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2004年4月号 Voice
二十一世紀の国防戦略
自衛隊は「新しい戦争」に備えよ
中曽根康弘(なかそねやすひろ)
(世界平和研究所会長・元内閣総理大臣)
変わってきた日本人の国防意識
 先ごろ自衛隊がイラクに派遣されたが、それに伴い、失われかけていた国防意識や国家観が、日本人に取り戻されつつあるように感じる。これは日本にとって非常に喜ばしいことである。
 振り返れば一九九一年に冷戦が終わり、以後世界は激変した。それまで米ソの対立構造の下で安穏としていればよかった各国は、米ソから離れて各々のアイデンティティを確立することを迫られるようになった。さらには米ソに対し、ある程度、独立して立ち向かうだけの力を求められるようになり、いやがおうでも変革を求められた。その一番よい例がEU(欧州連合)で、アメリカに対抗するため、それまでのEC(欧州共同体)を発展させるかたちで再編成がなされ、通貨を統一し一大経済圏を構築した。EUの誕生によってヨーロッパは、NAFTA(北米自由貿易協定)と並ぶほどの巨大経済圏を創造することになったのである。
 またロシアではエリツィンやプーチンといった、強力なリーダーシップをもった大統領が現れた。とくにプーチン大統領には、十八世紀のピョートル大帝が復活したかの趣(おもむき)さえ感じさせる。中国にしても経済の自由化路線をたどりはじめ、一方でゴルバチョフの失敗を繰り返すまいと、政治は統制を強化して共産党の一党独裁体制を強めている。その結果、毎年八〜九パーセントの経済成長を維持して、二〇二〇年には日本に追いつかんばかりのスピードで前進している。
 アメリカについては、冷戦でソ連に勝ったことでやや「ほろ酔い気分」となっており、ブッシュ大統領にしてもある面、気負いすぎの誹りを免れないだろう。それでも「九・一一テロ」でショックを受け、「新しい戦争はテロとの戦いになる」という概念を樹立した点は大いに評価してよい。これによって世界は、テロという二十一世紀の新しい問題と真正面から向き合いはじめたことは確かである。
 そんな世界にあって日本だけは、九〇年代をただ漂流しているにすぎなかった。日本の独自性を模索するどころか、総理大臣が一〇人も出てくる混乱ぶりで、犯罪は激増し、教育は崩壊寸前、経済も不況からなかなか脱却できずにいるといった有り様であった。そんななか、国防意識や国家観だけは、北朝鮮問題とイラク問題によって、唯一、大きく変化したのである。
 だが、これを手放しで喜べる状態にないことも確かである。それは日本人の国防意識・国家観と防衛の政治改革が大きく変化したのとは裏腹に、日本政府の国防意識・国家観は旧態依然のまま、いっこうに変わっていないからだ。
 国防の基本は情報と戦略である。この二点において日本はいま、世界から非常に遅れをとっている。たとえば湾岸戦争やイラク戦争でアメリカは、偵察衛星から送られてきたデータをコンピュータで解析し、ピンポイント攻撃するという、超精密兵器の威力を世界に見せつけた。このような兵器の登場によって、いま対テロ作戦と国防の概念は大きく覆ろうとしている。各国の軍備もそれに向けて大きく変貌を遂げようと、動きはじめている。にもかかわらず日本は、新しい国防体系を築く努力をほとんど行なっていないのである。
 そこには「戦争を放棄した平和国家」という戦後一貫した観念のもと、国防戦略という発想自体が軽蔑されてきたためだ。その結果、日本は国防に対し、きわめて鈍感な国家になってしまったのである。
 だが日本人の意識が大きく変わりつつあり、北朝鮮問題を抱えるいま、新しい国防戦略について議論することは、むしろ早急に必要なことなのである。そこで以下に、日本にいま求められている国防戦略とはどのようなものか、私なりの考えを述べることにしたい。
パトリオットで日本は守れない
 日本に求められる国防戦略のまず第一は、情報と戦略能力の向上である。たとえば総理大臣の直轄機関として「国家戦略局」という組織を設け、そこへ内外から人材を集め、専門的に国家戦略を検討させる。
 同時に情報を一元化・集中化させる。外務省、防衛庁、経産省、JETRO(日本貿易振興会)、民間などがもっている情報や、偵察衛星で集めた情報をすべてここへ集約させるのである。これによってまず国防の基本である情報と戦略をしっかり押さえねばならない。
 加えて戦備ならびに兵器の一新も必要である。アメリカのイラク攻撃を見て、少なくとも「G8」をはじめとする先進国の国々は、少しでもアメリカに接近しようと、戦備においても兵器においても国力を挙げて改革を始めている。
 たとえば先のイラク戦争で、アメリカはサダム・フセインが隠れているバグダッドのアパートの一角にロケット弾を撃ち込んだ。なぜフセインの居場所がわかって攻撃できたかというと、密告もあるだろうが、それ以上に偵察衛星と精密兵器の力によるところが大きい。これと同じような兵器の開発に多くの国が取り組みはじめているのである。
 それに対し、日本はいまだ、大砲や戦車を中心に日本を守るといった従来の発想から思い切って脱却していない。肝心のミサイル防衛能力にしても、あるのはせいぜい「パトリオット」のような射程距離の短い地対空ミサイルである。これでは北朝鮮から長距離ミサイルが飛んできても、とても撃ち落とすことはできない。そうなると頼れるのはアメリカだけだが、そのアメリカにしても日本を完全に守りきれるかどうかがわからない、というのが現状である。
 そう考えたとき日本の戦備や兵器は、「二十一世紀型の戦争」に合わせて思いきった「近代化」をすべきなのである。ところが防衛庁はもとより、内閣からも大転換を進めようという構想はまったく起こってこない。
 ここは総理大臣が日本の将来まで見据え、先見の明をもってスタートさせるべきであろう。「二十一世紀型の戦争」に適合する戦備・兵器体系を完成させるには十年はかかる。他の大国がすでに取り組みはじめていることを考えると、日本も一刻も早く取り掛からなければならないのである。
イラクヘの自衛隊派遣は合憲である
 「二十一世紀型の戦争」は、大国間における戦争ではなく、対テロ戦争が中心になるだろう。そこでテロに対応するための戦略体系をつくることも重要である。それにはまず国際情勢の大きな流れを知ると同時に、日本周辺の国際情勢の動きを読むことが求められる。
 北朝鮮は今後どのように変化し、何を行なうのか。万が一、南北朝鮮が統一した場合、日本はどのように対処すべきか。台湾と中国の関係が最悪になった場合、日本はどう対応すべきか。たとえば、以上のような事態が生じることを洞察したうえで、事前に対応策を練っておく必要がある。
 このような、国際情勢の動きを洞察することについては、先に述べた「国家戦略局」などの設置によって対応することになるが、もう一点重要なのは法整備である。現在の日本には、対テロ戦争に対応できるだけの総合的な法整備がなされていない。事件が起こって急いで法律をつくり、場当たり的に対応しているのが現実である。
 たしかに小泉内閣になって少しずつは変わりはじめている。完全なものではないにしろ、有事における国内法が整備されてきたし、「周辺事態法」によって公海上まで行ってアメリカ軍への補給が行なえるようになった。また「九・一一テロ」後は、「テロ対策特別措置法」によってインド洋まで自衛艦を出せるようになり、「イラク人道復興支援特別措置法」でイラクまで陸上自衛隊を出せるようにした。これまで日本の周辺に止まっていた日本の防衛力を、中東のイラクに至るまで及ぼしうるようにしたのであり、その点は小泉内閣の功績として評価できる。
 私が総理大臣の際には、アメリカに対する武器技術供与ができるようにし、人やモノは出さない代わりにコンピュータ関係の部品などの技術提供を行なった。このことは湾岸戦争でアメリカが大勝利を得るうえで大きな役割を果たしたが、小泉内閣はこれをさらに前進させたのである。
 とはいえ、「その場しのぎの部分的対応」にとどまっていることも確かである。自衛隊のイラク派遣にしても憲法解釈について明確な方針を打ち出していないし、そもそも自衛隊法に、自衛隊をイラクまで出すことを認める内容は書かれていない。
 自衛隊という組織は憲法九条が定める専守防衛のもと、日本の国土を守るための存在と規定されている。憲法には「国際協力のために海外に派遣できる」などと書かれていない。その結果、「自衛隊がイラクまで行くのは憲法違反だ」という議論が起こってくるのである。後に述べるように、私は今回のイラクヘの自衛隊派遣は憲法違反だとは思わないが、今後そのような議論が起こらないようにするために、自衛隊法を改正する必要がある。
 現在、自衛隊法三条には「自衛隊の任務」として、一項に専守防衛について、二項に陸海空それぞれの自衛隊の役割について書かれている。そこで三項として新たに、「世界の平和や人権・人道を守るために国連や多くの国が協力して対応を行なう場合、自衛隊もこれに参加できる」といった文章を加えるのである。
 国際協力が正式任務として認められれば、自衛隊も大手を振って海外へ行ける。すでに国連のPKO(平和維持活動)によって、自衛隊はカンボジアや東ティモールなどに派遣されている。さらに「テロ特措法」でインド洋に行き、「イラク特措法」によりイラクで国際的な協力活動をしている。これらの実績を踏まえ、「自衛隊の任務」を拡大して規定すればよいと私は考える。
 なお、憲法問題についてだが、自衛隊のイラク派遣は違憲ではない。イラクにまで派遣されるのは、戦争ではなく国際協力のためである。
 憲法では七三条に「内閣の職務」が規定されており、その第二項に「外交関係を処理すること」という文言がある。それに基づく行動なのである。いまでも自衛隊の海外派遣は憲法九条の関係で論じられているが、これは間違いで、国際貢献の外交権の作用なのである。
 ここで記された「外交」とは、国際関係を処理したり、国際協力を行なったりして平和を維持することである。これを実施するために自衛隊が派遣されたと考えれば、憲法の範囲内でも説明がつく。すなわちイラク派遣は、憲法九条ではなく七三条に基づいて行なわれた行為と考えればよい。九条に基づいて派遣された、と考えるから話がおかしくなるのである。
 このような流れのなかで、最近、国際協力のためには自衛隊でなく、新たに「国連待機軍」をつくって、彼らに行かせたほうがいいという意見が一部から出てきている。そうすれば憲法九条の問題もなくなるというわけだが、これはあまりに非現実的な意見である。
 国連の指揮下で動く軍といっても、いざ国際紛争などが起きたときに国連がどれだけ機能するかはわからない。つくったはいいが使われないことも考えられるし、逆にそのときの政治情勢によって、日本の意に叶わない使われ方をされないともかぎらない。
 それよりは日本国の国権の発動という文脈で、「外交に伴う国際協力の一手段として自衛隊を派遣できる」としたほうがいいのである。自衛隊の役割に弾力性をもたせ、あくまでも日本自らのイニシアティブに基づいて、政府と議会で具体的にどのように自衛隊を動かすかを決めるようにする。新たな軍をつくり国連に任せるよりも、自衛隊の活動範囲を広げつつ、より精強なものにすることのほうが、国防という点から考えても意味がある。
国連憲章が認める集団的自衛権の行使
 さらに集団的自衛権行使の問題についても、はっきりさせておく必要がある。現在の内閣法制局による憲法解釈では、日本には集団的自衛権の行使が認められていないことになっている。たとえばアメリカが日本の領土の近辺で武力攻撃をされていても、日本はアメリカに協力することはできない。戦争放棄をうたった憲法九条に違反するというのであるが、同盟関係にありながら、アメリカの緊急事態が近辺で起きても助けることができないというのは、あまりに理屈に合わない。
 そこで最近、憲法九条を改正して集団的自衛権を行使できるようにしようという動きが生まれてきた。これに対して私は、憲法改正は当然なされるべきだが、たとえ憲法を改正しなくても日本は集団的自衛権を行使できる、と五年前からいっている。
 いま「集団的自衛権の行使は憲法違反である」とされているのは、あくまでも、「専守防衛の限度を超えている」という内閣法制局の解釈に基づくものである。それが国の考えになっているのは、役人の解釈に総理大臣が従っているからにすぎない。
 一方、「国連憲章」の五一条には、自衛権には個別自衛権と集団的自衛権の二種類があり、加盟国はこれらのいずれも行使することを認められる、とはっきり示されている。すなわち日本が国連に加入した段階で、日本は集団的自衛権の行使を認められているのである。
 さらには「日米安全保障条約」にも、日本の集団的自衛権の行使を認めると記されている。内閣法制局の解釈は「国連憲章」にも「日米安保条約」にも違反しており、まったく意味がない。集団的自衛権の行使は憲法解釈の範囲内で行なえるもので、内閣総理大臣が「集団的自衛権を行使する」と覚悟を固めれば、何の問題も生じないのである。
 もちろん無制限に行使するのは問題があるため、限度については法律などで制限する必要があるが、独立国であるかぎり集団的自衛権の行使は当然のことである。そもそも集団的自衛権の行使を認めないという考えは、マッカーサー占領時代に培われた自虐的な価値観に起因する。政治家は一刻も早く、こうした価値観から脱却しなければならない。
 ただ憲法九条については、集団的自衛権行使の問題にあえて絡める必要はないにしろ、何らかの改正を行なう必要はある。国際紛争を解決する手段としての武力の放棄をうたった一項はそのままでよいが、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」「交戦権は認めない」とした二項は改正する必要がある。国軍としての存在を明記し、国家防衛のための戦闘は認められることを示すのである。さらに三項として、先に述べた、世界の平和や人道・人権を守るために国連および多くの国が行動を起こす場合は、自衛隊も参加できるといった内容を加えるとよい。
日米安保条約は破棄してはならない
 日米安全保障条約についても、日本は態度をはっきり決めるべきであろう。まず前提として、日本が核武装しないかぎり、この条約が日本にとって不可欠なものであることを、はっきりさせておくことである。周辺に核兵器の保有国が存在し、核兵器がいつ脅迫に使われるかわからない。あるいは実際に、日本に落とされる恐れもある。そういう条件下にあって核兵器から日本を守るには、現段階においてはアメリカの核兵器の抑止力に頼る以外に方法がない。
 もし日本がアメリカと安全保障条約を結ばないとなれば、日本が独自に核兵器を保有するしかない。すなわち条約を今後どうするかという問題は、日本が核武装するかしないかの問題なのである。
 そうした状況にあって日本はどうすべきかというと、やはりこれまでどおり核武装すべきでないというのが、私の考えである。すなわち、安保条約はアメリカが廃止しないかぎり必須なのである。
 日本にはいま「非核三原則」がある。これを完全に破棄して核兵器を保有するとなると、核不拡散条約(NPT)を崩壊させる恐れがある。核不拡散条約ではアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国以外の国が核兵器を開発し、保有することを認めていない。だが世界にはフセイン政権時代のイラクやイランなど、NPTで認められていないが核兵器を保有しようとする国がある。ここでもし日本が核兵器の開発に乗り出せば、これらの国々も開発に乗り出そうとするだろう。他の途上国にも波及する危険が出る。日本から火種を起こすような行動をとるのは、絶対に避けるべきである。少なくとも現在の情勢が続いているかぎり、アメリカの核兵器に依存するのがベストで、そのために「日米安保条約」は必要なのである。
 ただしこれは、日本の防衛をすべてアメリカの軍事力に依存すればよいという意味ではない。核抑止力についてはアメリカの保護を受けるとしても、それ以外の部分については、日本の自主性と独自性を回復する必要がある。
 たとえば自国を防衛するためだけに使うのなら、日本が「小型核兵器」を保有することは憲法違反にあたらないと私は考えている。小型核兵器は広島型原爆の三分の一以下の威力しかもたない兵器のことで、これを研究することについてはアメリカの議会でも認められている。万一の際の日本の防衛力を高めるためには、小型核兵器の保有も憲法上認める。しかし現実に保有するかどうかは政府と議会と国民が決めるべきであろう。
 通常の兵備についても、侵略的性格をもたない範囲内において、日本はもっと独自性をもった体系に転換する必要がある。たとえばミサイルや衛星など最先端技術を使った防衛システムを取り入れるほか、通常兵器もアメリカに依存する割合を思い切って削減するなど、もっと前進した防衛体系を構築するようにする。
 戦略的視野をもっと広げることも重要である。たとえばいま日本では、アメリカと共同でミサイル防衛計画の技術開発を行なっている。だがこれは現在、北朝鮮から発射されたテポドンを早期警戒レーダーなどで探知し、迎撃ミサイルで撃ち落とすことに限定したものである。日本の防衛ということで考えるなら、北朝鮮に限らず、あらゆるケースについて考えておく必要がある。
 たとえば中国と台湾の関係がどうなるか。大方の意見は現状維持のままの状態が当分続くだろうというものだが、万が一ということも考えておく必要がある。もし中国と台湾のあいだで戦争が起これば、日本から東南アジア、さらには中東につながるシーレーンが切断される危険が生じる。その場合への対応、シーレーンの変更や日本の防衛体系の転換、米軍との協力関係の限度などを含め、万が一に備えておくのである。
 以上のような施策を実行していくためには、現在防衛庁が立てている「防衛力整備五カ年計画」を早急に再点検する必要がある。現在の防衛庁の中期計画を見ると、私が防衛庁長官だった一九七〇年代の延長線上をなぞっているにすぎない。計画を作成する人間自体、いままでの発想で教育を受けてきているからそれも仕方ない話で、だからこそ政治の力で変えていく必要がある。このことを日本の政治家や政党は、もっと声を大にして国民に訴えていかなければならない。
 さらには防衛庁をできるだけ早く「防衛省」という独立した省に昇格させることである。現在のように内閣の一庁として独立意識のない状態では、日本の防衛について自己責任を負う意識が生まれず、世界の速い潮流についていき、変化することができない。これは憲法改正などしなくても、国会議員が努力すればすぐにできることである。「防衛省」あるいは「国防省」を早急につくり、総合戦略体系の抜本的転換を行なう。そのうえで、ここまで述べてきたような「総合的な戦略体系」を構築することが、日本の国防政策として求められるのである。
◇中曽根康弘(なかそね やすひろ)
1918年生まれ。東京大学法学部卒業。
元衆議院議員、元首相・自民党総裁。
 
 
 
 
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