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図5 TS(Terminal Special)
 食品の種類, 時間帯, 調理方法, 分量あるいは摂取方法など通常食種の範囲での摂取が不可能になった場合で, 経口摂取の可能性を維持したい場合に適応される。
 対応としては, 可能な範囲での希望にそったものとする。したがって, それぞれの病態に適応したものであれば, お出しするものの形態は流動物に限らない。また, 時間帯も規定に縛られない。
 
 
図6 在院中の食の変化
 
 
表2 Aさんのプロフィール
年齢41歳(女性)病名 子宮頚癌(術後再発)人工肛門
家族 夫・長男(小学生)
入院期間 130日間
 
問題点
・食欲の亢進
・イレウス(嘔吐・下腹部痛)
・膣からの分泌物
・精神面(病状への不安・子供の今後・等)
 
 
表3 Aさんの消化器症状と食事の経過(130日)
2000.8/3〜9/20
(48日)
9/21〜10/31
(40日間)
11/1〜11/30
(30日間)
12/1〜12/11
(12日間)
食欲亢進期 イレウス憎悪期
前期
イレウス憎悪期
後期
最終末期
院内の食事では足りないほどの食欲。食後胃の痛みがあり、下腹部に移る。 腹部痛続く。時折激しい痛み。イライラするが諦らめも見られる。痛みがない時は食欲も維持。 直ぐ疲れて食欲もない。胃のつっかえ感、腹部に張り感がある。食事はほとんど摂れない。 体動時にいきなり吐く。脱水と口渇の状況。数口の水分摂取で食後の腹痛出現する。
 
日常のホスピスの食
 
 ピースハウスでの特徴的な食種のひとつに, TS(terminal special)食といわれるものがある(図5)。しかし, これは特別な食事を出すことではない。定期的な食事が困難であったり, 固形食が苦痛である場合に用いられ, 今までの時間や回数, 形態にしばられずに食物が自由に摂れるよう配慮されたものある。
 ピースハウスの平均在院期間は現在37日であるが, 入院直後の時期には56%が常食, 8%がTS食となる。そして最終末期には23%が常食, 44%がTS食へと変化していく(図6)。一般的な食事の概念から見ればTS食の内容や量は食事とはいえないかもしれないが, ホスピスの患者さんにとっては大切な食事である。シャーベットやゼリー, スープなどもこの時期に希望されることが多い。
 ここでもう少し患者さんの日常に近づくために, 2人(A・Bさん)の事例を紹介したい (表2)。
 
<事例1 Aさん>
 Aさんは40代の女性, 原発は子宮頸がんであった。食への欲求とは裏腹に, 癌性腹膜炎によるイレウスに悩まされた。4カ月にわたる在院期間のうち(表3), 最初の1カ月余りは, 痛みなどの症状コントロールができ, 時折下腹部の痛みが見られるほかは院外のレストランで食事を楽しむことができるほど体調がよい時も多かった。2カ月目に入ると, ステロイド剤の投与による食欲亢進が見られ, 適量とされる1,400kcalの食事では空腹感が強く, 満足できない状態が続いた。精神的にも, 小学生の息子の進路について夫との意見の相違があり, 母親として子供の世話を十分にみることのできない悩みや憤りを食べ続けることで打ち消すかのような時期であった。その後の1カ月余はイレウスの憎悪が見られ, 少量の食事さえ激しい痛みの原因となった。残りの41日では体力の低下に加え, 腹部膨満感や吐気が出現し, 次第に食欲は落ちていった。
 最後の41日間を彼女の言葉で辿ってみると(図7), 以下のようである。点滴をしてほしいとの家族の提案に対し, 「点滴でよくなるならばやりたいけれど。病気はよくならないでしょう」と, 自分の病状を確かめるような発言。その後は普通食はほとんど摂れない状況になったが, 「食事が摂れていないことは苦痛ではない」。しかし, 「母親が少しでも食べろと食事を勧めることが苦痛である」と訴えた。
 亡くなる20日前にはスタッフがイレウス悪化のため欠食が続いたことから家族と相談し食止めとした。しかし, その翌朝食事が配膳されないことがわかると, 「自分の食事はなぜ出ないの」と促された。その時はレモンティーやスープを出し, その後は消化管の状態から見て水分摂取を主体とする流動食を続けた。亡くなる2週間前には, 流動食でなく普通のご飯を食べたいとの希望があり, 普通食の4分の1量のミニチュア食に変更した。たまたま出た昼食の好物のスパゲティは美味しいと召し上がり, 嘔吐や腹痛もなく, 介護される家族も驚くほどであった。その後, 再びイレウス症状が強くなったが, 「食べると痛くなる。だけど食べたい」と食に対する思いは最後まで続いた。
 Aさんの場合, 40代という若さで, お子さんも小さくまだまだ生きて夫とも和解して妻や母親としての時間を持ち, 子供の成長を見届けたい思いがあり, それが食べて生きながらえたいという痛切な思いにつながったのではないか。また, 終末期には食べられない自分の傍らで家族が食事を摂っている気配を感じとって, 徐々に家族の絆から切り離されつつある自分の存在に, 強い喪失感を持ったことも推察される。Aさんの食事は4カ月の中で18回の食種変更を行った。
 
図7 41日間の食の軌跡
*1 食事も今は丁度良いし, 空腹もさほど感じない。
 私はどちらでもいいの, 点滴で良くなるのならばやりたいけれど病気はよくならないのでしょう
*2 自分としては現在食べられていない事など苦痛は感じていない。ただ母親が心配して食べろ食べろということは負担に感じている。
*3 私の朝ご飯は?看護婦さんが持ってきてくれるといったのに, レモンティー入れて。
*4 夕食に夫の作ってくれた蟹のスープを飲む。またコレ・・・このメニュークリア流動だといつも重湯に味噌汁, それにレモンティーがつくだけ。
*5 食べると痛くなる。だけど食べたい。
 
 
図8 
「きれいだね, こういうの作ってくれる心がうれしいね」
 
<事例2 Bさん>
 一方, Bさんは食べられないことを受け入れた例である。「もうそれほど長く生きたいと思いません」と語り, すでに手術適応ではないと診断された胃腫瘍の増大による嘔吐と胃部の圧迫感のために思うように食べられないことを受け入れておられるようであった。しかし, 通常の3分の1量に調節された普通食を我慢強く食べることはあきらめず, 「がんばれ, がんばれ」と自らを励ましながら食事を摂り続けた。まもなく食物をほとんど受けつけなくなられたが, 点滴も受けないと自分で決定された。その決断の際, 「よくがんばったよな」と自ら言い, 清々しい笑顔を浮かべられ, 2週間後に静かに亡くなられた。ベッドで休んでいても海軍仕込みの背筋の通った姿そのままで, 秋の行事食ももはや口にされることはなかったが, 食事の作り手を労うことは忘れなかった(図8)。最後まで人間としての品性を保つことにこだわられた方であった。
 AさんやBさんの生への価値観は上記のように一概に論じられるものではないことは承知しているが, ピースハウスという医療の現場で見られた“食への思い”をお2人の態度を例にして説明してみた。
 
物語を語る食
 
 さまざまな生き方をその時々で投影しながら移り変わる食事への訴えは, 必ずしも同一に処理できない多くの問題を内包している。ホスピスの食事は, まず何よりも, 生物としての人間を生理的に養い支える働きをする。宮澤賢治が妹のトシを結核で亡くした際に詠んだとされる「永訣の朝」の「あめゆじゅとてきてけんじゃ」とは「みぞれをとってきて」とトシが賢治に頼んだ情景である。ホスピスでも, 氷片を患者さんは望まれることが多い。そして家族はしてあげられる最後の, しかし, それで終わりだとはとうてい認めたくない思いで, 氷片を口に含ませる。賢治はその鋭い感性で, この妹の願いに対して, 「ありがとう私のけなげな妹よ, 私をいっそう明るくするためにこの雪のひと椀を頼んでくれて」と言っている。
 このように, 多くの家族の物語に“食”はしばしば登場し, 家族, 友人, 時にはスタッフも加わりながら, それぞれの物語が1頁, 1頁と繰られてゆく。その時必要なことは, 家族と食べること, 思い出の食事, あるいは氷片。そして時には食べないことを選び取ることでもあるということを知り, “食”のもつ意味を理解しなければならないと考える。







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