います。
どうもありがとうございました。
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