日本財団 図書館


2000/09/28 産経新聞朝刊
【正論】評論家・秀明大学教授 西部邁 大人たちこそ教育が必要だ
 
◆人間と制度の相互依存
 平成の諸改革がおおよそ失敗に帰したのは、人間改革なき制度改革はしょせん「制度いじり」に終わるからである。しかし同時に制度改革なき人間改革も、結局は「心構え」を表明するにとどまる。そして、この人間と制度の相互作用が死活の重みをもって現れてくるのは教育の場においてであり、だから平成改革は、必然のこととして、教育改革に辿(たど)り着くほかなかった。振り返ってみれば、大日本帝国憲法に教育勅語が、そして日本国憲法に教育基本法がそれぞれ伴っていたのも同種の必然なのである。
 それゆえ、本来ならば、次期国会が教育国会となることの意義はまさに歴史的なものだといわなければならない。しかし、教育改革国民会議からその改革の目玉として出されている「社会奉仕の義務化」と、森内閣の狙っている「教育基本法の改正」とは、巷間(こうかん)に伝えられているところをみるかぎり、正体不明のそしりを免れえない。そうなってしまう最大の原因は、この国民会議や内閣においてのみならず戦後日本社会そのものにおいて、権利と義務の観念が激しい不協和音を奏でつつぶつかりあったままでいるという点にある。
 そのことが「社会奉仕の義務化」をどう受け止めるかに端的に示されている。つまり、サーヴィス(奉仕)はヴォランティア(志願者)の行為であるべきで、それを義務化するのは不適当である、という疑義が高まり、またそれへの有効な反論もまだ提出されていないのである。
 
◆公益の奉仕は義務とみよ
 権利観念の肥大化した戦後日本人にあっては、「奉仕は義務である」という簡明な真実が理解されていない。何らか(崇高とまではいわぬまでも)健全な価値を共同のものとして保有している国民なら、その価値へのサブジェク(臣下)となることによってはじめてサブジェクト(主体)となりうるのだと了解する。いいかえれば、その共同価値へのサーヴィス(礼拝と服従)を誓いかつ勤めることがサーヴィス(奉仕)なのだと受け止める。そのとき、共同価値への奉仕義務を自発的に果たしてこその健全な国民である、という良識が確立されることになる。
 その共同価値をとりあえず公益とよぶことにしよう。自分の個的かつ私的な「欲望」に主体性や自発性の根拠を求めてきた戦後日本人には、公益の観念が不足しており、それゆえ社会奉仕は「自発的義務」であるという思想の論理がとらえられない。それもそのはず、戦後日本で公益とよばれてきたものは、国民のうちの多数派の欲望のことにすぎなかったのである。つまり、そこで共同の価値と偽装されてきたのは、現在世代のうちの多数者の利益であって、過去世代からいかなる共同利益の枠組み(国柄)を受け継ぎ、それを未来世代にいかに引き渡すかということではなかったのだ。
 平成改革もこの線で行われてきた。規制緩和の名において市場主義をふくらませてきたという経緯に露骨にみられるように、日本の「大人」の社会は、今、「欲望」を活性化させること以外には何の目的を見いだしていない。またそうせよというのが、我が国の宗主国であるアメリカの要求でもある。このことに一言の批判を加えないままに、「子供」に向かって「社会奉仕を義務と心得よ」というのは、実に盗人猛々(たけだけ)しい連中だというほかない。つまり、自分らは私益に明け暮れるが、お前たち子供は公益に奉仕せよといってのける、それが我ら大人たちの振る舞いだということになる。
 
◆「権利」でなく「権理」を
 公益の何たるかに輪郭を与えるのはこの国の歴史である。歴史によって運ばれ来たった慣習の体系とそこに保蔵されている伝統の英知、それが公益の枠組みを定める。したがって、歴史慣習の伝統をないがしろにする国民は、そんなものを「国の民」とよぶべきかどうかはここでは問わないとしても、公益に奉仕する義務を自己の人格のうちに組み込むことができない。彼らが追い求めるのは、権利であって(福沢諭吉の命名による)「権理」ではありえない。
 公益というものの持っているライト「正しい」理(ことわり)に沿うべく自分の行為を権(はか)ること、それが権理(ライト)である。そういうものとしての権理は、(健全な)社会の全域に通用する正義であるべきだから、ふたたび諭吉にならっていえば「通義」でもある。
 教育基本法がただちに廃棄されて然るべきものであるのは、そこで最大限に持ち上げられている「自主的精神」に歴史・慣習・伝統の裏づけがないからである。その裏づけをさらに破壊する恐れが大であるIT(情報技術)革命などに、(戦後教育の申し子である)日本の大人たちは熱中している。
 そうしておきながら、自己不安に駆られてのことであろう、子供たちにたいして、日本の歴史や伝統にも敬意を払え、そうさせるために教育基本法の改正を行うぞ、と宣(のたま)う。これ以上の破廉恥はめったにみられるものではない。権理通義に反しているこの大人たちにこそ教育基本法が必要なのではないか。(にしべ すすむ)
◇西部 邁(にしべ すすむ)
1939年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
東京大学教授を経て、現在、秀明大学教授。評論家。


 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION