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1997/06/17 毎日新聞夕刊
[この人と]元日教組委員長・槙枝元文さん/2 文相には一定の見識を
 
▼自民党議員や大臣との水面下のやり取りは組合運動の士気や立場を考えると公言できなかったのですね。
−−そうねえ。でも、大臣には官僚に内証で会わなければしようがなかった。海部俊樹さん(新進党前党首)の場合は、文部大臣の発令前夜に「よろしく」と家に電話があった。当時は文部省の担当課に大臣との会談を申し入れても、それを大臣に上げんわけだ。だから、海部さんにはその晩に家に電話するんだ。すると「そうか、いつがいいかなあ」と、互いに手帳を見ながら日程を決める。そういうことはよくあったね。日教組の50周年記念レセプションで久しぶりに森喜朗さん(元文相)に会った。昔は大げんかした仲だが、話はできる人だったな。
 
▼民間の永井道雄文相誕生の舞台裏には槙枝さんの存在があったのではないですか。
−−三木武夫さんが総理になる半年ほど前にこういうことがあった。三木さんから「非公式に会いたい」と。国会裏の小料理屋で昼食会をした。小派閥だから三木さんが総理なんてだれも思っていないころです。三木さんは下座で動かず、私を上座に座らせて、10項目の質問を出してきた。その一つに「文部大臣にはどんな人を選んだらいいのか」というのがあった。僕は「順番待ちで大臣になるような人は絶対避けてほしい。時の政権政党の文教部会で作ったことを行政でやらせる形になってきた。これが大きな間違いだ。私が望むのは一定の見識を持つ人で、学者か文化人。政党人じゃない人を選ぶことを提言する」と進言した。その後、三木内閣が誕生し、永井さんが文相になった。久しぶりだよ、学者をもってきたのは。「あの時の話を三木さんは頭に置いてくれとったのかなあ」という感じもした。私としては、三木さんがそう思ってしたかせんかは別として、異例なことだけど「永井文部大臣を歓迎する」というコメントを発表した。新聞は「日教組委員長が文部大臣を歓迎」と大見出しだ。自民党内で大騒ぎになったらしい。
 
▼永井さんに聞くと、「槙枝さんとは気持ちは通じ合っていた。私と日教組は周囲が思っているほど敵対はしていなかった」と述懐されてましたよ。
−−実は永井さんとは毎週、ある曜日を決めて会っていた。公式的には月1回だが、国会の裏のホテルでまったく非公式に朝食会をね。彼とは「学力中心の詰め込み教育じゃいかん」と意見が一致した。「教育課程を抜本的に変えよう」と。実現はしなかったが……。主任に手当を出して中間管理職をつくろうという主任制をめぐり決裂してね。教員を序列化するなんてとんでもない。でも、導入は永井さんの意思ではなかった。永井さんは「僕は主任制を入れないから」と話していたからね。(つづく)
<聞き手・城島徹、写真・西村剛>


 
 
 
 
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