1993/04/21 産経新聞朝刊
【海を越える「使命」】半年間の成果と課題(上)残したもの
カンボジアでの国連平和維持活動(PKO)に参加した陸上自衛隊の第一次派遣施設大隊が任務を二次部隊に引き継ぎ、帰国した。半年前、初の海外派遣で海を渡った自衛隊。住民や他国部隊と触れ合いながら獲得した成果と今後の課題は何か。モザンビーク派遣決定や国連ボランティアの中田厚仁さん殺害事件・・・。国際貢献をめぐって日本が再び揺れるいま、隊員たちが体験した半年間をリポートする。
(渡辺浩生)
今月十五日、京都府宇治市の陸上自衛隊大久保駐屯地にある第四施設団本部を訪ねた。第一次施設大隊が解散した翌日だった。
大半の隊員が家族や同僚らが待つ原隊へとすでに戻っていた。しかし、一部の幹部らは缶詰めになって、業務日誌のまとめに追われていた。カンボジアでの半年間の活動を克明に記録に残し、今後の自衛隊のPKO参加の資料にしようというわけだ。
「日本に帰ったことが夢のような気がする。リハビリに相当時間がかかるよ」 着替えがないため現地の服装と同じカーキ色の防暑服を着た三佐(三七)は、日焼けした顔で言った。
約三千キロ離れたカンボジアではいま、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の活動が、設立後最大の危機を迎えている。ポル・ポト派による妨害工作が相次ぎ、五月の総選挙の成功も危ぶまれる。丸腰の日本人ボランティアが殺害された。そんな中での帰国だった。
「われわれは道路と橋を残した。しかし、ほうっておいてスコールにさらされれば、いつか崩れてしまう。形あるものはいつか壊れる」
大隊長を務めた渡辺隆二佐(三九)は淡々と語り、こう続けた。
「汗を流しながら作業をしていた隊員の姿を、現地の子供たちに見てもらった。その光景は永遠に語り継がれるものだと思う。形にはならないが、それがわれわれが残してきたものではないか」
資材の到着の遅れに泣き、作業が遅々として進まなかった活動末期、不満を訴える隊員たちに諭した言葉でもあった。
「第二次世界大戦以後、日本の軍隊が初めて海外の土を踏んだ」
欧米通信社が世界中に打電した昨年九月の部隊の到着。迎えたタケオの住民の第一声は「トヨタとソニーの国の部隊が来た」だった。以来、隊員が行くところ、興味深げに見つめる住民の姿があった。
十月下旬、国道3号の道路補修工事を開始したころ、沿道の住民から「ほこりが立って迷惑だ」という苦情が出たことがあった。
「住民たちのためにやっているのに、なぜ感謝されないんだ」という戸惑いや失望を感じる隊員がいた。「国際貢献のために来た」と張り切っていた隊員ほど憤りは強かった。
「物質的に恵まれているわれわれの優越意識、おごりだということに、彼らと付き合ううちに気づかされた。教えられたのはわれわれのほうだった」と渡辺二佐は振り返る。
駐屯地から約一・五キロ先にあった「タケオ温泉」。駐屯地内にふろができるまでの五カ月間、ここで浄水作業をした二尉(二九)は感慨深げに話した。
「毎日子供たちに囲まれた仕事だった。日本の歌を教えたり、現地の言葉を教わったり。果物をさし入れてくれた主婦もいた。つらい時、救ってくれたのは彼らの笑顔だった」
明石康・UNTAC特別代表は「現地の住民と触れ合うことが自衛隊の今後の国際貢献の貴重な財産となるだろう」と語っていた。
タケオの小学校の校舎の白壁には、隊員たちが作業で使ったブルドーザーやトレーラー、トラックの車両の落書きがある。西元徹也陸上幕僚長はこう言う。「子供たちの落書きは一番印象に残るものや、一番関心のあるものを表している」
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