2. 明治期の糸満漁民の躍進
(1)糸満漁民の県外・海外への展開
明治後半から昭和初期にかけて、糸満漁民は国内外の広い地域に出漁し、また、出漁先で新しいムラをつくって定着する者も出てきました。上田不二夫によると、糸満漁民の海外への出漁は、1906(明治39)年の糸満遠洋漁業株式会社によるフィリピン群島方面での高瀬貝、フカヒレを目的とする漁業が始まりのようです(上田不二夫1991)。このような大規模な展開を可能にした背景には、(1)ミーカガンの発明、(2)大型追込み網漁の発明、(3)沖縄本島沿岸部での漁場排斥、(4)農村から糸満売りされた少年たちの労働力の確保などがあげられます。日本全体が恐慌に落ち込み、多くの農村が貧困に苦しんだ大正から昭和初期の時期でも、糸満漁民の活躍はどんどん広がっていきました。
国内の出漁範囲(明治中頃〜昭和初期)
上田不二夫1991 『沖縄の海人』沖縄タイムス社 P48〜51を元に作成
海外の出漁先(昭和13年現在)
「糸満町海外出稼者一覧表」 糸満町役場1940年 『糸満概観』を元に作成
(2)糸満漁民の展開を促した要因
(1)追込み網漁―アギヤー―
大型の追込み網漁に使われる網は、廻高網(まわしたかあみ)といいます。廻高網は、明治25、6年頃に金城亀という糸満漁夫がグルクンを捕るための網(底刺網)を改良して作ったのが最初だといわれています。廻高網を使う漁には多くの人を必要としたため、山原や奄美などから「糸満売り」されてきた少年たちがそれを支えました。年季を終えた少年たちの中にはそれぞれの故郷に戻って追込み網漁を伝える者がいて、沖縄中に糸満独特の漁法が広がることになりました。
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廻高網の文献上の初見。玉城五郎「漁業組合設置手続の順序万法」。 (琉球新報 明治35年12月27日) |
ミーカガンの発明
1884(明治17)年、糸満の玉城保太郎がミーカガン(水中メガネ)を発明しました。
ミーカガンの発明によって、潜水能力が飛躍的に向上しました。貝を採ったり、海草を採ったりする潜水漁業でまず効果を発揮し、次いで追込み網漁業に用いられました。
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