対談
「ろう教育のあした天気にな〜れ」
板橋正邦(社団法人福島県聴覚障害者協会顧問)
森井結美(奈良県立ろう学校教諭)
板橋/お久しぶりです。今日はよろしくお願いします。安藤理事長の立派な報告が終わって、さあ大変。私がその後に何を言えばいいのか、頭のなかがまっしろになりましたので、ご協力よろしくお願いします。
森井/私の方こそ、よろしくおねがいします。
板橋/まず、私、地元ですから、遠く奈良からお出でになった森井先生にお聞きしたいことがあります。よろしいですか?ひとつめ、森井先生、長い間毎年のように福島ろう学校の演劇を見においでになっていますよね。なぜなのか。何がやみつきになったのか、お話いただきたいと思います。
森井/たぶん、ここにいらっしゃる皆さんも「地元の板橋さんが話すのは当然だけれど、奈良の人間がなぜ?」と思っていらっしゃると思います。奈良のみんなにも「どうして?」と尋ねられました。対談というのは、関西ではつまり漫才なんですよね。おもしろい話のできる人が対談をする。「あなたには無理とちがう?」と言われました。
でも、今おっしゃったように、私は福島聾学校の演劇活動が好きで好きで、何回も通っています。10年くらい前に、当時指導しておられた青木先生の研究発表を聞かせていただいたのがきっかけです。ろう学校の演劇が一般の高校生と同じ土俵の上で評価をされている、そして生徒たちが表現を通して成長していくというお話に惹かれて通い始めました。家族が「福島に好きな人がいるんじゃない?」と心配したくらいです。そうしてたびたび通ううちに、板橋さんともお話させていただく機会があったわけです。
板橋/本当にお世話になっています。
森井/こちらこそありがとうございます。今日基礎講座に参加された方は、福島聾学校の演劇の魅力を少し経験されたと思います。コンクールで賞を取るから素晴らしいという見方もあるかもしれませんが、演劇を通していろんな事を生徒さんたちが経験し、演じる中で成長していくのが素晴らしいんです。特に高等部は聞こえないことを柱にした脚本が多いです。例えば「聞こえないから無理、仕方ない、我慢。そうじゃないでしょう!」そういうセリフが出てきて、繰り返し考えたり表現することで、生徒さん自身の心の中も整理されてくる、そして変わっていくのです。
初めて会ったときに小学生ぐらいだったお子さんが、今はもう大人です。昨日の交流会で司会や進行で活躍しておられました。演劇活動を通して人との付き合いも学んでこられたと思います。演劇の指導に、ろうの方々や専門家の方々も、全国から色んな人がやって来て関わっておられました。生徒さんたちが、演劇を通していろんな人と出会い、お付き合いする経験をすることで、また自信を持つ。そういう変化みたいなものが好きでずっと通いました。板橋さんにお目にかかることだけが目的で通ったわけではありませんが、板橋さんとも話ができるようになって、とても有り難いなと思っています。
板橋/何か、森井さんから質問がありますか?
森井/板橋さんは大会冊子に、「初めて会ったときに、森井さんの手話がこんな(小さい)手話だった」と書いていらっしゃるのですが、それは板橋さんがろうあ運動でとても有名な方なので、恐れ多くて縮こまった手話になったのです。それともう一つ、私にとって「板橋正邦さん」という名前をしっかり覚えておこうと思ったきっかけがあったんです。それは教師になりたての頃に、先輩から勧められた本がありました。
スライド(1)
●蛇の目寿司事件
1965年9月19日、午前0時30分頃、東京都台東区上野6丁目「蛇の目寿司」店内で、ろうあ青年2名が飲食中、他の健聴客が手話をジロジロ見て笑っているのを制止しようと顔と視線の向きを変える行動に出たことで起きた争いごとに、店主が仲裁に入って、もめ事の最中に店主が打ちどころ悪く死亡した。障害致死事件として数度の公判を経て、それぞれ刑に服した。
警察・検察・裁判法廷における手話通訳のあり方や刑務所内での聾唖者に対する処遇・教育等について、「2人のろう青年を守る会」は問題提起し、全国的な支援活動をおこす。
わが国の手話通訳活動の原点の一つとされている。
スライド(2)
A 単行本『蛇の目寿司事件』記録表紙カバー
B 板橋証人の証言記録、見開きページ |
|
「蛇の目寿司事件」という本、知ってる人はどれくらいいらっしゃいますか?手話通訳者の方はご存知だと思いますが、裁判での手話通訳の必要性が言われ始めた事件ですよね。蛇の目寿司というお店に行った二人のろう青年が手話で話していた。それを聞こえる人達がジロジロ見る。昭和40年の頃ですから、手話もろう者もまだまだ理解されていない時代。「見ないでくれ」と言ったけれど、やめてくれない。そして揉み合いになり中に入った店主が転んで亡くなった。その裁判の証人として板橋さんが発言された記録が載っていたんです。他にもいろんな方の証言がありましたが、当時の私には板橋さんの証言が深く心に残りました。このような機会なので一度お話ししてもらいたいと思っていたのです。
板橋/この本は、いま、絶版になって売っていません。なぜかというと、2人とも刑を受けて、その後、社会人として働いていて、また、家族も子供も大きくなっている。今、新しくもう一度作って発行することについては、家族の了解を得る必要があると思っているうちに一方が亡くなった。どうするか、まだ決まっていません。でも、今話されたように、私は証人として東京裁判所に行って証言をしました。何回も公判がつづきました。刑が決まった後、控訴をしたときに、松本晶行弁護士が書いたものがあります。第一回の判決の時、刑期の決め方、量刑が合わない、重すぎると言うことが書いてあった。刑務所のなかでは、雑居房で、4人部屋とかあり、また、独房とかありますが、独房の方が重いです。その独房にいるのと同じく、ろう者が一人ですから、情報も知らせてもらえない。刑務所のなかではラジオを聞いたり本を読むなど、自分で考えて頭の切り替えをしていくという説明があったが、ろうあ者としてはそれが使えない、と言うことで量刑がふさわしくないと書いてありました。この運動を通して、手話通訳の大切さ、必要性というものが、広がってきた。日本の手話通訳運動の原点の1つになっています。
森井/一昨日、板橋さんに久しぶりにこの本を見せてもらって、改めて読んでみると、証言の内容は、手話通訳の必要性やコミュニケーションの問題などを語っておられるのです。が、当時の私には何か「これはすべて教育の問題だ」というふうに感じたんです。それでひどくショックを受けました。当たり前のことなんですが、人が捕まってしまう、そしてその後の裁判の問題、そんなことまで含めて、教育上の責任ってすごく重いのだと非常に心に残りました。きこえない仲間として証言されている板橋さんも、聞こえない人はみな同じ思い、つまり教育問題を抱えているんだ、と。それで板橋さんというお名前は忘れられなくなりました。ずっと後になって福島の演劇を見に行ってお会いするたびに、「あ、蛇の目寿司の板橋さん」だと思い、そのたびに手話が縮こまってしまったわけなんです。
福島のろう協会や同窓会、いろんな方が聾学校の演劇活動を支援されているんですね。板橋さんも生徒さんと話していらっしゃるのを見ていると、ただ先輩として話やアドバイスするだけではなくて、なんだか「板橋先生」みたいな雰囲気を感じるんです。くわしく伺うと、先生になろう、教師を目指そうと思ったこともあったそうですね。なるほど、だから「先生」というものが板橋さんのなかにあるのかな、と私は納得したことがあります。そういうお話もしていただけますか?
板橋/この集会をいままでやってきて、今回15回目です。第1回目を始める前に、全日本ろうあ連盟のなかで、後援することに賛成か反対かと揉めました。けんかではないのですが、この集会を援助する必要があるのか、無視したほうがいいのか、という議論が行われたわけです。この第1回目のこの集会、始めるときに、我々、全日本ろうあ連盟のなかでの捉え方、この集会の目的は「手話をろう教育にカリキュラムのなかにきちんと入れてほしい」という要求があったわけです。それ以降は、口話教育は反対だとか、口話教育の批判という声も出るであろう。誤解のないよう強調しますが、全日本ろうあ連盟は一度も口話教育に反対したり、排除したりしておりません。そのころ、口話教育というのは、中国の軍隊や戦車、というのと同じでした。天安門事件の二の舞になると言う意見もありました。イコール、口話教育を批判するだけでなく、手話も必要であるということを言うと、必ず文部省や学校からつぶされるのではないかという、天安門事件というのはどうしても、ろうあ運動の歴史のなかで重なる部分があるわけです。
スライド(3)
●天安門事件
1989年6月4日、天安門蜴を中心にこ起きた、民主化運動の武力弾圧事件。同年4月の胡耀邦(コヨウホウ)の追悼式をきっかけに広がった学生らの運動が、「反革暴乱」として鎮圧された。
|
|
先生になりたかったお話もしたほうがいいですか?森井先生が聞く予定になっていた1つが、私がろう教育の教員免許をとる2年課程のうちの1年でやめてしまったのがどうしてか、と言う質問があったわけです。そのころ、ろう学校のろうの先生というのは、今日のこの会場に沢山いると思いますが、私が悩んだ悩みの理由の一つは、ろう学校の聞こえない先生イコール校長の番犬、シェパードとか、ブルドックとか、そのように扱われている、という例があったわけです。今もそういう方もいるかもしれません。顔を見て、あ、この人だというわけではありませんが、そのような立場で資格を取ったら、絶対板橋のように書ける、読める、しゃべれる、手話も出来る、生徒を殴ってこらしめる、恐いものがない―そういう男が先生になっていいのかどうか、という悩み。または、はやく働いて給料をもらって結婚したい。あと3年も大学に入って仕送りを続けてもらうというのを比べると、やはり早く結婚したいと思い、早く働きはじめたわけです。
森井/教員になるのは途中で辞めたとのお話ですが、学校の外側にいらっしゃっても、ろうあ運動の中でろう教育の問題にも取り組んでこられたのは、やっぱりろう学校の中が気になってしょうがないという雰囲気も見えるのですよね。その辺りはずっとお気持ちが残っているのかなぁと感じております。
板橋/教員養成課程の1年目で辞めた、中退をしようと考えたのはお正月でした。校長の家に呼ばれました。校長と東京教育大学本校の教授とか、教頭先生とかが待ち構えていて、続けるように説得されました。けれども、どうしても中退するという気持ちが強かったので、最後に校長、大学の先生も板橋は野に置いた方がいい。真面目に宮仕えするのではなく。野に置いた方が大きくなるだろうと言いました。おだてているのか、けなしているのか分からないけれども、そのような言い方ををされて、よし、中退しようという気持ちが固まりました。ただ、ろう教育についてはその後、ますます関心・興味を持つようになってきます。全日本ろうあ連盟の中で教育対策部ができる前は、企画部という名前でした。教育や文化、手話対策、福祉対策、労働などの問題をまとめた部です。その企画部長をやって来ました。文部省との交渉や日本教職員組合の方や校長会と話したりとか、積極的に行って交渉しました。そんな思い出があります。
森井/板橋さんから「いつか奈良ろう学校を見に行くぜー」と言われたことがありました。遠いのでまさか実現しないだろうと思っていたら、何年前でしたか?
板橋/全国ろう婦人協会が奈良でひらかれた時だから、6年前か7年前かなあ。
森井/本当に来てくださって、一日奈良ろう学校を参観してくださいました。「おれは本当に来たぜ!」とおっしゃったのを覚えています。学校をご案内して、高等部から幼稚部まで見ていただいて、すごく楽しかった思い出があります。
板橋/その時、非常に感動した情景がありました。幼稚部とか、小学部低学年の子供が早く帰りますね。お昼過ぎだと思いますが、お母さん方が車で、また電車で子供を迎えに来ます。それを見ていると、ろう学校の先生もお母さんも手話と口話で話している。その傍らで子供達が友達と一緒にお母さんと先生の会話を見ながら、安心して遊んでいる。私が先生になるかやめるか考えていた頃、そういう状態を見たら、頑張って先生の資格を取ったと思う。非常に羨ましいなという気持ちがあって、先生とお母さん、どちらも聞こえる人ですが、手話も一緒にお話しているというそれだけで、子供の気持ちが開放感を持って、のびのびとやっているというのが素晴らしいと思っています。それはいつ頃から変わってきたのですか?先生や親がみんな賛成して手話を入れるようになったのでしょうか?
森井/あの場面が忘れられないと何度も言ってくださるのですが、こちらとしては、そんなに気をつけている場面ではなかったので、あ、そうなんだ、と逆に気づかされました。よく考えてみると、幼稚部から手話も使うようになったのは11年くらい前からなので、そのへんの変化は、たしかにあるんですね。先生と子どもが話すときはもちろんなのですが、聞こえる大人同士、例えば先生とお母さんが喋る時も手話が伴うようになったというのは、やっぱりろうの先生が来てからですね。7年前に、ろう学校を卒業したろうの先生が採用されました。採用されたときに、どの部で入ってもらうか、取り合いしました。最終的には、親御さんにとって貴重な経験になるからと説得した幼稚部が勝ちました。毎日毎日私達はろうの先生と過ごすようになったのです。親や教師同士の会話にもいつも手話がつくようになったのはその頃からだと思います。
奈良ろう学校は、幼稚部は遊びながらのコミュニケーションと言語獲得を大切にしているので、親御さんは付き添いではないのです。朝こられたときに話をする。帰りにお子さんをお返しするときにまた話をする、その場面は親御さんと教員の大事なコミュニケーションの時間です。どのクラスも2、3人の先生がチームで担任しているので、ろうの先生が見て、ここであの話をしているな、とわかる必要がある。それでみんなが自然に手話をつけて連絡する事になったんです。
聞こえる者ばかりで手話をちゃんとやろうとしても、案外漏れているところがたくさんあると思うんですね。無意識でもいい、ろうの人と一緒に進めていくとやっぱり手話が変わりますね。それ以上に、振る舞いというか行動がもっと変わりますね。例えばちゃんと目をみて「オハヨウ」と言うとか、「ながら会議」はしないとか、絵本を見せるときにちゃんと見せてから喋るとか、細かな行動が変化して、全てではないけれど自分の習慣になる。その結果、聞こえる親御さんと聞こえる教員が喋るときも手話がつくというような状況になってきたんだと思います。
板橋/少しさっきの話しに関係しますが、今時は、石を投げればろうの大学卒にあたるというように、ろうの大学卒業生はたくさんいます。ですが、私達の頃は非常に少なく、松本晶行弁護士や高田英一さんとか、中西喜久司先生とか、10人ぐらい。全国でです。私から見ると、その頃、私は、貧乏な印刷所の職人でしたので、何も苦労して大学に入らなくてもいいのにという気持ちがありました。アメリカの大学で、白人だけ入れる、黒人は絶対入れない大学が南部にあって、有名な問題です。結局、ケネディ大統領が軍隊を出して、白人が黒人を虐めるという騒ぎを鎮圧して、一人の黒人大学生が大学に入れたという事件がありました。私の友達にも大学に通っているろう者がいましたが、この人達は、ただ親のすねをかじるだけでなく、頑張って勉強しているのだなぁ、将来世の中が変わるだろうなぁという気持ちが起こりました。大学卒業でない私とか全日本ろうあ連盟理事長の安藤さんも、大学卒の人と仲良く交際ができる、それがろうあ運動の中の非常に素晴らしい面であると思ってます。
スライド(4)
●ミシシッピー大学事件
1962年9月、ミシシッピー州北部オックスフォードにあるミシシッピー大学ヘジェームズ・H・メレディスという名の一人の学生が、初の黒人学生として入学を果たした。
これに対し多くの白人がバリケードを築いたり、彼の大学キャンバスに入るのを妨げたり大暴動が起きる。
州の法律・州兵の出勤などがあり、合衆国軍隊が当時のケネディ大統領の決断で派遣され、メレディス青年の入学が実現した。
|
|
森井/板橋さんが、ろう教育に関わってきて、最近特に考えていらっしゃることをお話しいただきたいと思います。
板橋/この集会の資料を3日間かけて全部読みました。非常に日本手話という言い方が多いです。全日本ろうあ連盟が作って発行した厚い手話辞典、18,500円のあれは、日本語と手話を比較するものではなく、同じものであるという価値観を社会的に広めるために作ったものです。6年かけて編集して作りました。皆さんの中にも、ろうあ連盟ににらまれると困るから仕方なしに18,500円で買って本棚のブックエンドにしている人がいるかもしれません。やっぱりこの日本語と対応できるということを出す必要があったわけです。そのような手話表現の流儀とか形とかで差別がある場合、あの板橋の変な手話はなんなのかと言われると思う。改めて、自分を考えて見ると、日本語口話教育的・音声言語対応手話というような本当に面倒な言い方になるわけです。手話のやりかたや形、声を止めるとか、そのような事で手話を差別してはダメだと私は思っています。自由に子どもたちがきちんとした手話を覚えてもらう。でも、段々成長するとともに、仲間のなかで珍しい手話を発明してコミュニケーションをするのは構わないと思うのです。構いませんか?
スライド(5)
●わかりあえる手話が最善では?
「日本手話」って、何?
「日本語対応手話」って、何?
(アメリカでは「シムコム」と軽蔑されているものの日本版)
「日本語口話教育・音声言語対応手話」って、何?
流儀や形の用法によって、表現や理解の度合いを差別してよいのだろうか? |
|
森井/確かに手話で生活している人に対して「手話が違う」と言う権利は誰にもないと思います。でも、小さい子どもたちの手話を見ていると、子ども集団があって、その中で育ってくるものにはやはり日本手話的なものを感じます。そこをしっかり見ていかないと、子どもの表現がきちんと受けとめられないことがあります。日本手話について学ぶことで「あ、なるほど」と理解できる部分がたくさんあるのも現実だと思います。ろうの先生はやはり子どもの表現をきちんと捉えることができるんです。
もう一つ、口話についても考えていらっしゃることがあるとのことでしたが・・・。
板橋/少し、この大会誌の119ページに東京の品川ろう学校の親の会かと思うのですが、板垣さんが書いた文章があります。今でも、「手話と比べると、口話教育のほうが上である」だとか、親に対して「手話を覚えると、ことばの獲得が遅れる」という言い方をする先生方がいます。考えてみると、例えば、奈良ろう学校の場合、「手話をやると日本語の獲得が遅れる」というのは、それは死語になっている。確か、そういうFaxがあったと思います。学校によっては、いろいろなやりかたがあると思います。が基本的には、板垣さんが書いたもの、「水俣学」という表現、スゴイと思い、感動して読みました。その時感じたことが、今出してあるものです。口話教育を始めた人たちは本当にろうあ者を人間として扱う、そのためには、口話教育が大切だということで、頑張ったと思います。そういう先輩がいたと思います。けれども、現代に近付いてくると、手話を排除・弾圧する方に力がおかれ口話、発声、補聴器、といった方が、食っていくのに困らないという教育、「口話教育マフィア」というのがあるのか、聞きたいけれども、その一方で口話教育の立場からみると、全日本ろうあ連盟とか、今日の集会とか、連盟が出す手話の本とか見ると「手話マフィア」と出てくるかもしれない。そのような考えかたもあります。
スライド(6)
●口話教育ファミリー=一家意識?
「口話教育の既得権益」というのは存在するのか?
「口話教育マフィア」とは?
口話教育の先覚者・ドン・ボス
=強固な砦・網の目
↓弟子(校長・文部省・各県教委へ)
↓孫弟子(教員養成大学教授・各県教委など)
↓ひ孫弟子(校長・文部省・教委・指導主事など)
↓玄孫(やしゃご)弟子(現場の口話一辺倒教師) |
|
森井/「手話をやると発音が出来ないなんて、もう死語です」というのは、オーバーかもしれませんが、手話を視野に入れて行動を始めた親御さんにとってはもう、手話を抜いて何かをやろうという発想はないんですね。手話があることを前提にして、その上に学力や社会性の獲得が広がってくるので、根本にある手話を除外することは考えられないんです。やっぱり、どんな子になってほしいかということが先で、方法は後からついてくるんだと思います。そういう意味で「手話を覚えると声が出ない、社会参加出来ない、だから使ってはいけない」という考え方はなくなってきたと思います。
もう一つ思うことがあります。ある先輩の先生がろう教育を30年続けて退職される時に、こうおっしゃったのです。「残念!手話が入って、ろうの先生がちゃんと来て、やっと普通になったのに。スタートラインに立ったのに・・・」今辞めるのは惜しい、もっと続けたいと。それだけの年月をかけて努力する魅力のある仕事だと、私も思っています。そう考えたときに、人事異動の問題は、どうなのでしょう。8年、10年で終わり、交代。教員側の問題として人事異動の話はどんどん進められていますが、当の子どもにとっての教育サービスはどう考えられているのでしょうか、教育を受ける側に立って、人事異動の問題は考えられているのだろうか、これを強く言いたいのです。
もう一つぜひ言いたいのは、手話をベースにしてきちんとやっていこうとすると聞こえる先生は大変です。それまでの補聴器や言語指導などの研修の他に、きちんと手話を学ぶということは大変なことなんです。ところが良く考えて見ると、子どもに必要だから手話を学ぶのは当たり前のことですが、「子どもたちに手話はいらない」あるいは「否定はしないけれども使わない」と判断するならば、もっともっと深く手話のことを勉強したうえで使わないと言うべきなのではないか、そんなふうに思うことが時々あります。
スライド(7)
●アメリカ黒人解放運動指導者キング牧師暗殺事件
マーチン・ルーサー・キング、
1929〜1966。アメリカ黒人解放運動指導者。アトランタ市生まれ。
1954年からアラバマ州モントゴメリー市に牧師として赴任。数度に及ぶ投獄や迫害にもめげず、市民権獲得闘争や平和運動の全米的な展開に貢献したが、メンフィス市で演説中に暗殺された。
|
|
板橋/「そろそろ時間です。」とのことです。最後に、子どもたちに、どの様なこと、どの様に育って欲しいかで、問題で締めくくりたいと思いますが、構いませんか。私、だいたい6年に1度か10年に1度、高等部の生徒たちにお話をすることがあります。先生方のなかで、まだ板橋生きているのか、まだ死んでないのか、と思う先生もいるかもしれませんが、まだ、使えます。と自分では思っています。その時いつも思うのは、黒人差別解放運動を頑張って若くて死んだ、この牧師さん(キング牧師)、いろいろと、黒人の社会的な地位を高めるために心細やかに気配りして、組織を指導した。それを頭に入れて、生徒達に黒板に絵を描いて話をします。社会に出て、まわりはみんな聞こえる人で一緒に働いているという時、皆さんはトイレットペーパーをむっしって使うことはやってはいけない。折りたたんで出るとか、ペーパーがなくなったらどうするかとか、いつも何処にペーパーがあるのか、自分で使い終わってペーパーがなくなったら知らんぷりして出ないようにセットしなおすとか、そういうこと。またトイレの話ですが、トイレのサンダルがバラバラなっていたら揃えて出る。時間的にも3〜4秒の時間しかかからないので、やるように努力してほしい、と生徒達に話します。なぜかというと汚い状態のまま他の聞こえる人がはいると「あぁ、今年入ったろうのあいつが」というような見方になる。人が見ていないところでもきちんとやりましょう。という話をします。もうひとつは、昨日、大杉さんの講演にもあったように、ニューヨークヤンキースのチームのなかに、聞こえないバッターがいる。松井選手と一緒に外野を守っている。その彼の名前はプライドといいます。彼は途中であきらめないでいろいろ苦労しても最後まで頑張る。負けていても必ず最後まで頑張るというふうに書いてあります。それをろう学校の生徒、高等部を卒業して社会に出たり大学に入ったりする人達にきちんと身に付けてもらいたいと思って、話を締めることにしています。これは読みにくいかもしれませんが、昨日大杉さんが同じ様な話をしました。だぶっても構わないか許可をもらってありますので。司会の方で後何分と気を使っていますので迷惑かけないように終わりたいと思います。構いませんか?じゃ、終わりましょうか。昨日の晩、一昨日の晩と飲んで疲れて眠い人もいると思いますが、頑張って諦めないで見ていただいて、私もあちこちで眠っているけれども、諦めないで話を続けました。これで終わりたいと思います。
司会/皆さん、拍手をお願いします。
|