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 全く困った事も有りました。日本内地で諸計算、諸々の図面を完了させ、持参したのは良いのですが、現図を全く理解しない・・・という事は思っても見なかった事と 更に現図場とする場所もかなったのです。解決方法は、雨漏りする土間に近い硬木張りの曲った床を断面丈は画ける現図場としました。うす黒い硬木ですから、墨も良く見えず、先方から借用したゴ粉の糸墨も床に粘着せず、すぐ落ちるので釘でキズを付けて線とする訳です。少し変に思うでしょうが、この地は電気が無く、この事務所内の極くわづかの天井の暗い蛍光灯もヤード内の小さな〃〃ガソリン発電機のおかげなのです。従って線が見える程に明るくする・・・は及ぶべくもないのです。一般肋骨は、断面がナックル型ですから、この高さや巾の定木を作り、現場を主人にまかせ、肋骨の削り角度はこの断面から測り指示し、斜肋骨は1/10図を画いたものから、この床面に写し、平面から正面図を採り、床に画き、断面の削り勾配を出し、硬木の型を作り(この地に軟材は無い)肋骨を挽かせる所まで来ましたが、之等の作業は私一人丈の作業で、この時程、経験が有って良かったと思った事は有りません。木船建造工程の一連の作業を経験してしない人なら、全く途方にくれる所です。肋骨は当然、製材所又は帯鋸を設備して・・・と考えていたら、製材所は近所になく、曲げて挽く鋸(帯鋸バンドソー)は無かったのです。製材所のそれはラジエターの付いた自動車エンジンが小さなトロッコに乗り、之に水平方向に廻る帯鋸が連結しレールの上を人力で走るのです。従って原木(丸太)は床面の盤木から鎹で止められてます。上方から順に挽き、次々と人の手で外されます。・・・肋骨はどうするのかとあわてたらヤードの主人はあわてるなと手で制して運河ぶちへ案内してくれました。それは正に東海道五十三次の画の様な大工の図でした。
 
 
 初期調査の結果は、構造について余り現地を信用する事は無理と訳り、日本式で行こう・・・と計画図面もその様に進めたのですが、色々と困る事も有りました。向うの人にすれば斜肋骨自体が不可思議なものであったでしょうし、(何の為にこの様に面倒な事をするのかが後で訳り、主人も大変に感心しておりました)けれど仕事は始めから終わりまでの作業内容が訳らないので、又々、30年程前を思い出しながら、挽いて、削って、彫って、取付まで、1本の斜肋骨をやって見せる結果になって終いました。満足な道具さえ持っていない大工さんばかりなのです。鉋は1丁(押型)のみ1丁、鉞は小さなもの、指金なし、小さなスコヤ1丁、はづみ車の付いたひもで廻すドリル、電気ドリルはヤードに1丁丈・・・日々建造工程は延び、毎日の様に東京へ速達の航空便を出す始末でした。さて、大きく曲げなければならないものは、燒曲げが有りましたが炭火を篭に入れて、該当する材料に下げるという中々面白いものでした。
 
 
 心残りは、部の梁圧材を取付けられなかった事です。之は日本では2ツ割にして嵌込む方法を採るのですが、現地の大工さんに構造工作を、どうしても理解してもらえず、仕方なく、肋骨を挟む内外の板を水密にして間に合わせた次第です。全長23m位の漁船では、之丈頑固なものは、現地では皆無、主機関の120HPも始めて排水量も吃水1M.300とそれ丈大きく、運河への進水、運河を4.00km程も下って、シヤム湾近くへ出す迄色々と苦労しました。浅くなつて河の中での立往生もありました。操舵機も戦車部品を集めて作り、砂地の浅い湾を出て、一週間に及ぶシヤム湾での操業試験は、その夕焼の美しい事と共に忘れる事が出来ません。でもこの事業も間もなく北からの反攻が始り1年少々のベトナムも2隻の建造丈で終る事となりました。
 
 木船の直接作業では有りませんが、多少木船に関連して参考になる事と考えますので少し説明します。これは外板の船食虫からの防止方法と云いましょうか、簡単で割合と安価である事が魅力です。材料は6角金鋼(1,2φm/m位)セメントモルタル、丸釘少々、但し柔材(松、杉など)の外板では丸釘が利きませんから利用無理かと思います。(之はセメントを支える丈の丸釘と外板間の把握力が必要のため)吃水下に丸釘で6角金鋼を張ります。特に吃水辺は丸釘を心巨100〜120m/mとする。一般は300〜400で所々を1層目、2層目、3層目のお互いが重ならない様注意することです。3層で約20m/m〜24m/m位となりますが、この上にセメントモルタルを塗ります。モルタルは金鋼表面より5m/m以上、覆われる様考慮します。
 
 
 之等は、フェロセメント船の仕様からのヒントと思われます。
 
 インドネシアは木船が2度目の海外ですが、私は勤務をリタイヤ後の仕事です。之はアジア開発銀行が漁船建造資金を貸付けるに当り、『前回では30隻中、8隻が進水即沈没し、資金の回収に支障を来たしたが、今回は、それを上廻る隻数であり、構造や現地の状況を調査し、アドバイスの資料などを報告はして載きたい』との様な事で担当1人、技術担当私の2人旅でした。ジャカルタから東の4〜5ヶ所のため、セレベス島−ニューギニア島まで参りました。感じた事は、せっかくS-40年代に日本へ留学し、木造船技術を習得した方も、その後の政変で、木船建造の方針は失われ、国立の立派な設備さえ見捨てられ同然、人材も隅に追いやられ、国の政策が無いまゝ細々という現状で日本からも人を出して教えた事も何も実が成っていない・・・と言う事です。一方ニューギニアのネシア領内では、ニューギニア現地人を優先的に雇用する方針を採り、人数丈はたくさん居るが教える人材が無い・・・という様子。もっとも木船事情に於いては、広いインドネシアも、スマトラ中部以北でなければ良い船材は無く、この地(漁業公社で経営しているヤードと、かつお節工場でニューギニア西端)でも木材はスマトラから採って来ると云い集材も大変の様でした。・・・では・・・FRP船は・・・と問えば船室のライニングさえ高価で手が出ないとの事 正に日本のS-30年初と同じでした。この様な現状ですから、船大工の育つ土壌からは少し遠い様でした。船大工さん自身の働く場が無い?のかも知れません。
 話はいろいろと有りますが、こゝで日本中でも余り例が少い?と思われる私の居た造船所の事に移ります。
 例が少いと云う事は小型船を、それも一つの企業の会社内で和船が殆んどの内容で毎年〃〃100隻以上もの数を送り出したと云う事です。
 
 私の居た造船所は、日魯漁業(株)の製作所の一つとして(鉄工所、製網所、造船所)約3万坪の敷地内に、木材置場、製材所、魚凾製造所、ボイラー室、ゴロ製作工場、内然機部、製品倉庫、木材倉庫、細工場(造船工場)、事務所、材料倉庫、食堂、舩揚場、桟橋・・・などが国道を挟んで並び、従業員は250人位と思います。(戦中は100人以上も増えた)五月からの北洋出漁には、その殆んどが北洋方面へ出漁し、女子、見習工と事務所の若干が残る丈となります。こゝに勤める船大工さんは、関連する者の紹介で技術的に認められる者丈が入所した様で、見習工の内にも縁故者が多く居りました。昭和初期は、磯舟から三伴船及び曳船まで年間100隻以上を建造しカムチャツカ沿岸漁場へ送りに出したと云われます。私が入所した頃は(S-16)少なくなりましたが、それでも40隻近いものであらうと思われます。隻数の少なくなった事は各漁場に充分に船が行き渡ったものと考えられます。でも工数の切つめは相当のもので、資料では1隻当りの所要時間○○○.○○時間と時間以下2桁までの数字が有ります。当時の大工さんに聞きますと同型船は数隻を一度に着工させ競争作業に依り大工さんの能力を100%以上搾出した様です。棟領以上の幹部達を職人達は○○の鬼(○○は名前)と陰でそれぞれを呼んでいたそうですから、相当にキツイ日々であったらうと思います。尤も当時の大工さんは、一定の会社に勤めて、年通して働けて、盆暮のボーナスをもらえる・・・と云うのは甚だ少く、この造船所に勤める船大工さんは、その点まだ良い方であったかも知れません。常勤の職場を持たない大工さんは雨降り大工と称して、雨が降れば細工場の無い露天の作業場では仕事を中止し、道具凾を担いで帰らねばならなかったと云われます。前記の様、能率先行の所ですから丈夫な船を、確実な作業で、より早く出来れば良い訳ですから、小さな造船場の様に流儀や秘密、秘伝は余り必要が無かった様です。ですから見習工の内に必要な基本は一応教えた訳ですが、当時を振返りますと、小造船場では、そうでは無かった様です。
 
 色々の木船を手掛けたのも、戦争が有ったからと思います。大湊という軍港が海峡の向うに控え、様々の木船をヤード側へ発注して来る様になり、後々は陸軍の暁部隊の木造特攻艇まで造る事になりました。日々13時間の重労働は大変キツイものでしたが、様々の船を経験した事は見方に依っては幸運であったかも知れません。このヤードが様々の船を軍の要求で建造出来たと云う事は、各棟梁が洋船又は和舩の、本州や地元の優秀な大工さんで、それぞれが一家憲を持つという人々であったからとも存じます。戦中の色々と造った船の事を話します。
 
 8m型と12m型が有ったと記憶してますが、北海道型の伝馬と違い各材料がひと廻り大きく、従って重量が有ります。ろぐいは海軍式とか申して、ユニバーサルカップリング様のものでした。舩型的には本州型で先が細く、こながし付です。こんな重い船を漕ぐ水兵さんも大変だナーなど思ったものです。
 
 全体が4ツに分けられる組立式ですが、発想の根本は鋼製舟艇と考えます。この計画は木造という木材の特殊性を考えない失敗品と思います。欠点の主なものは、各ブロックの接合構造にあり、この部のボールトが充分に締める事が困難でした。その為に、作業がいゝ加減となって終うという事です。大湊への回航では、多くは水船となり、立派な材料を使った丈に、回航と引渡しに立合った造船所のエライさんは、海軍の担当から相当に叱られた・・・と聞いております。元々無理な構造ですから沈むのは当然なのです。
 







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