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2001年2月号 正論
それでも「ゆとり教育」は間違っている
―文部省政策課長・寺脇研氏への共感と懸念と
精神科医●和田秀樹(わだ ひでき)
 
文部省のスポークスマン
 
 先ごろ、文部省大臣官房政策課長・寺脇研氏と私の対談書『どうする「学力低下」』がPHP研究所より出版された。
 寺脇研氏といえば、マスコミのあいだで教育問題が論じられる際に必ずといっていいほど登場する文部省のスポークスマン的存在である。その論客ぶりはつとに有名で、テレビ、新聞、雑誌等での活躍ぶりはおろか、著書も多数上梓している。
 文部省は、来る平成十四年(二〇〇二年)四月にスタートする新学習指導要領に基づき、「教育改革」の名のもとに、「カリキュラムの三割削減」「総合的な学習の時間の導入」(いわゆる「ゆとり教育」)などを実施しようとしているが、寺脇氏はまさに、この「改革」の旗振り役であり、また論理的支柱ともいうべき人物である。
 私は「ゆとり教育」政策に断固反対の立場をとってきたので、寺脇氏に対しては、テレビの討論番組で顔を合わせれば口角泡を飛ばして反論し、雑誌においては氏への個人攻撃と受け止められても仕方がないような文章を書いてきた。
 そんな私に、PHP研究所の編集者S氏が、寺脇氏との対談本の企画を持ちかけてきた。学力低下問題について、忌憚のない議論を戦わせてほしいのだという。S氏とはこれまでに何度か仕事をしてきたし、こちらとしても望むところだとは思ったが、寺脇氏が私との共著を出版することに応じてくれるとはとても考えられなかった。そもそも、寺脇氏を含め、文部省は「『学力低下』など起こっていない」という立場だ。
 そればかりではない。
 このS氏は、私の著書『学力崩壊』『「勉強嫌い」に誰がしたのか』(共著)などのみならず、寺脇氏からすれば腸(はらわた)が煮えくり返るであろう過激な本をこれまでに企面・編集している。
 たとえば、寺脇氏への痛烈な批判をまるまる一章分掲載した『国を売る人びと』(渡部昇一・林道義・八木秀次著)、現役文部官僚である大森不二雄氏による『「ゆとり教育」亡国論』などがそうだ。とくに、大森氏の本が発刊された際には、文部省内が騒然となったと聞く。
 さらにいえば、PHP研究所の出版物は、大別すれば保守系メディアに属する。『正論』『諸君!』『Voice』といった保守系月刊誌にしても、総じて文部省の「ゆとり教育」に対して手厳しい。そのようなメディアに、エリート官僚である寺脇氏がリスクを冒してまで登場するとは考え難い。
 以上のことを勘案しながら、私は「寺脇さんが受けてくださるなら、いつでも赴きますよ」と、さして期待もせずにS氏の要請に応じた。
 果して数日後、S氏から電話があった。寺脇氏が私との対談企画に応じるのだという。私は耳を疑った。
 
寺脇氏の真意はどこにあるのか
 
 対談に際して、寺脇氏から「『学力低下』の問題だけでなく、いま仮に日本の教育が崩壊しているとするならば、教育問題全般について議論したい」との要望を受けた。当初は、「文部省は『学力低下は起こっていない』という立場だから、話を別の方向に持っていかれるのでは」と危倶したが、それは半ば取り越し苦労だった。寺脇氏が合計十数時間にも及ぶ議論のなかで、私の懸念、提案に対して真摯に向き合ってくれたことについては、素直に感謝したい。
 ここで、私が抱いていた「懸念」とは何かについて、少々述べさせていただきたい。
 現在、あるいは決して遠くない将来において、「日本の危機は何か」と問われれば、私は真っ先に学力低下の問題を挙げる。さまざまな学力調査の結果だけでなく、模擬試験などの受験用テストの成績や、各大学の合格最低点の推移を見るかぎり、日本の子供たちや大学生の学力低下は確実に進行しているといっても過言ではない。
 また、近年のアンケート調査結果によれば――「七五三」などといわれているが――小学生の三割、中学生の五割、高校生の七割が、授業や教科書の内容がわからないのだという。
 巷で話題にされる少年犯罪は、交通事犯や軽い窃盗を含めても子供の百人に一人しか満たない「ミクロ」の問題であるが、学力低下は日本国中の子供を巻き込む「マクロ」の問題なのである。
 国際的な視点に立てば、意外に報じられていないことなのだが、二〇〇〇年四月に、東京と沖縄で先進主要八カ国(G8)の教育担当大臣会合、いわゆる教育サミットが開かれた。これは、「伝統的な工業化社会から顕在化された知識社会」への対応のために「国境を越えた協力」が必要であるという危機感のもとに開かれたものであることが明言されている。議長サマリーのなかでは各国の目標として、「学生の学力を向上させること」「成績や学力をモニターし比較するための指標を開発すること」などが挙げられている。
 このような状況のもと、アメリカやイギリスでは、一九九〇年前後より、試験重視、宿題重視の教育改革によって、少なくともペーパーテスト上の学力は大幅に改善しているという。日本国内の深刻な学力低下と、諸外国の学力向上に向けての取り組み。そのコントラストを見せつけられるにつけ、「これでいいのか」という疑念と義憤が私を襲った。
 この事態に対して、冒頭にも述べたように、文部省は平成十四年度から「カリキュラムの三割削減」を柱にした新学習指導要領を施行する。これによって、すべての子供が授業をわかるようになり、確実に基礎、基本を身につけるようになるとされている。
 しかし、現実を見れば、これまでにも一九七七年(昭和五十二年)と一九八九年(平成元年)に学習指導要領が改訂されており、そのたびにカリキュラムの内容が削減されたにもかかわらず、「わからない子」は増え、学力低下は深刻なものとなっているのだ。
 寺脇氏=文部省は今般の新学習指導要領の導入によって、どのように教育を動かし、どう変えていくつもりなのか。そこに勝算はあるのか。日本国家の将来や外国の動向をどう捉えているのか――。
 その真意を質し、また世間の人にも問題の所在を明らかにする、というのが私の狙いであった。それがどこまで達成できたかは、読者の審判を仰ぐほかない。対談内容の詳細については、恐縮ながら、同書をお読みいただければ幸いである。
 本稿では、対談を終えて私が寺脇氏に抱いた意外な「共感」、そして、それでも消えぬ「懸念」について論じたい。
 
大学改革の必要性では一致
 
 まずはっきりしたのは、寺脇氏が、「カリキュラムの削減」と「総合的な学習の時間の導入」だけで子供たちの理解力が高まり、勉強が好きになると楽天的に考えているわけではないということである。つまり、今度の新学習指導要領が「目標」なのではなく、「改革のスタートラインである」と寺脇氏が明言したことに、この対談の大きな意義を感じた。
 「カリキュラムの削減」については、削減したうえで勉強する内容がミニマム・リクワイアメント(最低条件)であることを寺脇氏は何度も強調している。そして、ミニマムであることがはっきりすれば、それがきちんと到達されているかどうかをチェックする評価システムや高校の卒業試験を行うことの検討が必要だとも述べた。
 「総合的な学習の時間の導入」にしても、「創造性」や「生きる力」が育まれるという楽観論だけではなく、その導入によって、教師が授業を公開せざるを得なくなったり、競争原理に晒されるという説明は説得力があった。
 この件についての寺脇氏の説明を要約する。
 たとえば、子供が通っている学校に私が赴き、「今日、この時間にうちの子は何を教わっているのか説明してほしい」と聞いたとする。すると学校側は、「いまはこの単元で、教科書はこれを使っております」と簡単に説明できる。ところが、「総合的な学習の時間」の場合は教科書がないので、「何を教えているんだ」と聞かれれば、実際の授業を見せざるをえない。となると、「総合的な学習の時間」をでたらめな遊びの時間にしている教師か否かが容易に判別される。
 これに、東京・品川区が実施しているような学校自由選択や新規参入が活発化すれば、「子供を遊ばせ放題にしているような学校には行かせない」とか「学校に税金を拠出するのはいやだ」という親が増えてくる。必然的に、教師も学校も自己改革を余儀なくされる――というわけだ。
 なお、寺脇氏はこうも断言している。
 「はっきり言いましょう。学校システムも変えず、教師の評価システムも変えずに今度の指導要領を取り入れたら、大失敗します。文部省としては、学校改革と教師改革と、それから今回のカリキュラム改革と、セットで考えているのです」
 これまでの寺脇氏の著書を読むかぎり、そのような話は見えてこない。そこを問うと、「私が前に本を書いたのは二年前ですから、まだそこをはっきり申し上げられるだけの準備が整っていなかった。今年の春からは、『カリキュラム改革』の次は『学校改革』『教師改革』だと文部省も明言しています」と説明してくれた。
 競争原理や情報公開というのは、私もかねてから主張してきたので、異存はない。いじめの問題にしても、教師の不祥事(あまりにひどい偏向教育もそれに含めてよいだろう)にしても、起こること以上に、隠蔽体質のほうが問題であると私は考えているので、これを一掃する手段は競争原理と情報公開の導入以外にない、と私は信じている。
 寺脇氏の考えは左翼思想ではないか、という声がある。私も彼が広島県教育長時代の実績を認めるつもりはないが、“日教組と談合している”といった見方は的を射ていないのではなかろうか? むしろ、これまで日教組に手を焼いてきただけに、彼らが、改革を行う際に並べそうな言い訳を先回りしている――むしろ、そんな感覚を私は抱いた。
 われわれが最大の意見の一致を見たのは、大学改革の必要性である。分数ができない大学生の存在に象徴されるように、学生の質が低下しているのであれば、大学が変わるしかない。ところが実際には、独立行政化に反対したり、東大がロートル教授の定年年齢を六十五歳に引き上げるなど、およそ改革とはほど遠い事態が進行している。
 入学試験の科目を減らしたり、人気取りのためにタレントを“一芸入学”させるという状況に至っては、堕落の極致というほかあるまい。少子化の進行によって生徒集めに大学が汲々としている事情はわからなくもないが、そのために入学のハードルを下げるのでは何をかいわんやである。
 いい先生を集めて、いい授業をすれば、人気は集まる。そのいい例が大正大学の臨床心理学科である。昨今の臨床心理学ブームのせいもあるが、いいスタッフを集めていることはたしかである。大学自体はさほど人気があるわけではないが、人気のある学部・学科が一つでもあれば、競争で生き残れる可能性は高い。
 また一部の私立大学では、昨今の学力低下を考慮してか、高校レベルの授業内容の補習講座を設けており、学生のあいだでは好評を博しているという。彼らは生き残りをかけて、必死に独自の方策を講じているのである。むしろ、偏差値が高い大学のほうが、地位にあぐらをかいている印象が強い。
 寺脇氏は「いま文部省が考えなければいけないと痛感していることの一つは、日本の大学の教育力の低さ」と述べ、私もそれに同意した。
 
実証的なデータに基づく改革と言えるのか
 
 そうした議論を重ねていくうちに、さんざん批判を書き回ってきた私との対談を快く引き受けていただいたことを含めて、多くの点で人間・寺脇研に魅かれていったのは事実である。また、教育の方向性についても学んだことは多い。
 しかるに、私の「懸念」は消えない。
 同書の「対談を終えて」(あとがき)でも書いたことだが、あえて再論する。
 先に触れたように、寺脇氏は、高校の卒業試験も検討すると述べた。だが、その実施は、二〇〇二年度に小学校入学した児童の高校卒業時だという。これだけ学力低下が問題にされ、家に帰ってから一秒も勉強しない子供が急速に増えるなか、そんな暢気なことが言っていられるのか。「ゆとり」や「総合学習」を導入したからといって、そんなに簡単に教師改革につながっていくのか。
 そしてそれ以上に、今回の改革にしても、実証的なデータに基づくものではなく、あくまでもアイディアを実行に移しただけで、外国の教育改革の(少なくとも学力面での)成功例にならったものでないだけに、さらなる学力低下をはじめとする非常な危険が伴うのではないか。
 まず始めてみないことには変わらない、と寺脇氏は言う。だが、到達度テストの実施や、予備校や塾に見られるようなわかりやすい講義や教科書など、やる気になればすぐにでも始められることは多数あるはずだ。
 これまでに文部省が「『学力低下』を裏付けるデータはない」と強弁してきたのも、「ない」のではなく、「調査をしていない」というのが正確だろう。たとえばアメリカの教育省であれば、まず実態調査をしたうえで、「事態はこれだけ深刻だ」と国民を啓蒙する。
 寺脇氏は、カリキュラム削減はもともと国民のみなさんが望んだことだと言う。それは事実である。カリキュラム削減も、今回が初めてではない。一九七七年、一九八九年の指導要領改訂に続いて、今回が三回目である。「ゆとり」というスローガンも当時から使われており、今日ほどの反発はなかった。
 「われわれ役人はみなさまの要望に応えているだけです」と言われれば、反論するのは難しい。
 しかし、「暴論」と非難されるのを覚悟で言えば、国民が望んだことであればよしとするのか。
 他省庁の例でいえば、原子力政策などは、これまではどれだけ住民が反対してこようが、強烈に進められてきた。河口堰が住民の安全のために必要とあらば、マスコミに批判されても設置した。防衛政策もしかりである。それは政治家の仕事だと反論されるかもしれないが、少なくとも、役所が国益を最重要視することによって国民を救ってきた例は少なくないはずだ。なぜ、文部省にはそれができないというのか。
 
世界の方向性に逆行する日本の教育改革
 
 文部省や政治家が音頭をとったところで、肝心の親や子供が教育に対する熱が冷めていればどうしようもないという意見があるだろう。昨今の日本の家庭で「いまどき学力の時代じゃないよ」という勘違いが蔓延しているのは私も認める。総務庁の調査によれば、一九九九年の一世帯当たりの教育支出は一ヵ月平均で前年比七・五%減であり、最高の九四年に比べると、一四%も減っている。サラリーマン世帯の実収入は一%増えているにもかかわらず、である。
 これを「たかが家計支出のトレンド」などと能天気に考えていいのか。「いまどき学力の時代じゃない」という考えを私は「勘違い」と揶揄したが、その論拠は、先に紹介したG8による教育サミットの合意で見て取れるように、諸外国は学力向上に向けて懸命に取り組んでいるからだ。しかも、忘れてはならないのは、日本もその合意に批准しているということである。
 つまり、いくら国民が「学力なんかどうでもいい」と言ったところで、国際社会の一員であるわが国は、世界に約束したのである。もちろん、その約束は国益に適うからに他ならない。百歩譲って、「国が決めたことなんて関係ない」と強弁する人がいたとしよう。
 だが、そうしたところで、国際競争の速度がスローダウンするわけではない。世界はすでに、走り出しているのだ。その点、教科学習(特に理数系)を削り、学力の基本を「ペーパーテストより『生きる力』だ」と主張したり、アメリカでの教育現場でマキシマムと勘違いされやすいために廃されたミニマム・リクワイアメントの考えを導入するといった日本の教育改革の方向性は、世界の方向性とはまったく逆行していることを強調しておきたい。
 その点について、対談の最後に、私は寺脇氏に質した。以下、該当部分を抜粋する。
 
 和田 最後に危惧を一つ言わせていただけるなら、なんであえてアメリカやイギリスの教育改革と違う方向を日本が特別に打ち出したのかなということなんです。
 寺脇 それはわかりますよ。
だから、そこは国情の違いで、ひょっとすると、アメリカやイギリスにも和田さんみたいな人がいて、なんで日本のやり方を真似するんだと言っていたかもしれないんですね。日本はそれで自殺とかいろんなことが起こっているらしいじゃないかと。だから私は、たかが外国、されど外国だと常に思っていますが。
 和田 もちろんアメリカやイギリスを絶対視するつもりはないけれども、日本だけ別の方向というのは危険だと感じるのです。
 寺脇 おっしゃる通りです。
だから、その心配というのは常に見直していかなきゃいけないし、そういう意味でG8もそうだし、この間もOECDで世界の評価方法について議論する会をやったみたいに、国際的視野で点検し、議論をしていくということは、私もぜひ必要だなと思っておりまして、そこはお約束をさせていただきます。
 和田 ぜひ、そうしていただきたいと思います。
 
 最後の私の科白は、心底からの願いである。議論をし、活字になった以上、寺脇氏がご自分の言葉に責任を持たれる方だと私は信じている。
◇和田 秀樹(わだ ひでき)
1960年生まれ。
東京大学医学部卒業。
東京大学医学部付属病院精神神経科助手を経て現在、一橋大学経済学部非常勤講師、東北大学医学部非常勤講師、川崎幸病院精神科顧問などを務めるかたわらマスコミにて積極的な言論活動を展開している。精神科医。


 
 
 
 
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