2004/04/28 産経新聞朝刊
【正論】なぜ否定せぬジェンダーフリー 敢えて千葉県教委の指導に物申す
東京都教育委員会委員、永世棋聖 米長邦雄
《男女共同参画と意味混同》
教育界での最大の争点は何であろうか。多くの者は国旗・国歌に関しての意見の違いを挙げるかもしれない。あるいは校長と教職員会議の位置付けも問題かもしれない。有名な扶桑社の歴史・公民の教科書が取りざたされるかもしれない。
いや最大の問題は、男女共同参画社会とジェンダーフリーの概念の混同が起こっていることだ。言うまでもなくジェンダーフリーとは性差の否定であり、男女が共に人権を尊重しつつ責任を分かち合う男女共同参画社会の実現とは全く意味を異にする。
さて東京都教育委員会がこの数年間で果たして来た成果はいくつもある。左翼偏向マスコミが喜びそう(?)なのは、校長の権限強化と人事権の掌握、続いて卒業式および入学式の式次第であろう。式次第は校長が決定する。校長は国旗を掲揚し、国歌斉唱は全員起立しなければならぬと教師たちに説いてきた。
結果はどうであったか。卒業式では全都の公立学校で起立しなかった者は二百人弱。入学式では三十人強(調査中)いた。入学式では千四百人に一人という割合であるから、これはゼロに近いと判定しても良かろう。
では都教委の思い通りになったのかと言うと然(さ)に非ず。不戦勝というべきである。かつての勤務評定闘争や国旗・国歌は既に過去のものである。多くの組合活動や人権にかかわる人々の大合唱がジェンダーフリーの定着運動である。彼らは今まさに全精力をここへ注ぎ込んできている。
《石原都知事も危機感抱く》
そもそもジェンダーフリーなる造語は日本だけのものであって欧米の貴婦人には全く何のことか分からないであろう。男と女を差別してはならぬ。これは当たり前のことであって、女性なるが故に出世が遅れる等の不当差別は絶対に良くない。
昔からの有名な狂歌に次のものがある。
《女ほど 世にも尊きものはなし 釈迦も孔子も ひょこひょこと産む》《日の本は 岩戸神楽の昔より 女ならでは 夜の明けぬ国》
どんなに男が背伸びしてみても母から生まれたという事実、女から生まれた結果については異を唱えられぬ。男らしい男と、女らしい女が結び合って子が生まれる。この太古からの自然さを覆そうという運動が起きた。ジェンダーフリーはイデオロギーの産物であって、本家の男女共同参画の名のもとに表面上は女性の味方のふりをする恐ろしい運動である。
危機を感じた石原慎太郎都知事は四月九日、二千三百人の都内の公立校校長が集まる連絡会へ登場、冒頭の挨拶(あいさつ)の中で、「ジェンダーフリーなるグロテスクな動きがある。私は不快である」云々(うんぬん)と檄(げき)を飛ばした。女性の政治家でも、この問題を正しく認識していたのは高市早苗、山谷えり子の両氏であった。自民党の女性国会議員の中にも不勉強な先生が目立つ。
《奇妙な文言は一切使わず》
さて、最近この問題で不可解極まることが起こった。四月十四日に千葉県教育委員会が、県立高校の校長に対し、なんと『ジェンダーフリーを性差否定という意味で使用しているのではない』との通知を出したのである。
既に内閣府では過去の誤りを認めるとともに、自治体においてもジェンダーフリーという文言そのものを使用しない方がよいとの考え方を示している。福田康夫官房長官が男女共同参画条例で方針を打ち出している。東京都は内閣府や文科省の指導を受けているわけではないが、独自の判断で毅然(きぜん)とした姿勢を貫き、全く同じ指導で臨んでいる。
ところがおかしいではないか。産経新聞(四月二十二日付社会面および千葉版)によると千葉県教委は、ジェンダーフリーの使用禁止どころか、文言として使うことを前提として、『誤解を招かない配慮』を要請したのである。
繰り返すが、東京都は教育界も含め、ジェンダーフリーなる奇妙な文言は一切使用しないと決定している。他の自治体や教委も陸続と同様の決定を行いつつある。都教委はまた、男女混合名簿はその第一歩に繋がるので、すべては校長の自主判断であると明らかにしている。これも卒業式の式次第と同じことだ。
性差否定の人たちにとっては、過激な性教育がなぜいけないのか不思議なのではあるまいか。恥じらいとたしなみこそ、失ってはならない大切なものだ。教育界に身を置く者としてあえて言わせていただきたい。男女差別は良くないが、男女の区別ははっきりさせる。この当たり前のことだけは守り抜きたい。(よねなが くにお)
◇米長 邦雄(よねなが くにお)
1943年生まれ。
中央大学経済学部中退。
永世棋聖、東京都教育委員会委員。
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