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2001年12月号 Voice
「新しい戦争」が始まった
筋道を通した自衛隊艦艇の派遣で従来にない貢献を
森本 敏(もりもと さとし)
「新しい戦争」の特徴
 そもそも、テロとは何かについて明確な定義は確立していない。テロの禁止条約について国連で議論が始まっているが、テロの定義についてコンセンサスを得ることも容易ではなさそうである。
 しかし明らかなことは、テロは少人数のグループがその勢力的劣勢を補うために暗殺、誘拐、殺人、大量殺戮、脅迫、爆破、ハイジャックなどの非合法行為・活動を行なうことにより、他を恐怖に陥れ、その目的を達成しようとするものであって、その行為はもちろんのこと、その存在自体が人間の基本的人権と社会の公共秩序に反するものである。
 今回、米国で九月十一日に発生した同時多発テロ事件は、こうしたテロを象徴する重大な犯罪行為であるばかりか、むしろ、米国の国家社会システムを根本的に崩壊させるものであり、米国はこのテロ事件を従来のテロという概念を超えた「新しい戦争」の始まりであると規定している。
 戦争とは本来、主権国家や特定の組織がその主義・主張を貫くため、宣戦布告を行なって意思を明確にし、武力を行使してその目的を達成しようとする実力行為を意味する。
 ところが、今回のテロ事件は、犯罪という概念では捉えられない行為であるばかりか、従来の戦争概念をはるかに超越した新たなタイプの戦争ともいえる行動であると見ることができる。
 すなわち、戦争の主体が従来の概念である主権国家ではなく、少数の集団(グループ)やネットワークなど国境を超えた性格をもっているという特徴をもち、しかも、その実体が容易に把握できないという問題がある。
 さらに、この主体は通常であれば軍備や兵器システムなどの武力を行使するのであるが、今回の事件で明らかなごとく、民間航空機をハイジャックして多数の無辜(むこ)の民間人を人質に取り、これを凶器にして国家・社会のシステムを崩壊させようとしたのであり、その手段は日常生活的な意味合いをもつ。その点で、この戦争は宣戦布告などは行なわれず、探知、早期発見が困難である。
 また、通常、戦争であれば戦争を行なう主体が民族の独立や主権の確保、領土の拡張・画定といった明確な目標を保持するものであるが、今回のテロ事件にみられるように、そのような目標を獲得していたかどうかも不透明である。すなわち、戦争によってその主体が獲得しようとするものが不明であり、紛争解決や紛争予防が困難をきわめる。いつ開始され、いつ終結したのかも明確でないので、開戦あるいは終戦がなく、したがって、戦争終結のための停戦合意も容易でない。
 さらにいえば、武力行使が行なわれる戦場というものがなくなっていることも、「新しい戦争」の特徴である。たとえば、このテロ事件に次いで米国内に広がった炭疽菌事件がテロであるとすれば、その事件による米国内の混乱と動揺を見ても明らかなごとく、「新しい戦争」は日常生活のなかに入り込んでおり、通常の戦争で見られるような戦場すらない。
 すなわち、この新しい戦争のもつ共通点は、日常性ということに集約されるであろう。
 こうしたいくつかの特徴をもつ「新しい戦争」にどのように対応すべきかということを考えたとき、もはや従来のように、テロをたんなる犯罪と見なして警察・治安組織に依存して国内治安を維持していた時代は終わり、いまや、国家および国民が軍隊と国家機関の総力を挙げて、このようなテロによる新たな戦争に立ち向かわなければならなくなっている。この戦争は文化・文明の発達している社会ほど脆弱な体質をさらすという性格も有しており、その点で、この戦争は国家発展の非対称性が大きいほど、発展途上国に有利になるという特徴もある。
 たとえば先進民主国では、もはや戦争のために若い兵士が多数戦死するという戦争はできなくなっている。
 今回の事件についていえば、九月十一日に発生した同時多発テロ事件が誰によって計画・準備され、どのように実行に移されたかについては、まだすべてのことがわかっていない。いずれその全貌が明らかになる日が来ると思われるが、現時点での関心は、むしろ実行犯がビンラーディンやアルカイダといかなる関係を有しているかについてである。これについては米国の捜査当局がいままでの調査をもとに同盟国に説明済みであり、われわれはそれを信じるしかない。
 この点について、十月四日に英国政府が公表した報告書は、ビンラーディンが一九八九年に設立した国際テロ組繊「アルカイダ」は米国、英国やイスラエルなどを対象として破壊活動を行なってきたことや、九〇年代前半にパキスタン内のアフガニスタン難民キャンプで設立された武装集団「タリバン」は、アルカイダを保護し共闘をすすめており、タリバンとアルカイダは表裏一体であることを指摘している。
 要するに、今回のテロがビンラーディンが指揮する国際テロ組織アルカイダが米国を狙って計画した大規模なテロ破壊工作であるとすれば、これは一九九三年の世界貿易センタービル爆破事件、一九九八年のケニア・タンザニア米国大使館爆破事件、二〇〇〇年のイエメンにおける米国艦艇爆破事件の延長上にある事件であり、したがって、すべてが米国を対象にした犯罪であるので、米国政府はいくつかの明確な物的証拠を有しているものと考える。
 アルカイダは極端な反米主義といわれており、したがって今回のテロ事件は報復というよりむしろ、米国そのものを狙ったテロ事件なのであろう。
限定作戦と戦域拡大作戦
 他方、米国は、今回の事件が米国を中心とする法と正義に基づいて構築されてきた文明社会に対する明白な破壊行為であり、宣戦布告なき宣戦布告であると受けとめ「新しい戦争」と認識していることについては、すでに指摘したとおりである。
 米国はそこで、米国に対するこのような明白な攻撃が行なわれたのであり、したがって、今回の事件に対応するため国連憲章によって認められた個別的自衛権を行使して対処しようとしている。
 本来自衛権は、急迫不正の侵害が行なわれた場合、これに対してやむをえざる措置を、国連安保理が必要な措置をとってくれるまでのあいだに行使できる権利として主権国家に認められているものであるから、テロ事件が終わって一ヵ月もたってから軍事行動によって攻撃することが個別的自衛権の行使に当てはまるのか、という議論がある。しかし、この点に関して米国は、今回のテロ事件を引き起こした実行犯の背後にいる組織やその他のテロ集団が健在であるかぎり、いつでも米国に対する同様のテロ事件が行なわれる危険性が存在しており、これを排除することは自衛権の範囲であるという考えである。
 このことは今回、米国が第一期作戦としてアルカイダおよびこれと共闘関係にあるタリバン政権を物理的に破壊しえたとしても、ビンラーディンの指揮する国際テロ集団が世界的に分散し、これを支援する諸国家がこのようなテロ集団を保護し、訓練施設を供与し、資金を提供しているかぎり、国際的なテロ活動が根絶できるとは考えておらず、したがって第一期作戦の成果、米国内の世論や国際情勢の動きを考えつつテロ支援国家に戦域を拡大することも自衛権行使と考えている可能性がある。しかし、今後のテロ対策は、米国が主張するように長期間にわたる困難な作戦となり、その推移は予断を許さない。
 今回の第一期作戦はアフガニスタン内にいるタリバン、アルカイダおよびビンラーディン個人を対象としたものであるが、それは作戦目的と作戦範囲を明確に限定して作戦の成果を確実に達成すべきであるという国務省の立場、というより、パウエル国務長官の立場が採用されて、作戦計画が策定されたからである。もっとも、この決定に大きな影響を与えたのはブレア英国首相であるといわれる。
 しかし、米国のなかには、国防総省を中心として、米軍の全戦力を駆使して戦域を拡大し、国際テロとの長期にわたる忍耐強い作戦にとりかかるべきとの強い意見もある。この限定作戦と戦域拡大作戦は結局、どちらかが選択されたのではなく、まず、第一期作戦として限定作戦にとりかかり、その後の事態を勘案して第二期作戦としての戦域拡大作戦に移行するという決定が行なわれたのではないかと思われる。したがって、まず第一期作戦を成功させてから、次の段階を検討するということである。
 とはいいながら、米国の第一期作戦が地上戦に突入したあとに苦戦を強いられることはありうる。おそらく、米国にとってこの戦闘はあまり経験したことがないものであるにちがいない。
 戦術戦闘機や攻撃ヘリの作戦基地が同じ地域やアフガン内に十分にとれないことや、山岳地帯でありタリバン側は地下施設によって固く防御されているという環境も、米軍にとっては厳しい条件になるだろう。冬季に入り戦車や装甲車を含む陸軍の正規師団を投入できないことも不利な条件を構成する。
 他方、北部同盟との連携を最大限に活用しつつ、透視レーダーシステムやバンカーバスター爆弾を装備した攻撃ヘリを多数投入すれば、地上戦を有利に展開できるかもしれないが、米国にも地上戦について明確な見通しがあるわけではない。米軍は、つねに新たな戦場に新たな兵器システムを投入し、テストし開発するというやり方をとってきたので、その点も注目できる。
 もっとも深刻な問題は、地上戦突入後にあまりに時間がかかって、当初目標を達成できないという事態が生じ、この間に民間人の死傷者のみならず、米兵にも死傷者が多数でて、イスラム社会の反発が高まり、それにつれて国際世論や米国内世論の支持が低下するという懸念である。
 米国は、このために第一期作戦の成果をできるかぎりラマダン(十一月十六日開始)までに得たいと考えているであろうが、それは無理のようである。ラマダン後に本格的な地上作戦を行なったとしても、それがどれくらい続くか見通しえない状況にあるのではないかと思われる。
 さて、米国が第一期作戦を克服したあとに直面する問題は、第二期作戦として戦域拡大に移行するかどうかである、現時点では、戦域の拡大は経済的にはともかく政治的、軍事的には困難が伴う可能性が高いことは明白であるが、それではテロ撲滅という最終目的は達成できない。このジレンマをどのように解決するかが、むしろ、現政権にとって重大事であろう。
 いずれにしても、米国がいかなる決断をするかについては、第一期作戦の成果と、第二期作戦以降の軍事力行使についての国際法上の根拠と国際・国内世論の支持を見つつ見極めなければならないということに変わりはない。
 米国は今回の軍事力行使にあたり、いままでになく各種の外交努力を行なってきた。国際世論をここまで気にしながら米国が外交努力を続けてきたのは、この作戦の困難さを示すものである。
 他方、NATO諸国が北大西洋条約第五条の規定をはじめて適用して、この作戦に参加したことは注目すべきである。
 ロシアや中国も米国の行動に同調し、ロシアにいたっては、米本土からのB2戦略爆撃機の国内飛行を許可したことは、冷戦以来の米ソ関係を考えてみても想像できなかったことである。
 イスラム社会の多くも米国の行動に同調し、タリバンとアルカイダの物理的壊滅を容認している。しかし、作戦がまだ初期段階であるのに、世界各地のイスラム社会の反対運動には容易ならぬものがあり、米国の懸念が予想どおりであったことをうかがわせる。
 米国がとった外交努力のなかで、とくに注目されるのはパキスタンとインドヘの働きかけである。
 とくに、パキスタンについては一連の作戦が終了したあとの国内情勢が、アフガンを含む南西アジア全体にとっても、あるいはテロ撲滅という米国の究極的な目標達成という点でも、きわめて重要であり、米国は今回パキスタンの政治的安定のためにとくに配慮している。
 パキスタンはインドとアフガニスタンの両側から挟み撃ちにされることをとくに警戒しており、したがって米国はタリバン政権後のアフガニスタンにおける政治体制の構築においては、パキスタンの国家安全保障をとくに重視して進めようとしている。パキスタンは現在のところは、ムシャラフ政権に大きな不安材料はないが、国内のタリバン支持勢力に外部から大きな支援が行なわれたり、アフガニスタンからタリバン勢力が流入したりすれば、パキスタン軍を投入せざるをえなくなり、そうなると事態は急速に不安定化するであろう。パキスタンはいうまでもなく、核兵器やミサイルを保有しており、パキスタンの安定はアフガニスタンを含む南アジア全体の安定に重大な影響を及ぼすのである。
 米国のこのような配慮が実質的な効果をもたらすかどうかは、アフガニスタン内における第一期作戦の成果とアフガニスタン人民がどのような政治体制を期待するかに大きく依存している。
 いずれにしても、現時点では米国の第一期作戦の結果を見つつ、今後の国際秩序を考慮せざるをえない。
もはや孤立主義には戻れない
 さて、こうした米国のテロ対応作戦が終了したあと、今回の一連の軍事作戦は国際秩序にいかなる意味合いをもつであろうか。この点について二つのことを指摘してみたい。
 第一は、米国が一極主義の国際社会においてそのリーダーシップを強化できるかどうかである。
 米国は今回、国連安保理に頼らず、同盟諸国の協力を軸とする対応によって問題解決をしようとしている。これには多くの国が同調し、国際協調がはかられ、ロシアや中国までもが米国を中心としたテロ撲滅のための国際協力を支持している。米国はもはや孤立主義には戻れない。内向きになりたいと国民が思っても、米国のもつポテンシャルはますます増大し、国際的リーダーシップが強化される可能性がある。
 しかし、このような状況になる前提は、少なくとも米国が第一期作戦に成功し、その目標を達成することである。もし第一期作戦に失敗すれば、米国はきわめて内向きな社会になり、孤立主義に復帰する恐れさえあるであろう。したがって、第一期作戦の成否は、国際秩序の行方に重大な影響を与える。
 第二は、今回のテロをめぐる一連の活動は宗教戦争ではないと米国が主張していることである。それはそうであるが、しかし、今回の一連の事件の背後にイスラム社会対反イスラム社会という構図があるということはまぎれもない事実である。米国を中心とするテロ対応措置の根底にある意識は、米国が進めてきた価値観への同調である。
 すなわち、このことを推し進めて考えれば、米国の価値観を共有しうる諸国家のグループと、こうした価値観を共有できないグループとに分かれた国際秩序を形成する可能性があるということである。これは必ずしも、イスラム対反イスラムではないが、しかし、イスラム社会の多くが米国の価値観を共有できないことも明らかであり、文明の衝突論ではないが、冷戦後十年にしてはじめて国際秩序構築の新たな要因が浮かび上がってきたといえるであろう。
米国との運命共同体として
 さて、今回の事件を受けて日本がとろうとした措置の背景には、二つの基本的な認識がある。
 第一の見方はいうまでもなく、このテロ事件は法と正義の下で構築してきた基本的価値観を共有する文明社会全体に対するきわめて不法な暴力行為であり、米国だけが目標になったのではないという認識である。すなわち、この事件は日本にとっても他人事ではなく、冷戦後の国際社会秩序に対してテロ集団が突きつけてきた宣戦布告ともいうべき挑戦であって、したがって、国際社会は全体となってこうした国際的なテロを防止し、これを根絶するために積極的に取り組む必要があるというものである。
 この立場に立っていえば、日本は国際の安全と維持に向けた国連の目的と国際平和のために、日本としてその地位に応じた役割と貢献を行なうべきであり、努力を傾注すべきであるという考え方である。
 一部に、テロに対する軍事的報復はさらなるテロを呼び、問題の解決にはならない、したがって、テロに対して軍事的な手段ではなく外交的・経済的手段によって問題を解決すべきだとの意見があるが、このような考え方は、それ自体がテロのような暴力行為を結果として許すことになり、受け入れられないばかりか危険でさえある。
 今回の事件は、国際テロ集団組織が明確な目的をもって行なった計画的犯罪行為であり、この根源をできるだけ早期に物理的に壊滅させるのでなければ、国際社会の平和を維持確保できないことは明白である。このような考え方に立てば、日本が国際的なテロに主体的に対応する必要性はきわめて大きいと思わざるをえない。
 第二の見方は、現実には米国が今回の事件の主たる対象になったことは明らかであり、六千人以上にもおよぶ犠牲者を生んだ米国民はその国家社会システムを根底から崩壊させられたことに深い悲しみと憤りを覚えている。現在はその精神的打撃からようやく立ち上がりつつあるが、米国民が今回の事件を通じて被った傷は重大である。
 日本は米国と同盟国であり、米国民がこのような困難な試練に立たされたとき、これを同盟国として支援協力することは、まさに当然であり、それはいままでのような言葉や金ではなく、テロ集団と闘うために先頭に立って多くの犠牲を払いつつ努力している米国と苦悩を分かちあう運命共同体として支援し協力する義務を負う。またそのような日本でなければ、米国はこの国および国民を同盟国および同盟国民と見なさないであろう。小泉総理がこの点について、きわめて強い決意をもって日米同盟協力を進めようとしていることは適切な判断である。
自衛隊艦艇派遣で筋を通せ
 こうした観点から小泉総理が九月十一日の事件発生後、すぐに明らかにした七項目からなる対応措置は適切なものであり、いままでになく日本政府の積極的な対応が強調されており望ましいものである。
 しかし、より具体的にはこれらの対応措置には、いくつかの問題がある。そこで、今回の対応措置のうちとくに注目され、しかも従来の政策方針とはやや趣を異にしている点を取り上げ、その問題点を指摘してみたい。
 第一は、情報収集のための自衛隊艦艇の派遣である。今回の事件に米国は個別的自衛権の行使によって対応しようとしていることは、すでに指摘したとおりである。NATO諸国は、同盟国である米国が明白な攻撃を受けたのであるから北大西洋条約第五条の規定を適用して、これをすべての加盟国に対する攻撃であると見なして集団的自衛権を行使して対応しようとしている。インド洋ペルシャ湾岸には、すでに米国のほかに英国、フランス、豪州が艦艇を展開させている。
 自衛隊艦艇が防衛庁設置法に基づいて同海域に派遣され、米国艦艇に危機が差し迫った場合にはいつでも必要な措置をとれるようにして派遣することが望ましく、また国際基準からいっても、自衛隊艦艇は他の同盟国軍と同様の活動をすることが期待される。
 日本艦艇だけが集団的自衛権を行使しないという様相は海軍の常識から見て考えにくく、また実際にそのような行動をとると、かえって同盟関係を悪くする可能性さえある。
 したがって自衛隊艦艇を派遣するのであれば、集団的自衛権がいつでも行使できるように、その任務を与えるのが常識であり、さらには他の同盟国軍と共同活動をするためには、イージス艦などもっとも能力の高い艦艇を派遣するのが適切である。
 憲法の枠内で集団的自衛権は行使しないとかイージス艦ではなく他の護衛艦を送るべきだといった議論は、国際的な常識から見て普通の考え方ではない。自衛隊艦艇を派遣することは米国側の要請であったとはいえ、日本が行なおうとしていることは、いままでにない貢献であり、このこと自体は高く評価されるべきである。しかしそうであればむしろ、筋の通った派遣の仕方をすることが望ましいであろう。
 第二は、今回の事件を受けて国際的なテロの防止および根絶のために諸外国が行なう活動への支援、協力を行なうための新法の整備についてである。日本が国際的なテロの根絶のために、国際協力および同盟協力を主体的に進め、このような法整備を行なうことは適切であると考える。
 今般、そのために成立したいわゆる特別措置法は、日米防衛協力ガイドラインに基づく周辺事態法を基礎とした立法措置であるが、いくつかの点において周辺事態法とは趣を異にしている。とくに同法は国会の事後承認という手続きになっていること、および国連安保理決議を必ずしも必要としていないことは注目される。さらにその対応措置には海上における武器弾薬の輸送が含まれることや、公海以外に外国の領域における被災民支援などが含まれることが周辺事態法とは異なっており、さらには武器の使用について、自衛隊員が自己を防衛するため以外にも、自己の管理下に入った者の防護のために使用が認められると規定されたことは新たな点である。
 同特別措置法はいわば今回の事態を受けて、米国が中心となって行なう諸活動を念頭に入れ、パキスタン領内に自衛隊を派遣して米国への協力や国際機関の要請に基づく人道支援を行なうための法整備である。そのこと自体は望ましいと考える。
 しかし、法律を整備することと法律に基づいて実際に自衛隊をこうした危険地域に派遣することは区別して考えるべきであり、仮に米軍がパキスタンに派遣されず、国際機関の要請を受けてパキスタン内で活動するのが自衛隊だけであるという環境下において自衛隊を派遣することについても十分に検討されるべきである。
 いうまでもなくパキスタン内には、タリバン支持勢力も多く、米国と同盟関係にある日本の自衛隊は、こうした勢力から見れば敵対勢力の軍隊が展開していることにほかならない。自衛隊がテロの対象になっても不思議ではないのである。いわば自衛隊が単独で行なうのではなく、多国間の協力の下での人道支援を行なうことが必要であろう。
 他方、自衛隊をこうした地域に派遣するのであれば、この特別措置法に規定する武器使用でも不足している。本来軍隊はその任務遂行のため、武器をどのように使用するかは部隊指揮官が決定すべきものであり、法律で規制すべきものではない。使用してはならない兵器は国際条約によって規定されており、国内法によって武器使用の規定を設けている国はほかにない。危険な状況下に自衛隊を置く覚悟があるのであれば、それなりの柔軟な対応ができるよう現地司令官に権限として与えるべきものである。
 第三に、今回のテロ事件を受けて、治安出動下令前に自衛隊が一定の条件下において国内の警備を担当できるようにするための自衛隊法改正についてである。この法整備も北朝鮮の不審船事件以来、課題となってきた問題であり、遅きに失した点はあるが、いずれにしても自衛隊が国内警備のために領域内に出動できるようになる根拠ができることは望ましい。
 しかし、この法律改正は担当すべき施設や目標に立脚して自衛隊と警察の担当区分を決めたものであり、本来国内の警備を行なうための法改正としては必ずしも適切ではない。すなわち、今回の法改正によって自衛隊が警護出動できる施設とは自衛隊の施設および在日米軍施設に限られており、その他の施設については行為のいかんにかかわらず警察が担当するようになっている。
 本来、国内の警備は脅威の対象とその様相に応じて担当すべき自衛隊と警察が協力すべきであって、防護すべき対象に立脚して区分するのはおかしい。脅威のレベルが警察で対応できるならば、どの施設であれ警察が行なうべきであり、自衛隊でなければ警備できないような脅威が出現すればいかなる施設であれ自衛隊が警備すべきである。これでは国民不在の警備区分となってしまう。また武器使用についても不十分な規定となっていることは前項と同じである。
 第四に、新たに整備される特別措置法のなかで、今後被災民救援を行なうこととなっているが、これは本来であれば現行PKO法を改正してこのような人道支援を可能とするように改正するのが適当である。ところが現行PKO法には、PKFの凍結、PKO五原則の適用、PKO部隊の運用と手続きならびにPKO部隊として派遣される要員枠といった規制要因があり、柔軟に人道支援ができないため、新法のなかに盛り込んでこの活動を可能にしようとしている。しかしそのこと自体がおかしいのであって、この際、PKO法を現実の事態に適応して柔軟に対応できるよう抜本的な改正を行なうべきである。
 いずれにしても今回のテロ事件に際し、日本がとろうとしている措置は従来の安全保障政策を抜本的に変質させるものであり、その点でとくに注目される。
アフガンは日本の国益か
 今回のテロ対応措置を含む一連の対応について強く考えるところがある。それは、日本という国が国家・社会としてほとんど危機に対応できない体質をもったままであるということにつきる。今回のような国際協力、日米同盟協力を行なうに際しても、そのための法体系さえ整備されていない。したがって、特措法の制定や自衛隊法、海上保安庁法の改正を急いで行なわなければならなくなるという事態が生じる。こういう国は日本だけである。これを解決するためには国家の緊急事態法、安全保障法、危機管理法などを制定しておくことが必要であろう。
 さらにいえば、今回のように新たな事態が生じるたびに、積み木遊びのように次々と新たな法律をつくるが、国際緊急援助隊法、周辺事態法、PKO法、船舶検査法、そして今回の特措法と法律体系が多すぎる。派遣される自衛隊は、そのつど特定の法律に基づいて行動せざるをえないが、事態は変化したり、重複したりする。このような状況に応じて法律をそのつど適用して行動するのは容易ではなく、混乱さえ招く。
 本来、軍隊の活動は超法規なのであり、規制されるのは国際法に限られる。日本のように法律によって自衛隊の活動をがんじがらめにしていると、そのうち法律のために自衛隊員の生命が危険にさらされかねない。
 次に、日本の対応措置を見ていると、日本の国益がどこにあるのか不思議に思うことがある。アフガンの人民は悲惨である。彼らを助けてやるべきだ。それはよい。しかし、アフガンは日本の国益なのか。自衛隊員が危険を冒してまで行くほどアフガンが日本にとって重大な国益とは思われない。日本にとっての優先順位はほかにいくらでもある。
 日本にとっての優先順位は米国との同盟関係である。自衛隊の活動はまさにそのためでなければならない。日本の世論は明らかに国際社会の現実と日本の国益追求の論理から見て、的が外れたものになっているとしか思えない。われわれにとって真に重要なことは何か。それは日本国民の安全と繁栄である。いま米国を助けないでわれわれの明日はあるのか。アフガンの人民を助けることに専念して、日本の明日が保証されるのか。答えはあまりに明白である。
◇森本敏(もりもと さとし)
1941年生まれ。
防衛大学校卒業。
外務省・安全保障政策室長、野村総合研究所主任研究員を経て、現在、拓殖大学教授。
 
 
 
 
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