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1998/11/04 読売新聞朝刊
[論点]高校学力検定で教育再生 橋爪大三郎(寄稿)
 
 教育制度の矛盾が今、高校に集中して表れている。
 戦後教育は、六・三・三・四制で半世紀やってきた。その間、高校進学率が飛躍的に高まり、96%に達した。義務教育は実質的に、十二年間に延長されたと言ってよい。
 けれども制度上、義務教育は九年間のままなので、中高のカリキュラムは途切れている。入試もある。中高一貫にしようにも、小中学校は市町村、高校は都道府県と、設置主体が異なっていて、簡単ではない。
 高校全入は結構なことだが、その反面、極端な学力低下が起こった。
 高校入試は、一定の学力を保証しない。戦後すぐとは違って、進学率が上昇したいま、成績の悪い生徒でもどこかにもぐりこめる(輪切り)。上位校からいわゆる底辺校まで、偏差値による序列が確立している。
 この結果、多くの高校で、まともな授業が成り立たなくなった。分数の計算ができない生徒、中一の英語を忘れた生徒。それでもがまんして教室に座っていれば、卒業できる。不本意な思いで進学した生徒は、高校に入ったとたん、それ以上勉学する意欲を失ってしまう。
 高校入試は、なくてよい。
 高校の学力を維持し、高校生に勉学の動機を与えるためには、高校学力検定試験(高検)のような資格試験が必要だし、それで十分である。
 高校の学力低下は、小中学校の落ちこぼれの延長である。なぜ落ちこぼれが生じるかというと、それは、個人差を無視してクラス一斉に、同じ内容を同じ進度で教えるからだ。のみ込みの早い子ども、遅い子どもがいるのは当たり前だろう。それを画一的に教えれば、のみ込みの早い子どもは退屈し、遅い子どもはついて行けない。時間がかかっても、わかるまで教えるのが本当であり、本人のペースでゆっくりやればよい。本人が本人のペースで学んでいる限り、落ちこぼれはありえない。
 クラス単位の一斉授業は、教える側にとって効率的にみえるだけで、教わる側はいい迷惑、効果もあがらない。これまでは、生徒が学校に合わせてきたが、これからは、学校が生徒に合わせる番である。それにはまず小中学校から、個人ごとの時間割、能力別・進度別のクラス編成を取り入れるべきだ。
 そのうえで、高検を導入し高校卒業の資格に代える。高校の成績や卒業証書は、高校が自校の生徒に与えるもの。学力が足りなくても、恩情で卒業させることになりがちだ。一方、高検は、外部機関が行う資格試験。高校でちゃんと教育が行われたかを判定するもので、高校の教師と生徒にとって、共通の目標になる。
 高検のレベルや教科をうまくきめれば、社会が必要とする基礎学力を確保できる。ちょうど自動車の運転免許が、公道に出て自動車を運転する資格を与えるように、高検は、社会に出て産業社会の一員として働くための基礎資格を与える。高検という明確な目標があれば、生徒には勉学の動機がうまれるし、高校は教育機関として活気を取り戻せる。
 高検は、現行の大検を発展的に解消するもので、高校の主要科目(英語、数学、国語、理科、社会)のごく基礎的な内容を出題する。優秀な高校生なら半年か一年で、低学力の高校生でも三〜四年でパスできる程度のやさしい問題にする。
 高検は、高校に大幅な教育の自由をもたらす。高校は、生徒を高検に合格させないとだめだが、その役割さえ果たせば、あと何を教えるかは高校の自由である。大学進学の準備に、もっと高度な内容を教えてもよいし、低学力の生徒のために小中学校の教科を復習してもよい。さまざまな資格を取るコースや職業教育コースを設けてもよい。そうしたプラスアルファの魅力に応じて、生徒は高校を選択する。そしてめいめいの学力と必要に応じた教育を受ける。
 高検は、小中学校教育にもよい影響を与えよう。小中学校は、出席していれば卒業できるが、その先に高検という関門があるから、勉強にも身が入る。いっぽう不登校や中退の生徒にとって、高検は、その先への道が開ける希望となる。社会人の人びとにとっても同様だ。
 高検が定着すれば、出身高校は意味を持たなくなる。大学入試をなくして書類審査にしても大丈夫だ。こうして高校が、生徒一人ひとりを大切にする教育の場に生まれ変わることで、日本は再生のきっかけをつかめるに違いない。
◇橋爪 大三郎(はしづめ だいさぶろう)
1948年生まれ。
東京大学大学院修了。
東京工業大学助教授を経て現在、東京工業大学大学院教授。

 
 
 
 
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